part2

第1話 禁じ手

 汚物処理場に倒れている青年が目を覚ました。


 拳一つ分、後ろに下がっていれば、斜面を滑り国の外へ落ちていただろう。


「……ぁ、がぁ」

 と、全身の激痛に思わず声が漏れる。


 さっきから腹の内側に響いている低い音が、彼の意識の覚醒を手伝ったのかもしれない。


 ……しかしその音は、苦痛を伴っているようにも感じられた。


「なん、だ……、なんだよこれ……――なにが起こってんだッッ!?」


 ディンゴの瞳に映っているのは、町を包み込む真っ赤な揺らぎだ。

 汚物処理場は町から少しはずれているため、火の手が届いていない。

 町の人々が嫌悪したことで、離れた場所に作ったのが幸いした。


 もしも落下地点が町中であれば、意識を失っている間にディンゴの体は焼かれて灰になっていただろう。


「――姫サン!!」


 火の手から逃げるように町の外側へ向かう人々とすれ違うように、ディンゴが国の中心に建つ王宮へ一直線に駆け出した。

 途中、救助活動をしている仲間の騎士に声をかけられたが、ディンゴは相手にせず、視界を遮る火の手と共に払いのける。


 最優先は姫様だ。


 だが、思えば姫様は、最初に救出されているはずだ。

 危険を冒して王宮へ向かったところで、既にもぬけの殻である可能性の方がずっと高い。


 それならそれでいいし、そうであってほしいと思っている。いざ辿り着いて誰もいなければ、ディンゴがただ損をしただけの話だ……それに越したことはない。


 この火の手が、悪意が絡まないただの偶然による事故であれば、ディンゴもここまで必死になって念のため確認に向かうこともなかっただろう。……しかし、気になるのがあの酔っ払いの存在だ。ディンゴを町のはずれまで殴り飛ばした男の目的とは――、


 ……復讐、と言っていた。


 それによって引き起こされたこの状況ならば、

 姫様の安全が保証されていると考えるには、不安過ぎる。


 ディンゴは気付けていなかった。姫様だけを真っ直ぐに見ているせいで、周囲に気を配っている余裕がないのだ。……異常事態は町だけではなく、騎士たちの態勢にもある。


 統率がまったく取れていない。


 右往左往するのは仕方ないが、指揮系統が機能しておらず、目についた犠牲者をとりあえず助けている。見捨てるわけにもいかないので騎士の選択は間違いではない。

 ……が、比較的軽傷の人を助けるのに、多くの人員が割かれている。


 限られている力の配分が間違っているのだが、それを正すための、俯瞰して見ている統率者がいないのだ。


 そう――、つまり、王の不在である。


 ディンゴは、まだその事実に気付いていなかった。



 王宮の火の回りは町に比べて遅いようだ。足の踏み場もなかった町中とは違い、火の手はあるものの、先が確認できる見通しの良さである。


「……姫サンの靴……」


 片方のみが、階段の下に落ちていた。

 階段の先を見上げれば、王宮か教会にしか設置されていないステンドグラスが割れて、破片が踊り場に散らばっている。


 靴を拾って階段を上がり、まず確認するのは姫様の部屋である。

 しかし部屋の中には誰もいなかった。次に隣の部屋……、誰もいないことを確認した後、また隣の部屋……、そうして繰り返していく内に、ある一室にて、倒れている人影を発見した。


 地面に燃え移った火に囲まれた中心地で、仰向けになって目を閉じている姫様だ。


「――姫サンっ!」


 足下の熱さなど、感じていないかのようにディンゴが姫様の元へ駆け寄った。


「起きろ姫サン、こんな事態になってるのにのんきに寝やがって――」


 ディンゴの言葉に呆れが混じっていたのは、彼なりの現実逃避だったのだろう。

 気付いた答えを必死に覆い隠したかったのだ。


 ディンゴの手が、姫様の頬を触れ、冷たさを感じ取る。

 唇を指先で撫で、無呼吸であることを確認した。

 姫様の胸へ指を下ろし――、鼓動が止まっていると、


「…………起きろ、姫サン。逃げんぞ。背負ってやってもいいが、あんたも自分の足で走ってもらわないと越えられない障害があったりするんでな――」


 姫様の光り輝くような金色の髪は、今は不思議とくすんでいるように見える……。


「おい、姫サンが気にしてる小さい胸を触ってんだ、さっさと変態、って叫んでくれよ」


 部屋の火が時間と共に侵食してきている。

 膝ほどまでしかなかった火の高さは、今では人間大の壁となるほど増加していた。


「…………いい加減にしろ、面倒だからって、寝たふりかましてんじゃねえ」


 見逃すことの方が多いディンゴだが、今回に限っては起きてもらわなければ。

 でないと国王に注意を受けるのはディンゴだ……、

 いや、叱られるのが嫌なわけじゃない――ただの、彼のわがままだ。


「……おい、いくな」


 初めて。

 ディンゴは逃げ続けていた現実と、向き合い始めた。


 ――分かっていた。


 姫様は寝たふりをしているわけじゃない、目を覚まさないほどのショックを受けて、意識を失ったわけでもない。彼女はここにあるが、しかしもういないのだ。


 呼び止めてもその声は届いていないのだとしても、ディンゴは声を荒げて、


「いくなッッ、寂しいから誰もいなくならないでって泣きながら言いやがったくせに、お前が先に逝っちまうなんて――お前が先に約束を破ってんじゃねえかッ!」


 一生、あなたに仕えると約束をした。


 その一生は、ディンゴのではなく、姫様のものだ。


 つまり、どちらかが先に死ぬことはあり得ないのだ。


『先に死んだら許さないから』


 成長をして口に出して寂しいとは言わなくなった姫様の、強がらない言葉を思い出す。


 強がっているように見えて、直接に近く、寂しいと言った珍しいセリフだ。


『へいへい、じゃあ姫サンも先に死ぬなよ』


『当たり前でしょ。……というかきちんと守りなさいよ、近衛騎士さーま』


 小馬鹿にした言い方で舌を出す、アリス姫の生きた姿を幻視する。


「……俺が、負けたから――」


 どこの馬の骨とも知らない男に負けたせいで、ディンゴは姫様を救えなかった。


 傍を離れなければ良かった。

 ずっと近くにいれば良かった――後悔だけが募っていく。


 ……なにが最強だ。


 英雄に勝ったとは言え、全盛期を過ぎ、衰えた老体を負かしただけだ。


 周りにおだてられ、有頂天になって、自分が強いのだと誇示して――だがどうだ?


 侵入者の一人に敗北し、あまつさえ、国の危機に気付いたのは、崩壊してから終盤のことである。動き出した時には死者は多数、無傷でいる者の方が指で数えられるほどしか残っていないだろう。それもやがて減少し、いずれはゼロになる。


 国も、人々も、姫も――なにも守れていない。


 なにを勘違いしていたのだと吐き捨てる。


 所詮は人間の力だ、強さには上限がある。


 今、国を背負ってくれている竜にはどう足掻いても勝てないのだ。


 自覚しよう――、


「俺は、弱い」


 だから頼りたくなる。

 たとえ叶わぬ、理想なのだとしても。


「いかないでくれ……っ、いつまでも寝てんな、起きろ、アリスッッッッ!!」


 姫様を持ち上げ、力強く抱きしめる。

 あわよくば密着する自分の心臓の鼓動が、姫様の心臓が再び動き始めるきっかけになる、なんて都合の良い奇跡を期待しながら――、


 ディンゴの瞳から流れた水滴が、姫様の頬に落ちていく。



 その一滴が、大きな力の象徴である広い水面に、波紋を作ったのかは分からない。


 しかし少なくとも。

 静かに沈黙していた事態が、善し悪しはともかく、動き始めたのは事実だった。


 背後の気配に気付いたディンゴが振り向いた時――、赤髪の魔女が誘う。


「生き返らせてあげよっか?」

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