第8話 酔う拳
ふらふらとした足取りで立ち上がるディンゴ。
そんな状態では体重の乗った拳も相手には当たらないだろう。
だからディンゴに気付いた男も、慌てる様子もなく、冷めた目を向けて距離を取ろうとしていた。弱々しく伸びるディンゴの拳が、途中で開いて男の服を掴む。
「往生際が悪い……」
離れる男を待てと止めたわけではない。これは目印だ。
未だ不安定な足取りの中で、拳が当たらないのは分かっている。
なら、支えと共に対象物を掴んでしまえば、軌道は既に確保されている。
「逃がさねえよ」
限界まで絞った僅かな力で拳を振るう。
目印のおかげで、後先考えないディンゴの拳が男の頬に突き刺さった。
……の、だが、
しかし、まるで手応えがない。
そう、人の形をした泡を殴ったような――。
「ぁ、あぁ、重い一撃だ……今ので、全て持っていかれると、は、思わなかった……」
男の声が遠くから聞こえてくる。
近くにいたはずの男が、なぜか店の中から出てきた。
「補充、し切れていな、いが、ひっく、充分だろう……、さて、次、は、俺の番だ――」
笑みを見せる男の頬が、さっきとは違って紅潮している。
ゾッ、とディンゴが身の危険を感じた。
逃げるとは言わず、一時撤退をするにしても、いつの間にか周りには多くの観衆が集まっていた。理由がどうあれ、一度退いてしまえば、それはディンゴが負けを認めたと勘違いされてしまうだろう。
ディンゴの敗北は、彼以外の騎士に多大な影響を残してしまう。
騎士最強、つまり国の中でも最強の男だ。
そんな彼でも勝てない相手がいるとなれば、挑む勇気も折られてしまい、士気に関わる。
逃げられない。
だが、ディンゴは逃げるべきだったのだ。
最悪の事態を免れるためには、多少、士気に関わったとしても、一旦は自分の身の安全を確保するべきだった。
腹部のダメージが時間と共に緩和されていたのも、彼をその場に留める手助けになってしまったのだろう。
大局を見ようとすれば、気付いていたかもしれない、見えていなかった選択肢。
そこが先代——英雄との違いである。
「動くなよぉ、動くなぁ……――ひっく」
……なんでまた酔ってんだよ、こいつはッッ!
多少卑怯だが、順番に殴り合うというルールはない(これは喧嘩だ)。
ふらふらとした足取りの男の拳を待つまでもなく、ディンゴの方が先に男の顔面を殴る――連打し、畳みかける――が。
男の上半身が仰け反ったが、それまでだ。
男の片腕がディンゴの胸倉を掴み、酔いの中でも正確に拳を当てるための軌道を確保された。
苦し紛れで出したディンゴの策が、逆に利用された――!
拘束から逃れようとするディンゴの拳が数発、男の顔に当たっているはずなのだが、酔いのせいで痛みが麻痺しているのか、男は怯むことを知らない。
「クソッ、離せ、このッ――」
「残念だぁ、ひくっ。あの魔女を庇うつもりなら、容赦はできないからなぁ……」
ディンゴがこの場から逃げるよりも避けなければならない、最悪の事態とは――、
……簡単なことだ。
誤魔化せないほど明確な、ディンゴの敗北である。
ふっ、と風がやみ、周囲の音が消えたと思えば、視界に広がる巨大な拳一つ。
一瞬の意識の明滅。
その後、白色の光が視界を覆い尽くしたと思えば、空が真下に見えた。
ぐるぐると乱回転する空と町並みを眺めながら――、
ディンゴの意識が、暗闇へ引きずり込まれる。
放物線を描きながら遙か遠方まで飛んでいく人間を初めて見たのか、観衆の時間が、じっくりと数十秒も止まっていた。
その『時』を再び動かしたのは、元凶である男の一言である。
「少し聞きたいことがあるのだが、よろしいですか?」
彼が取り出したのは、特徴を言って画家に描かせた、一人の少女の似顔絵である。
その場の誰もが、たった数十秒の間で酔いが醒めた男に違和感を抱けなかった。
絵の配色は正確、そのおかげか、たくさんいる観衆の中で、数人が手を挙げた。
「その人なら、ついさっき、王宮の方にいきました、けど……」
「そうですか、貴重な情報をありがとうございます」
男が歩き出すと、観衆が道を譲るために左右に散った。
誰も相談することなく、男の脅威に従わせられた行動だと言えよう。
大勢の国民に見送られた男が王宮に向かいながら、ぼそりと呟いた。
「あ。しかし、どっちのことを言っていたのか……忘れていましたね。見た目だけなら同じ魔女が二人いますし……、探していない方の可能性も高いですが、まあいいでしょう」
一度、合流するためにも、王宮へ向かうのは悪くないと、男は進路を変えなかった。
小さな火の手が町を蝕んでいく。
その数は指の数では足らないほど、町の見えないところに散っていた。
やがてその火の手が大きく膨らみ、町を真っ赤に包み上げる。
「はぁ、はぁ……、私は、なんてことを……!」
震える手が掴まれ、びくっと肩を震わせた青年が見たのは、
「――あんた、なにやってんだ、早く逃げるぞッ!!」
見知らぬ男である。
彼に連れられ、膨らんだ末に逃げ道を塞ぐ火の手に惑わされながらも、複雑な町の中を移動して火の猛威がこない場所まで避難した。
火傷を負った怪我人が多い。
親を失った子供が泣き、逃げ遅れた者の悲鳴が建物を隔てた向こう側から聞こえてくる。
『これは命令だ』
と、一人の魔女の言葉を思い出す。
『君の国は僕が握っている、その意味が分からないとは言わせない』
彼女の言葉が続いた。
『君の想い人を射止めるためには一度、全てを破壊してから手を差し伸べてみればいい。不自由なく選べてしまえるから選り好みをするんだ。それしかないなら、きっと君が選ばれるはずだ。分かったならさっさといけ。僕にはもう時間がない――』
膝から崩れ落ちた青年が、大きな火の手を見上げながら、
「申し訳、ありません、アリス姫……っ、ですが」
もう、後には引き返せない。
「必ずあなたを、幸せにしてみせると、誓います」
町が炎に包まれている最中でも、
王宮の中の一室にいれば、その非常事態を知らない者もいる。
「はー、勉強って、しんどいー」
ディンゴを真似した言葉遣いが、いつの間にか使い慣れてしまっていた。
「……あいつ、遅い。いつもはいなくていいって言ってるのに近くにいるくせに、こういう時だけなんでいないのよ……」
拒絶しながらも、いないとそれはそれで不安になるアリス姫である。
「……母様も、すぐ戻ってくるって言ったのに……」
国王の元にいったのは分かっている。呼びにいくこともできるのだが……、あまり父上とは顔を合わせたくないなぁ、と踏ん切りがつかなかった。
しかし部屋にぽつんと一人でいても物足りないし、勉強もどうせ捗らないので、気分転換のためにも母親を呼びにいこうとアリス姫が部屋の扉を開ける。
「べ、べつに寂しいわけじゃなくてねっ」
ディンゴもいないのに言い訳をして、誰も反応しないことに恥ずかしくなった。
……いや、あれ? 誰も反応をしてくれない?
――姫が部屋を抜け出しているのに、誰も止めようとしてこないのはどうして?
「…………」
これは直感であるが、胸の内が引っ掻かれるような痛みを幻覚する、嫌な予感だ。
足早に向かった先は、国王が玉座につく謁見の間である。
大仰な扉を両手で押し開くと――、火の手とはまた違った、赤が見えた。
刺激的な光景である。
「ぅ、あぁ……」
軍衣を身に纏う騎士たちが倒れている。
アリス姫の足下に流れてくる血は、まだ新鮮だ。
水面の波紋のように広がり続けた多くの騎士の血が繋がり、周囲の地面を真っ赤に染め上げていく。足の置く場所がないほど、場が浸ってしまっていた。
その先に、ぐったりと玉座の背もたれに体重を預ける父親と、
まさに今、侵入者によって頭を踏みつけられている母親が見えた。
「……ア、リス…………逃げなさ、い……っ!」
「母様っ!!」
慌てて駆け寄ろうとして、倒れている騎士たちを一瞬の間に忘れてしまっていた。
倒れる騎士の体に躓き、血溜まりへ顔から突っ込んでしまう。
いたたっ、と顔を上げたら目の前に騎士の顔があった。……目が開いたまま、瞬きを一度もしない。悲鳴を上げた口のまま、固まってしまっている。
生気のない瞳に、もう既に魂がないことを実感させられ、アリス姫の背筋がゾッと凍り付く。
「ひっ――」
純白のドレスも真っ赤に蝕まれていく。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………んっ、はぁ、はぁ……――」
全身が震えている。
母親の元へ駆け寄りたいのに、足が動かなくなってしまった。
視線だけを動かし、踏みつけられている母親と目が合う。
「…………お願い、逃げて、アリス……っ」
王女の頭に不遜にも足を乗せているのは、とんがり帽子と黒いローブを羽織った、小柄な体躯をしている侵入者だ。
……格好は、魔女。
言い伝えの物語に現れる、人攫いの特徴と一致していた。
すると、魔女の瞳がこちらを見た。赤い髪を持つ、女性、しかもまだ子供である……という情報が見えていたのだが、アリス姫はそんなことにも気づけなかった。
意識は魔女のさらに奥へ。
「……父うえ……は」
遠くからでも分かる……国王の胸には大きな穴が空いていた。
倒れている騎士たちと同じだ。
目を開いたまま、微動だにしないまま、玉座に腰を下ろしている。
いつも通りの光景とも言えたが、最も大事な魂がそこにはない。
国王は。
既に絶命している。
「安心しなさい、すぐに後を追わせてあげる。あんたも、その子もね――」
「まって、やっ、やめて! 母様を、母様を奪わないでッ!!」
硬直してしまった体を無理やり動かし、しかし足は硬直してしまっているため四つん這いで騎士たちを跨がって、母親の元へ。
そんな娘の健気な行動を、母親が止めた。
「アリス!」
温厚な母親が、初めて声を上げて怒鳴りつけた。
倫理観から外堀を埋めていくように諭す普段とは違い、感情的で直接的な言い方だ。
それほど、切羽詰まっていて、残された時間がもうないのだと悟っている。
「あなたはこの国の、たった一人の姫なのよ? ……後は、分かるわよね?」
「分からないっ、分からないよっっ!!」
「大丈夫。アリスの敵になるような人は、この国にはいないから。だからね――」
……この国のことを頼んだわよ。
それが、頭を貫かれた王女の、最期の言葉だった。
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