幸福の名前


ひどいことを言われた時は、まるで頭の中にどろどろのカレーがつめこまれたみたいに重くなるんだ。


「幸音君、話さないし笑わないし人形みたいでつまんない」


たくさん人にがっかりされた。同い年の子より幼くて頭が悪くて、馬鹿にされることも多かった。


人の前で喋ろうとすると、口の中にガムが粘りついた感じがして上手く言葉が出ない。伝えたいことがあるのに黙っているしかなくなる。


みんなが笑っているのがわからない。きっと楽しいからなんだろうけど、ぼくにとっては楽しいことじゃない。1人だけ笑わないからおかしな目で見られる。


こういう時はこうする、ああいう時はああするっていうのがそもそもわからない。正しいことができるように、誰かがぼくをラジコンみたいに操作してくれたらいいのにな。


心配したママに連れられて病院に行った。名前はわからないけど、ぼくは心の病気らしい。


生まれつきの病気は、いつ治るんだろう。治ったらみんなみたいに普通になれるのかな。パパとママを幸せにできるのかな。


最近になってから秘密の日課ができた。パパとママが寝たあとこっそり家を出て、誰もいない夜の公園で遊ぶ。昼はたくさん人がいるから遊べないけど、夜はぼくだけの公園。


疲れるまでかけ回って、すべり台を何回もすべって、くたくたになったらなんだか涙が出てきた。ああ、ぼくってどうしておかしな子なんだろうって、時々泣きたくなることがある。


丸くて空洞のある遊具の中で膝を抱えて、涙が止まるまで泣く。体を隠せる場所はとても安心する。


「もしもし、誰か泣いているんですか?」


いきなり男の人の声がした。ぼくは泣くのをやめて体をもっと縮めた。


「ぼくは、ゆ・・・・・・ゆきねだよ、あれ? でも、今は違うみたいだ」


「違うとは?」


「だってゆきねはしゃべれないんだ。こうしてしゃべれるのは、夜だからで、きっと今はゆきねじゃないからだ。ぼくは、えっと・・・・・・ゆう君にしておこうかな」


「なるほど、ゆう君ですか。ゆう君はこんな遅くに公園で何をしているんですか?」


どうしよう、どうしよう。知らない人に話しかけられた。何か怖い目にあったらどうしよう。嘘をついたら怒られるかな。だったら質問には正直に答えなきゃ。


「朝、おきてから夜ねるまでいつもぼくのそばにはだれかがいるんだ。ひとりでいるじかんが、ない。ときどき、体が風船みたいにふくらんで、くるしくなる。わかる? おもいきり動き回りたくなったり、さけびたくなったりする。でもそうするとみんなおどろくでしょ? だからがまんしてるの。夜だけは、ぼくの自由時間なんだ」


「そうだったんですね。話してくれてありがとうございます。自由時間の邪魔をしてすいません。僕で良かったらもっとゆう君のこと教えてくれませんか?」


知らない人はとくに何もしてこなかった。それどころか話を聞いてくれたし、喋り方がおかしいと笑わうこともしなかった。


そんな優しい人の名前は、よいのくちさんといった。姿は見ていないけど、日曜日にやっている戦隊ヒーローの主人公みたいに、かっこいい顔をしているんだと思う。


夜の公園の、いつもの遊具の中にいると、時々よいのくちさんが来てくれた。そこで色んなことを話した。ほとんどぼくばかりが夢中に話して、いつの間にか外がうっすら明るくなったこともある。そのうちよいのくちさんの仕事は、人生紹介バンク。人生を人に紹介することなんだって知った。学校のみんなは将来の夢で、おまわりさんとかお医者さんとか言っていたけど、この仕事は知らない。聞いたことがない。


「じゃあさ、よいのくちさん、ぼくの人生をだれかに紹介してよ。大好きなパパとママをこれ以上悲しませたくない、ぼくはひっそりと消えるから、不幸な子がいたらい場所をゆずってあげたいんだ。きっとその方がいいよ」


硬い遊具の壁の向こうで、よいのくちさんのうなり声が聞こえた。


「あのですね、この世界からいなくなった人、これからいなくなる人っていうのは、主に病気や不慮の事故で亡くなる人のことを指すんです。もっと生きたかった人達の、これから迎えるはずだった空白の人生を、僕は紹介しているんですよ。自分で命を絶った人の人生は紹介できないことになっています。事故物件を勧めるのと同じくなっちゃいますから」


「いいんだ、もう、いいんだよ」


「ゆう君」


「ぼくは、つかれちゃったんだ。いなくなった方が、パパもママも楽になるよ。もっと良い子がぼくの代わりになれば幸せだよ」


「・・・・・・お願いだから、どうか、そんなことを言わないでください・・・・・・!」


さわさわと強い風が吹いて、葉っぱがこすれ合う音がした。


よいのくちさんのこんなに辛そう声は、初めて聞いた。胸がどきどきする。ぼく、そんなにいけないことを言ってしまったんだろうか。


「あの、よいのくちさんは、どうしてその仕事をしているの?」


気まずい空気を何とかするために、ぼくは機嫌をうかがいながら尋ねた。


「大好きな友達がいたんです。その人は、自分で天国に行ってしまったんですよ。優し過ぎて、人の代わりに自分が傷つくような、そんな人でした。あなたはかけがえのない人だって、いなくなってはいけないんだって、ちゃんと伝えられていたらそんなことにはならなかったかもしれない。だからこの仕事は罪滅ぼしです」


人の気持ちがわからないの? 冷たい目で言われた言葉を思い出す。


クラスのみんなで可愛がっていた金魚が死んじゃった時も、クラスの女の子が転んで泣いちゃった時も、ぼくは表情1つ変えず何もしなかった。というよりできなかった。


心の中では動かなきゃと思うのに、動いた結果間違ったらどうしようって、失敗することばかり考えて、結局突っ立っているまんまだ。


僕だって悲しい人を見たら悲しいし、喜んでいる人を見たら喜ぶ。ただ、表現できないだけなんだ。


「よいのくちさん、泣いてるの?」


「いえ、泣いていませんよ。どうして?」


「ううん、そんな気がしただけ」


ひょっとしたら声を出さず静かにこっそり泣いているんじゃないかと思った。ここから出てよいのくちさんの瞼に触れば、泣いているかどうかすぐにわかる。でも、嫌われたくないからそうはしなかった。


お互いの姿を知らないまま、何日もそうして過ごしていた。ぼくの人生を誰かに紹介してほしいという願いは相変わらずで、会う度に「ぼくのじんせいをあげる子は見つかったの?」と聞いてよいのくちさんを困らせた。まるで人生紹介のことを教えなければ良かったと後悔している風だった。


変わらない毎日が続いた、ある日のことだった。


「パパ、今日病院に行ってきたんだ。癌って病気なんだって。幸音とママといられる時間が短くなるかもしれない」


学校の帰り道、偶然パパを見つけた。パパはひどく落ち込んでいて、低い声でぼくにそう言った。


ぼくは黙ったまま指いじりをした。でも頭の中では大パニックを起こしていた。


がん? がんって何? どんな病気なの? 痛くないのかな? 治るのかな? ぼくとママといられる時間が、短くなるってどういうこと? パパ、どこかに行っちゃうの? いやだ、いやだ、いやだ!


「でも、一度でいいからパパって呼んでほしかったな。......僕がいなくなったらママと弟か妹を頼むよ」


パパはぼくの頭を撫でた。帰りは手をつないで歩いたけど、ぼくの手が汗でびっしょりだったこと、気づいてくれたかな。


家についてもパパはさっきの話をママにはしなかった。ぼくだけに話したらしい。どうせ喋れないと思ってそうしたのかと、すごく悲しかった。


布団の中に入ってからもずっと眠れずにいた。パパの言った意味を一生懸命理解しようとしたけど、頭が熱くなるばかりでだめだった。2人が寝たら早く公園に行って、よいのくちさんに相談したかった。


夜中。横になっていたパパが起き上がってこっちを見る。ぼくは寝たふりをした。トイレかな? 早く寝てほしいんだけどな。


でもパパもママも眠りが深いから、1度寝たら朝までは絶対に起きないはずなのに。珍しい。


その内、パタンと玄関のドアがゆっくり閉まる音がした。ぼくはそっと布団から出て玄関に行く。パパの靴が、消えていた。


今までなかったことに、またパニックになる。


もしかして、パパはがんに連れていかれたんじゃ?


サァッと体中が冷えていく。気づいたらぼくは裸足のまま外に出ていた。パパの姿はどこにもなくて、ぺたぺたと道路を走り回る。


パパ、パパ。


こんな時にも声は出ない。ゆう君になりきろうとしても遊具の外ではやっぱりだめだった。


足の裏が傷だらけになって走れなくなってきた時、あの公園にたどり着いた。


落ち葉を避けて少し湿った土の上を歩く。1歩進む度、足の裏が痛かった。


逃げ込むように遊具の中へ入った。入った瞬間、耐えてきた涙が溢れてぼくはわんわん泣いた。今までで1番大きな声が出た。


しばらくすると、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。大きな泣き声で近所の人が見に来たのかもしれなかった。


「ゆう君、また悲しいことがあったんですか?」


空から降ってくるような、安心する声。よいのくちさんだった。ぼくはしゃっくりをしながらよいのくちさんにパパがいなくなったことを伝える。


「パパがっ、がんで・・・・・・っ、もう、いられるじか、時間がっ・・・・・・っ、なくてっ、夜に、いなくっ・・・・・・っなって! それで、さが、探しにっ・・・・・・来たけど! いなくって・・・・・・!」


言葉にならない言葉をどうにか出した。わけがわからなくて首を傾げられているかもしれない。


「そうでしたか、お父さんがいなくなっちゃったんですね。大丈夫、僕が探してきます。心配しないで」


「こんなっ・・・・・・つ、辛い気持ちは、初めて、だよっ・・・・・・バカにされたっ、て、無視・・・・・・されたっ、て、こんなに・・・・・・悲しく、なかったよ!」


「よしよし、落ち着いて。約束します、必ずパパを見つけますから」


「本当に? 絶対、だよっ」


「ええ、絶対に。ここで待っていてくださいね。ちなみにお父さんの名前は?」


「・・・・・・ゆきお、幸せに、生きるって、書くの」


「素敵な名前ですね。いいですか、見つけたら2度と人生を人に譲りたいなんて言わないこと。約束です」


「うん、約束、する」


よいのくちさんの足音が遠ざかっていく。やっとぼくは泣き止んでふうふうと息を整えた。よいのくちさんなら、きっとパパを連れてきてくれる。安心して体の力が抜けていく。


そうだ、パパに会えたら、名前を呼べるように練習しなきゃ。


「パパ、パパ」


遊具の天井には丸く穴が空いていて、見上げれば星空が見えた。あの星をいくつ数えたらまたパパに会えるだろうと、眠りそうになりながらずっと考えていた。








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