告げられた終着点

多くの偉人達や天才達、凡人達が物語をつくったために、ありふれた話ばかりが山積みになって「無い話」がなくなった。


僕の話もすでにどこかに「有る」のかもしれない。



植物のような生き方が羨ましかった。働くこともなく何かを強制されることもなく、風に吹かれるだけのあの悠々自適な生き物なりたいと思った。


潰されても折られても根っこさえしっかりしていれば大丈夫。人間とは大違いの生命力。


痛みも辛さも嬉しさも喜びもあるかどうかはわからない、植物は何も語らない。声帯があったら何か教えてくれるかもしれない。


誰にも悲しまれず、または存在すらも認識されず枯れてゆくのは寂しいことだが、よく考えてみればかえって楽なのかもしれない。最初から愛されず生きていたら、後腐れなく旅立てる、今ならそう思える。


他者に命の終わりを告げられて絶望することもない。ただ静かに自分の終わりを悟り、死と向き合う。それが自然の摂理。なんの手も加えず消えるだけ。


僕は人に生まれ息子として、夫として、父としての名称を抱え、そしてその役割を中途半端にしたままこの世を去らなければならなくなった。いつか祖父としての名称も役割もあったのだろうが、それはなくなった。お役御免というわけだ。


というのも、今ほど大きな病院の医師からステージⅣの食道がんの診断を受けた。


食べ物が飲み込みにくいなと感じて、消化器科を受診して検査をした結果を聞きに来ただ。食道がん、大動脈リンパ節と肺にがん転移があって手術は、できない。


5年生存率は、12%くらい。僕のこれからの未来は全部パアになった。


5年と言えば60ヶ月、60ヶ月は約1825日、1825日は44448時間。44448時間は、何秒だ?


僕は難病。なんちゃって。


死ぬと言われてもこんな冗談を頭の中で考えて誤魔化す余裕があるのは自分でも驚きだ。おかしくて笑いそうになる。


40歳になる前には死ぬのか。今まで積み重ねてきた時間を見直して再出発する時期なのに。


今後は笑うどころかやがて会話や食事が困難になって、呼吸もうまくできなくなって痛みも出てきて、そして、死ぬ。死は確実に起こる未来。でも、早すぎやしないか。


嫌だ、死にたくない。未来がわかったらいいなんてほざいていた頃もあったけど、わからないままの方がずっと良かった。病院なんて来ずに病気の自覚がないままバタンと死ねば精神が楽だったのに。


絶望すると頭が真っ白になるとか、真っ暗になるとかいうがそれは嘘だと知った。景色なんて変わらない。いっそのことショックで気を失って全部忘れられたらいいのに。僕の目には、白髪頭でがたいの良いおじいさん医師が映っている。


そうか、僕は命ある限り現実から逃げることができないのだ。


鎖で体をきつく何重にも巻かれているみたいな圧迫感。精一杯肺をふくらませてたくさん空気を吸い込んだ。


そして、吐いた。


「あ、あの……。僕は」


宣告されたことに対して、僕は何かを言い返そうとしてみる。


「ぼ、ぼく、はは」


だめだ、声が震える。喉にバイブレーション機能が搭載されたみたいでおかしい。


おじいさん医師は呆然とする僕の肩に手を置いた。


「数字がすべてではありません、絶望してはいけない。人生をどう生きるかはあなたが決めることです。私は持っている知識を最大限に振り絞って、あらゆる提案をします。最終的にあなたが選んだことを精一杯お手伝いするのが私の役目です。これからする話をよく聞いて」


遥かに年上のこの人よりも先に死ぬのだと思うと、虚しさと怒りが込み上げてきた。でもすぐに消沈した。ただの嫉妬だと瞬時に気がついたからだ。


それから先生は色んな話を、じっくりと時間をかけて教えてくれた。抗がん剤、放射線治療や通院、入院期間、予後について懇切丁寧な説明を受ける。でも、治る確率はあまりにも低いことは間違いなかった。状態に応じて今後緩和ケアも必要になってくる。これからどうしていくのかすぐに返事はできなかったけど、僕は痛いのも苦しいのも嫌だし、病院じゃなくて家にいたい。家族と一緒にいたい。


「・・・生さん、幸生ゆきおさん」


名前を呼ばれてふと我に返る。いけない、ぼうっとして先生の話に相槌を打つのを忘れていた。


「え? あ、はい?」


「大丈夫ですか?」


「ん、何が?」


「いえ、ひどく落ち着いていらっしゃるから」


この人は、今まで余命宣告をした患者から罵声を浴びたり暴力を振るわれたりしていたかもしれない。だから僕のように取り乱しもせず姿勢も崩さず静かに椅子に座っている患者が珍しいのだ。


「我慢せず、何でもおっしゃってください。疑問に思ったことも」


じゃあ遠慮なく。


あの、なんていうか、実感が湧かないです。だって、うちの子…男の子なんですけどまだ小学生だし、妻は妊娠2ヶ月目だし、 僕は33歳だし、家のローンを支払わなくちゃいけないし。生きる意味は十分あるじゃないですか。何で僕なんですかね、人を殺したわけでもあるまいし、何で死ななくちゃいけないんでしょう? 清く正しく生きてきたわけじゃありませんけど、悪いこともそれなりにしてきましたけど、頑張ってきたんですよ。33…33年って、あまりにも短過ぎませんか? ひどいですよ。先生が治せないんなら神や仏に祈ればいいんですか? ねえねえ、何とか言ってくださいよ、僕をほっとさせる言葉をどんどん言ってくれよ、なぁ!


「いや、特には……」


はちゃめちゃなことは心の中だけに留めておいて、僕は頭をぽりぽりとかいた。


「もしかしたら間違いかもしれないので、セカンドオピニオンを受けます」


嘘。セカンドオピニオンは今受けている。最初は自宅から近いクリニックに行った。でもクリニックでも同じ診断をされた。頼みの綱がここだったのに。やっぱりだめだった。


セカンドオピニオンなんて、名医と噂されるベテラン医師に向かって侮辱的なことを言ってしまった。顔を真っ赤にして診察室から追い出してくれれば、僕は怒鳴ったり騒いだりして思いっきり八つ当たりができたのに。

はっきり言われた先生は苦笑いをするだけで、カルテに記入をしていく。


「そうですね、私も間違いであってほしいです。ご家族にも病気のことは、きちんと話しておかないといけません。私より信頼出来る医者がすでにいるならば、その方に説明してもらってもかまいません。でも、もしもね、困ったことやこれから生活していく上で周りに言いにくいことがあったら、どうしようもなくなったら我慢せずに私のところに来てください。決して独りで戦おうとはせずに」


命とアンパンがもし一緒だとして、この人は自分のアンパンの欠片を迷わず他人に与える人なんじゃないかと僕は考えた。


なぜアンパンなのかは、先生がふとヒーローに見えたから。それだけ。


先生の目は優しかった。急に自分が情けなくなって、数秒も目を合わせることができない。


もう少し早くこの人に出会いたかった。もう少し早く受診していればまだ希望はあっただろうに。


結局のところ次の病院受診日を予約して僕は帰った。無理言って仕事を早引けしての受診だったので、空はまだ明るかった。


駅のホームは珍しく人が少ない。それもそう、大概の人達はまだ働いている。すかすかの座席を一望して、さてどこに座ろうかと迷っているうちに電車が発進した。バランスを崩してよろめいた。咄嗟にスタンションポールに掴まりしっかり立とうとするが足に力が入らない。膨らんだ風船の空気が抜けていくように、僕の体は縮まっていきやがてしゃがみ込んでしまった。


ふぅ、ふぅ。


息がしずらい。


「死……」


今更、余命宣告を受けたことにびっくりしている。うずくまると胸と顔の距離が近くて心臓の音が速く大きく聞こえた。


静まれ、静まれ。


目を閉じて他のことを考えた。大好物の焼き鳥と妻が作った料理を食べること。息子の世話もしなくちゃいけない。気になる映画の公開日が近い。まだやることが山ほどある。ああ、楽しみだな。


次第に落ち着いてきた。他の乗客は僕を気にかけることなく端末をいじったり居眠りをしていた。


僕がここにいてもいなくても、生きていても死んでいてもこの世界には何の影響もないってことが目に見えてわかった。


どんな世界だとしてもまだ僕は生きている。なるべく長く生きられるように、体に負担をかけないようにしなくちゃ。


僕は這うようにして座席に座り一息ついた。

電車の速度がいつもより遅く感じる。


秋。外は雨が降っていて、雨粒が窓ガラスにぶつかっては線を描いて下に流れていく。なんて陰気臭い演出。一刻も早く帰りたい。


家に帰れば、妻と息子が待っている。


「おかえり」


家に帰ると妻が台所で料理を作っていた。来年の6月には娘が生まれる予定だ。6月というと、8ヶ月後。もしかしたら2人目の子がこの世に生まれ、僕がこの世を去る月になりうるかもしれない。


誰かが言っていたな、地球に住むには人数制限があるから死が存在するって。そりゃあ生まれてくる子のために死ななければいけないというなら、それは本望だけど。これじゃああまりにも一緒に過ごす時間が足りない。


新しい年を迎えることも、子を見ることもできずに死んでしまったら。強烈な悔しさが舌を強く噛むという形で現れて、気づいたら口の中は血の味がした。


年が1つ上の妻の名前は幸絵ゆきえ。僕と同じ幸の文字が入っている。息子にもその字を入れた。深い意味なんてない、ただ単純に幸せを願って付けただけ。僕と彼女の両親も、同じ想いを込めて名付けてくれたのだろう。


「つわりは大丈夫?」


「うん、だんだん落ち着いて食べられるようになってきた」


「それなら良かった」


「病院どうだったの?」


「えっ?」


「仕事早引けして行ってきたんでしょ? 前に行こうとしたら休みだったからって」


いつまでも仕事鞄を片手に立ち尽くしている僕に、受診の結果を尋ねてくる。さっきとはまた違う心臓のドカドカが始まった。


「別に、なんてことはなかったよ」


僕は平気なふりをして鞄をソファに放り投げ、ネクタイを緩めながら冷蔵庫の中にある缶コーヒーを手に取った。2件も病院をまわったことは内緒で、今回初めて受診したことにしている。


「診断名は?」


包丁でまな板を叩く音と僕の心臓リズムが重なる。


「しんだん……。逆流性食道炎だよ。たいしたことはないから薬は出なかった」


「ふうん。なら良かった」


実は食道がんで全身にがんが広がっているんだ。あと余命幾ばくなのかも。2人目の子に会えないかもしれないね。まだ性別もわからないし名前も考えていないのにね。


そんなこと、口が裂けても言えるはずがない。妊婦に精神的苦痛を与えたら、胎児にも悪影響だ。本当のことを言ったら倒れるかもしれない。何より、妻の泣き顔は見たくない。


先生が言った通り、さっそくどうしようもなくなってしまった。病院に駆け込んで先生に泣きつきたくなる。


これまで幸絵に隠し事をしたことがなかった。悪いこともやましいことも一切なかったから。


今日、初めて嘘をついてしまった。愛する人につく嘘は、まるで腹の中に石が詰め込まれたみたいにずしりと重くのしかかる。これが、罪悪感。


病名を診断される前から食欲はなかったが、今では余計に食べる気が起きない。本当は、食べられるうちに食べておきたいが、それも叶わない。幸絵の作る料理は美味い。だから仕事が終わった後は買い食いもせず飲み会も断ってまっすぐ家へ帰っていた。


今日はシチューを作ったらしい。ルウを使わずに牛乳と塩と薄力粉で作る特性のシチューだ。申し訳ないけど、どうしても食べたいとは思えなかった。いつもなら3杯でも4杯でも食べる。でも今食べたらきっと泣く。そんなことをしたら即バレてしまう。ただでさえ、平然としているのが辛いのに。


シチューの香りが漂って、胸が締め付けられる。


あと何回食えるかな。


だめだ、耐えられそうにない。


僕は欠伸の真似をして目をこすった。


「早く帰ったし、たまには幸音ゆきねの迎えに行こうかな」


いつもは幸絵が頃合いを見て徒歩で迎えに行っていた。つわりがひどい妻に任せっきりでいられない。


この暖かい場所からどうにか逃げるために、僕は息子の迎えに行くことにした。


「珍しい。そうね、今は止んでるけどまた雨が降ってもおかしくないから行ってきて。きっと喜ぶよ」


喜ぶわけがないだろうと、僕は気づかれないように鼻で笑った。


あの子が、喜ぶわけないんだ。


幸絵の顔を見ないまま僕は財布をズボンのポケットに入れて手ぶらで再び玄関を出た。


「行ってらっしゃい。気をつけて」


行って帰ってきてという意味が込められた言葉が重い。


いつか、行ったまま戻れない日が訪れる。幸絵はそんなこと知る由もなく、鼻歌を歌っていた。ドアを閉めてから歌は聞こえなくなった。


時刻は16時をまわる。幸音は今頃学校を出ただろう。間もなく集団下校する子どもたちが来る。登下校道にある公園前で合流できるように、僕は濡れたブランコをハンカチで拭いて、乗りながら待ち伏せをした。


独りになると色々考えてしまう。


未だに実感が湧かない。ほんの少しの体の不調が、こんなに大事だったなんて。


今の今、旅立ちの準備をする気にはなれない。家庭とか仕事とかお金とか両親とか、まだまだやらなくちゃいけないことがあるのに。


一体、何から優先的に考えればいいのかわからない。


自分のやりたいこと、それすらもパッと浮かばない。


いつ、体が動かなくなっていつ寝たきりになるだろう。食べられなくなるのは、喋れなくなるのはどのくらい経ってからだろう。


そうなる前に、僕ができることは何だろう。


公園前の歩道を行き交う人達を眺めた。

だらしのない服装の中年男、押し車を押して歩くおばあさん、スカートを短く履いた女子高生集団、人目もはばからずイチャイチャし合うバカップル。あの人達はきっと来年も再来年も生きていけるんだ。


ずるいなぁ。


僕は、両手のひらをしばらく眺めてから、顔を覆った。


ああ、何もかも面倒くさい。何も考えたくない。


どうしてこんなことになったんだろう。どうして僕なんだろう。今まで頑張ってきて結局これか。もはや絶望でしかない。酷すぎて笑ってしまいそうだ。


病気に殺されるならいっそのこと、自殺してしまおうか。


「きゃははは」


幼い声達が、僕を現実に引き戻す。子ども達が来たようだ。


顔をあげて驚く。黒いランドセルを背負った息子が、公園の出入口に独り立っていた。いつからそこにいたのだろう。


幸音。


そう呼ぼうとしたのに、唇が上手く動かなかった。声にならず口から空気が漏れ出ているだけだ。


今、自分は何を考えた? 置いていかれる人間の気持ちをこれっぽっちも考えちゃいなかった。


この子は、自殺した父親の子として生きていくことになってしまう。



何より死んだ後、息子に憎まれるのが恐ろしかった。


いや、そもそもこの子は人を憎むということを覚えられるだろうか。


ブランコから立ち上がって、幸音を連れて帰らなくちゃいけないのに、下半身は鉛がぶら下がっているように重くて腰を浮かせることすらできない。腰が抜けている。最愛の家族と引き離されるという底知れない恐怖が、体を硬直させていた。


そうこうしているうちに幸音の方から歩み寄ってきた。


うつむき加減だった僕の顔を覗き込む。つぶらで輝きのある瞳と目が合った。


途端、硬直していた体は、本能的に動いた。


「幸音」


僕は何も言わず幸音を力いっぱい抱きしめたのだ。いつの間にかこんなに大きくなって。

せめてこの子が成人になるまでは傍にいたかった。


幸音は喋れない。喜びもしないし怒りもしない子だ。


自閉症、そう診断されたのは5年前で名前を呼んでも振り向かず、独りで遊んでばかりで、同い年の子に比べて言葉が遅かった。当時は落ち着きがなかったし睡眠時間も短かったしよく頭を悩ませていたが、通っている特別支援学級の環境も良くて、定期的に病院受診しているためか今はだいぶ安定してきている。


症状は人それぞれ違うらしいが、幸音の場合問題なのは喋らないことと感情を出さないこと。「パパ」と呼ばれたこともなければ、プレゼントをあげて喜んでもらったことはない。これから大人になったらどうなるんだろうという不安は常に付き纏う。


幸音君は他の子より少しゆっくり自分を見つめながら成長していく子なんです。だから焦らずに見守ってあげてください。


そう医者に言われて納得したが、この状況では焦らずにいられない。


幸絵に親としての責任を、役目を押し付けて僕はいなくなってしまう。


どうしたらいいんだろう。


これでは死んでも死にきれない。


薄暗くなった公園で、幸音を膝の上に座らせてブランコを揺らす。喋らない息子に僕は病院でのことを話した。


「パパ、今日病院に行ってきたんだ。癌って病気なんだって。幸音とママといられる時間が短くなるかもしれない」


幸音は何も反応せず、黙ったまま指いじりをしていた。無理もない、まだ小学生のこの子に死の概念は理解できない。そもそも僕がいなくなったところで何も感じないのかもしれない。


今はそれでいい。その方が気が楽だ。でもいつか悲しいって感情を覚えることができたら、いなくなった僕のことを想って泣いてほしい。それだけで充分救われるから。



「でも、一度でいいからパパって呼んでほしかったな。......僕がいなくなったらママと弟か妹を頼むよ」


僕は喋らない幸音の頭を撫でた。そして小さな手を繋いで歩いて帰った。


せっかく幸絵が作ったシチューを食べても味がわからないほど僕は悩んでいた。いっそのこと全部打ち明けてしまいたいと唇が痙攣を起こすが、両手で押し付けて言葉を飲み込んだ。


辛い、の一言だった。


胃のあたりがぐっと押し込まれたようになり、吐きそうになったがせっかくの手料理を無駄にしまいと堪えた。


こんな思いをするなら、愛する人に悲しい思いをさせるなら、僕達は出会わなければ良かったんじゃないか、子も望まなければ良かったんじゃないかと、いよいよ自分の人生観そのものを否定し始めた。


「今日は疲れたから早く寝るよ」


風呂にも入らず僕は自暴自棄になって布団に潜り込んだ。まだ20時だった。


しばらくして幸絵と幸音も寝室にやって来て、やがてすやすやと寝息を立てた。


僕はと言うと、何時間経って真夜中になっても一睡もできなかった。


悩んでいるせいもあったが、寝るのがもったいないという気持ちが強かった。どうせこれから永遠の眠りにつくのだから。できるだけ、目を開けていたい。


起きていたらいたで家庭のこと、仕事のこと、病気のことをゴチャゴチャと考えてしまう。


真っ暗な部屋にいるのが怖い。静か過ぎる夜が嫌いだ。


1秒ごとにどんどん精神が蝕まれていく。


もはや発狂寸前で大声をあげたくなった。息が荒くなっていく。口呼吸を続けたせいで口腔内は乾燥しきっていた。


落ち着け、真夜中に騒がしくしたら2人に迷惑がかかる。


僕はそっと起き上がり台所に向かった。手元灯を付けて、コップに麦茶を注いで飲んだ。ほんの少しだけ気持ちが落ち着く。あまりに静かでキーンと金属音のような耳鳴りがする。リビングの壁に設置してある時計の針の音が微かに聞こえる。


死んだら、何も聞こえなくなるだろうか。見ることも嗅ぐことも喋ることもできなくなる。僕は、どこに行くのだろう。


床に腰をおろして両足を抱えて座り込んだ。こんなところを、幸絵に見られたら心配される。もし見つかったら僕は自分の病気も、残り少ない命のことも全部話してしまう。黙っていられる自信がない。幸絵が起きてこないうちに、立って寝床へ戻らなきゃいけない。わかっているのに、2人の傍にいることが辛くて仕方がない。


通院や入院を繰り返して治療に専念するか、積極的な治療をせず家で家族と一緒に過ごすか。どこで最期を迎えようか。限られた時間の使い方の選択ができない。


治療したら助かるかも。治療しても助からないかも。助からなかったら時間が無駄になってしまうんじゃないか。でも治療しないと死を受け入れるってことだ。怖い。死ぬのは怖い。


どうしてこうなっちゃったんだろう。僕は何か悪いことをしたんだろうか。


早く、どうするかはっきり決めないと。


生きて家族と過ごしたいだけなのに、なぜこんなに難しい選択をしなければいけないんだろう。


幸絵に昔言われた。優柔不断があなたの悪いところだと。そうだよ、僕はソフトクリームはバニラにしようかチョコにしようか大したことないことさえもすぐ決められないほど優柔不断なんだ。それで決めた後には必ず「あっちにすれば良かった」と後悔するんだ。


走馬灯はまだ早いけど、次々と懐かしい思い出が蘇ってきた。美しい過去も苦い過去も今の僕にとっては妬ましさしかなかった。


時間が巻き戻ればいいのに!


考えすぎて頭が熱くなり目の奥が痛くなった。少し頭を冷やそうと物音を立てずにライターを持ってそっと外へ出る。


夜道に光る自販機で煙草を1箱買う。子どもが生まれてから随分吸っていなかった。1本だけ取って、残りは誰かに拾われてもいいように箱ごと取り出し口の中へ戻した。これを拾った人が幸せになれますようになんて聖人みたいな願掛けはしなかった。


人生最期の煙草かもな。


咥えて火を付けると懐かしい香りが漂った。何年吸わなくても美味いものは美味い。


気休めでもだんだん落ち着いてきた。


だが、それも束の間の極楽。


煙草の長さはみるみる縮んでいく。まるで命の時間を表すように。それを見て足先から上へと不安が走る。


時間の流れに逆らう方法を本気で探した。濁流に飲み込まれないように何かしがみつけるもの、ガードレール、バス停看板、電柱。


結果、パニックに陥った僕は電柱にしがみつくという奇行に走った。今が夜で良かった。昼間だったら通り過ぎて行く人に通報されてしまうだろうから。


僕は目を閉じて瞑想する。


ゲームと同じように現実にもセーブスポットがあればいいのに。死にそうになったら電源を切って前の時間までびゅーんと戻ってやり直しがきく。なんて素晴らしいシステム。そうだな、幸絵と出会った日まで戻りたい。そしたらもっと色んな場所に連れて行くし、子育てについてもっと勉強するし、生活習慣ももっと良くするし、健康診断もしっかり受けるし、それから……。


「大丈夫ですか?」


はっと目を開けるとそこには黒いスーツを着た若い男が立っていた。片手にはビジネスバッグを持っている。夜中に仕事帰りとは大変だ。


僕はすぐに電柱にしがみつくのをやめた。まさかこの時間に人が通るとは思わなかった。


「あっ、いえ、大丈夫です。すみません」


顔を覚えられないようそっぽを向いて答える。しかし男は僕に近づいてじっと物珍しそうに眺めた。


「何か悩み事ですか?」


「えっ? ど、どうしてわかるんです?」


「人を見る目があるのが、唯一の自慢でして」


今度は僕が男を眺める番だ。暗闇に目を凝らした。年齢は20代後半くらいだろうか、肌が白いから電信柱に設置された防犯灯に照らされると光って見える。


「そうですね、どこかの医者に不治の病と告知されたばかりで絶望して、真夜中に電柱にしがみつくという奇行に走ったんでしょうか」


これも当たってる。占い師かはたまた未来人か、不気味な男から後ずさり距離を置く。


「い……いかにも、そうです。僕は、末期の食道がんです。あなたは、何者?」


「ただのサラリーマンです。趣味は人間観察です、よろしく」


僕が呆けている間に彼は自販機で煙草を購入しようとした。とっさに僕はさっき自販機の取り出し口に置いた煙草の箱のことを言った。


「そこに、今買ったばかりの煙草の箱を置いたんです。1本しか吸ってなくて、良ければ、あげます。銘柄が好きじゃなかったら悪いけど……」


言われた通り男は足元を見て煙草の箱を拾い上げた。


「ちょうど買おうとしていたものです。良かった、ではもらっておきます」


「またこれから煙草が値上がりするみたいですしね……」


「はは、まるで自分には関係ないって顔していますね」


男は美味そうに煙草をふかし始めた。僕は苦笑いする。


「だって、これからが僕にはありませんし。おかしいですか?」


「いやいや、おかしくありません。でも僕ならあなたの人生を悲劇で終わらせないことができるかもしれません」


きっと僕のような精神弱者は詐欺師にとって格好の餌食となるだろう。まさに藁にもすがる思い。いくら金をつぎ込んでも命が助かるならばその手段を選ばないほど判断力が鈍っている。だからこんな上手くて怪しい話にも希望に輝いた目をして乗りかかろうとしているのだ。


「ほ、本当に? 一体どうやって?」


「煙草の恩返しに教えてあげましょう。僕は、人生を紹介する仕事をしているんです」


途端、防犯灯が点滅する。男の姿が見えたり見えなくなったりした。


「あ、うっかりしていた。僕は宵ノ口と言います。ここでは何ですから、場所を変えましょう」


照明灯に囲まれた公園内は昼間みたいに明るかった。さっきより宵ノ口さんの顔がはっきりと見える。目鼻立ちがくっきりした、いわゆるイケメンだった。そのイケメンがわけのわからない話の続きをすると言って、のこのこ着いてきてしまったが内心不安だ。頭のおかしい奴だったらどうしよう。でも、他に縋るものは無い。


「人生を捨てたいと感じるのは、これから先の人生に影響を与える人物と出会っていない、もしくは出会っているけどまだ気づいていないだけ。今が苦しいなら、苦しみを取り除いてくれる誰かが必要なんです」


彼の声が辺りに反響した。隣を歩いているはずなのに、まるで大きな生き物の体内にいるような感覚に陥る。


「僕はこの世界からいなくなった人、これからいなくなる人の、空白になる人生を紹介しています。あなたは今の自分をやめて、何もかもを忘れて他人の人生を譲り受けることができます」


「そんな有り得ない話・・・・・・」


「そうでしょうか? 原始人が、いつか人が飛行機で空を飛ぶと信じますか? ボタン1つで火を起こせると信じますか? それと一緒です。有り得ないことが日々現実化しているんです」


「じゃあ、君は僕にどんな人生を紹介してくれようと言うんですか? そんなことしたって病気は、治るわけじゃないんでしょう?」


「もちろん病気は治りませんがそうですね、俳優とか、画家とか、あなたが、なりたかったものになってみるのもありだと思うんです。可能な限りご希望にそった人生を紹介しますよ」


頭がふわふわする。夜の公園の敷地内を歩いているはずなのに、地に足が着いていない気がする。前進しているのか後退しているのかすらわからない。


「幸生さんは、大事な人がいるからこそ強制的に訪れる別れが怖いんでしょう。だったらそこから逃げるしかない。その人もあなたのことを、あなたもその人のことを忘れてしまえば悲しみは欠片も生まれません」


「他人になりきって余生を過ごすのが、人生を悲劇で終わらせない方法?」


「そうです、僕が提案する方法はそれのみです」


「いかれた発想ですね。大学は文学部に?」


「いえ、恥ずかしながら高卒です」


別に恥ずかしいことじゃないけどな。


道の両端にベンチが置いてあった。僕と宵ノ口さんは向かい合う形でベンチに腰掛けて休んだ。


「宵ノ口って、本当の名前じゃないでしょ?」


「社員名はみんな自分で考えた偽名です。仕事に対する思いも違います。僕の場合は宵の口、まだ夜が更けない頃を指します。夜は暗闇、静寂、虚無、つまり絶望に似ている。あなたは絶望になりかけているだけ、まだ間に合うと気づいてほしいから付けました」


「僕は病気に殺されるんだ。間に合うも何もないでしょう」


「いいえ、あなたはその前に自分で自分を殺そうと思っていたんじゃないですか?」


心臓を鷲掴みされたみたいで、一瞬息が止まった。向こう側のベンチに座る男が、死神に見えた。


「僕は、自分で命を絶とうと考えている人がわかるんです。運命の赤い糸の如く、絶命の黒い糸がその人の頭のてっぺんから空に向かって伸びて見えるから」


「今、僕の上にも見えるんですか?」


「辺りが暗くて見えにくいですが、しっかりありますね。思い詰めるたび糸は太くなるんです。きっとあの世との絆が濃くなる証でしょうね。太い人を見ると、僕も焦ってしまって、急いで何とかしなくてはと時々感情的になります。中には3年かかってやっと糸が消えたケースもありました。頑固な男性のお客さんでしてね、強引になってしまいましたが結果的に夫婦仲良くやっているようです」


僕は頭の上を手で払ってみた。案の定何も触れない、糸なんかない。でも、宵ノ口さんが言った通り自ら命を絶とうとは思っていた。だから弁解できず黙ってしまった。占いとか霊能力とか信じないけど、なんだか全部見透かされている気分になる。死ぬ前に不可思議な人物に出会えたのって、とても貴重な体験なのかもしれない。


「黒い糸が見える人に近づいて、人生紹介の話を持ちかけるんです。しかし、人生を変えずこのまま生きると返事を頂くことが意外に多いです。その時糸は消えています。悩みがあってもなんだかんだ乗り越えられるから、有利な特異体質があってもなかなか契約が取れません。おかげで営業成績はいつも最下位なんですよ」


「・・・・・・おかしな仕事だけど、大変なんですね」


「でも、社長は僕を見限らなかった。人と人とを巡り合わせてお互いが今の人生を再出発できたなら、それも立派な人生紹介だとね。ま、同僚は僕を口下手でうっかり屋で優柔不断でポンコツだと笑いますが」


どうも彼には人を魅了する力がある。外見や喋り口調が親しみやすいのもそうだが、幼なじみや親友といった関係性に似ていて、打ち解けやすい雰囲気を持っている。


だから、つい身の上話をしてしまう。それに、夜は人の心の弱い部分を丸裸にしやすい。


僕がどういう人間であり、今日までの33年間をどのように生きてきたのかを彼に教えた。どんな両親や友達に恵まれたか、妻との馴れ初めはどうだったか、自閉症の息子はどういう子なのか、33年間を誰かに教える作業は、ほんの10分程度で終わり、もし文章化するならば原稿用紙10枚にも満たないかもしれない。


宵ノ口さんはその時こうしたら良かったのにとか、こうすべきだったとか野次を入れず静かにうんうんと頷いて聞いてくれた。短い10分間じゃなくても、彼なら何時間何日もそのまま話を聞いてくれそうな気がした。


「なるほど、充実した人生を送ってきたんですね。それではいくら人生を紹介したって勝るものはなさそうです」


「至って平凡な人生ですよ、誇れるものはなかった。でも愛すべき日々でした。今の現状を逃げ出したい気持ちはありますが、今更全部忘れて捨てようとは、やっぱり思えません。申し訳ないけどあなたの提案、お断りさせてもらいます。面白い話が聞けて良かったです」


独りで頭を抱えてパニックになっていた時とは違って、今は冷静になっている。夜の静けさと宵ノ口さんの人柄のおかげで正気を取り戻せた。


宵ノ口さんは僕の頭上を見る。糸は細くなったのか、はたまた消えたのか、彼は焦る様子もなく穏やかに返事をした。


「わかりました、それがあなたの答えなら僕は精一杯応援します」


「ありがとう。それから、宵ノ口さん話を聞かせてくれませんか? 仕事のことじゃなくて、今度はあなた自身の話」


そう言うと、動揺したように彼の影が動いた。


「普通、自分のことでいっぱいいっぱいになっている時に、相手が身の上話を始めたら不快になると思うんですが」


「ああ、例えば自分が辛いと言ったら相手も俺も辛いことがあってさーって、会話の主導権握られるやつですね。確かに腹立ちますけど、今は他人の話を聞いた方が楽なんです。自分のことばかり考えていたせいか、脳が沸騰気味でまいっているんですよ。話を聞いている間くらい、僕が何者なのかを忘れていたいんです」


「では、僕の話ではなく、ある少年の話をしても良いですか?」


「何でもいいですよ、話したいことを話してください」



「実は、これからその少年とこの公園内で待ち合わせをしているんです。向かう途中で偶然、あなたに遭遇したんですよ」


「えっ、そうだったんですか。しかも、この深夜に・・・・・・」


「事情がありましてね、話せば長くなるんですが」


宵ノ口さんは1度咳払いをして、ある少年の話を始めた。


「ゆう君という10歳の少年がいました。彼はごく普通の両親の元に生まれ、ごく普通の生活を送っていました。しかし、自身の性格に悩みを抱えていました。それは、人が怖いことです。何かを伝えたくてもどもってしまい、人と目が合えば体中の血の気が引いていく。極度のストレスで胃痛を起こしてしまうほど重症でした。頑張って学校に行ってもすぐに保健室へ駆け込むしまつ。そんな彼には友達が1人もいません、むしろ嫌われて誰も寄り付かないんです。この世界に彼の味方は父親と母親だけ。両親がいなくなれば自分はどの道生きていけなくなるし、このまま大人になったとしても迷惑をかけるだけ。そんな苦悩の日々の中、僕と出会いました。夜道を散歩していて、偶然この公園の前を通ったら子どもの泣き声がしたんです。彼はドーム型で中が空洞になっている遊具の中で泣いていたので、外側から僕はそっと声をかけました。どうも彼は、あそこに隠れていれば声を出せるらしく、たくさん話をしました。僕の仕事の内容を聞いた彼は、大好きな両親をこれ以上悲しませたくない、ひっそりと消えて、どこかの誰か、自分より恵まれない人へこの人生を譲ってあげた方がよほどいい、そう言ったんです」


僕は息を飲んだ。話を、聞くべきじゃなかったかもしれない。かえって尚更脳が沸騰してしまった。


どこかにいる知らない少年の話のはずなのに、ひどい焦燥感に襲われたのはとても他人事とは思えなかったからだ。


少年が、僕の愛する息子、幸音を表しているようで、とてつもない恐怖に陥る。


「あなたはいなくなった人、いなくなる人の、空白の人生を紹介すると言いましたね? あの、その少年は・・・・・・いなくなる、つもりなんですか?」


喉の奥が締め付けられたみたいに苦しくて上手く喋れない。


「人生紹介バンクは、決して失踪や自殺を加担するものではありません。むしろそういった方をなくすための会社です。だからどうしても彼を止めなくてはいけない。僕は夜の公園で何度も彼と話をしました。今が嫌ならば、新しい人生を紹介しますよと。でも譲られる側ではなく譲る側をやると言ってきかないんです。バンクのことを彼に話すべきじゃなかった」


「じゃあ、早く手を打たないと、その子が取り返しのつかないことをしでかすかもしれないって、ことなんですね?」


「時間の問題です。これから先の人生に影響を与える人物がいれば、彼を思いとどまらせてくれるはずなんです。僕は、その人を探していますがなかなか見つからなくて。はてさて、どうしたものか・・・・・・。すいません、結局は僕の悩み事の話ですね」


「あのっ、その子に、会わせてくれませんか?」


咄嗟に出た言葉は、自分でも驚いた。でも、居てもたってもいられなかった。他人事とは到底思えないから。


「僕に、何かできるわけじゃないけど、話をしてみたいんです。その子がどんな気持ちで生きているのか、知りたいんです」


「一筋縄ではいかないこと、あなたが1番よくわかっているはずですが」


「そうですね、自閉症の息子にでさえ心を開いてもらえない父親が、他人の子に開いてもらおうだなんて浅ましい考えはしていません。でも、ほっとけないんです。その子に会わなくちゃいけないって、本能が言っているんです」


そうしないと絶対に後悔する。僕は、少年がしようとしていることを間違っていると教えてやりたかった。人と話せなくたって、何を考えているのかわからなくたって、弱くたって、親にとって子どもは他に何もいらないくらい大事なんだと直接言ってやりたい。


幸音が物心ついたら同じようにしたいけど、きっとその頃には僕はもう・・・・・・。


唸り声をあげていた宵ノ口さんだが、最後にはうんと頷いて僕の頼みをきいてくれた。


「彼の人生に影響を与える人物が、あなたであればいいですね。こういうのはどうですか? 幸生さんが僕のふりをして会ってみるんです」


「宵ノ口さんのふりを?」


「ええ、いきなり知らない人を連れていったら驚いて逃げちゃうかもしれませんから。何度も会話をしている分、僕の方が慣れていると思うんです。ただし、条件があります」


宵ノ口さんの出した条件は、話終えるまで少年の顔を見ないことだった。


「先ほども言った通り、わざわざ夜の時間帯を選んでいるんです。遊具の中に隠れている彼の姿を見ようとして、話の途中でのぞき込まないであげてくださいね」


「わかりました、あくまでも話をするだけですね。彼は、もうここに?」


「眠っている両親の目を盗んですでに公園内へ来ているでしょう。僕はここに座って待っています。あちらの、遊具の置いてある広場で待ち合わせをしているんです」


宵ノ口さんは先の方を指した。照明灯がなく、木々に囲まれた真っ暗な道だった。奥には、永遠と続いていそうな闇があり、冷たい風が流れてくる。本当に、この先には10歳の男の子が独りで待っているのだろうか。


「数分間、僕の人生を貸してあげます。行ってらっしゃい、宵ノ口さん」


その送り出しを合図に、僕は1歩、また1歩と暗闇に向かって歩き出した。


病気に侵され、刻々と命を食われている幸生はベンチの上に置いてきて、人生紹介バンクで働く宵ノ口さんになりきった。


他人になりきってみると、健康体だった頃の自分に戻れた気がして体が軽く感じる。当たり前にこれから先何十年も生きられる気がした。でも、これは暗示にかかっているだけ。ささやかな時間現実逃避をしたら、また悪魔のような病気が「おかえり」と挨拶をしてくるんだ。




黒く浮かび上がる遊具のシルエットは怪物みたいに見えて、そのうち動き出しそうで恐怖を感じる。昼間は子ども達を喜ばせるものなのに、こうも違いがあるとは。


あちこちに散らばった落ち葉を踏むと、カサカサと清々しい音を立てた。宵ノ口さんが言っていたドーム型の遊具に近づくと、中から微かに息遣いが聞こえてきた。僕は遊具を軽くノックする。


「ゆう、君ですか?」


一瞬、息遣いが止まり相手の緊張が伝わってきた。


「・・・・・・よいのくちさん?」


消え入りそうなその声は、ゆう君という名前がわからなければ少女と間違えてもおかしくなかった。


本当に、いた。いつからここに通い詰めていたんだろう。親の目を盗んで真夜中にここで独り、誰にも見つからないよう苦しみを吐き出していたのかと思うとたまらなく胸が痛くなる。宵ノ口さんがこの子を見つけてくれて良かった。


僕は宵ノ口さんの声色、話し方をできるだけ真似た。


「待たせて、すいません」


「だいじょうぶ」


「今日は、どんな話しをしましょうか?」


「・・・・・・パパは見つかったの?」


パパ? 何のことだろう。宵ノ口さんからは何も聞いていない。下手に誤魔化すと偽物であることがばれてしまう。


「い、いや、見つかっていません。ごめんなさい」


「そんな・・・・・・約束が違うよ。じゃあ、ぼくの、人生をあげる子、見つけてよ」


こんな喋り方で合っているか心配だったが、ゆう君はまだ僕が偽物だと気づいていないらしい。さっそく人生紹介の話題を振られた。約束っていうのも何のことかさっぱりだ。宵ノ口さんの説明不足じゃないか。


「いや、それもちょっと・・・・・・。あの、ゆう君、自分の人生を誰かにあげるのは、考え直してほしい。君が他の誰かになるのも、やっぱりいけない」


言葉を1つ1つ慎重に選びながらどうにか宥めようとする。


「・・・・・・じゃあ、ぼくはどうしたらいいの?」


落胆して震える声に罪悪感が芽生えた。


「よいのくちさん、ぼくは、自分が大きらいなんだ。もう何回も言ったでしょ? ここでこうしてかくれていないとまともに話もできない、うれしいとか、楽しいとかうまく表現できなくて、みんなに変な目で見られてきらわれる。学校じゃ先生以外、だれも相手にしてくれないよ。とっても、つらいんだ」


「けれども、君がいなくなったらお父さんやお母さんはひどく悲しみます。君の味方になっているでしょう?」


「パパとママはいつも優しいよ。だからいつも心の中であやまってる。たんじょう日やクリスマスにプレゼントをもらっても、よろこび方がわからない。きちんとお礼も言えないよ。笑うって、どうやるの? ぼくは、早くぼくをやめたいんだよ」


そのうちしくしくと泣き声や鼻水をすする音がした。今すぐ遊具の中に飛び込んで、ゆう君を抱き締めてやりたくなったが、かえって怯えさせてしまうため衝動を堪える。ゆう君の頭を撫でる代わりに、固くて冷たくて丸みのある遊具を撫でた。


「確かに、喜んだり笑ったりしなかったら嬉しくないのかなって思われちゃうかもしれない。でも、お父さんもお母さんも、見返りとかお礼とか、そんなもののためにプレゼントをあげているわけじゃない。君のことが大好きだから、心から愛しているからそうしたいだけなんだ。だから、謝る必要はない」


幸音が生まれた日のことを思い出す。真冬の時期で外は辺り一面銀世界だった。産声をあげたのは夜。立会い出産で、初めて我が子に対面した。その瞬間、僕が生きてきた理由や存在意義がこう、わっと波のように押し寄せてきた感動は今でも忘れない。


幸絵は暖かい病室のベッドで、産まれたばかりの我が子を抱きながら窓の外を眺めて言った。


「あ、幸せの音が聞こえる」


窓の外では白い雪が音も立てず、もちろん夜なので辺りは静かだったが、僕達夫婦には確かに幸せの音が聞こえていた。


この子の望むものは何でも与えたかったし、命に変えてでもありとあらゆる災難から守ってやりたかった。1人の親として、この子が大人になるのをしっかり見届けようと、この時強く誓った。


しかし、その誓いは今日崩れてしまった。


妻も子も守れず、あまりにも早い別れを迎えなくちゃいけない。神様って、どこにもいないんじゃないか。


「よいのくちさん、泣いているの?」


息を殺して泣いているのがばれてしまった。馬鹿だ、この子の話を聞いている最中なのに、僕が泣いてどうする。悲しみが伝染したら元も子もないだろう。


「いや、少し、体が冷えて鼻声になっているだけ、です。大丈夫」


手のひらで顔を擦り付けて、涙と鼻水を拭い取った。


不思議な夜だ、こうしているとこの世界には僕とゆう君しかいないみたいに思えた。誰にも邪魔されないから躊躇なく本音が言える。


「僕にも、君くらいの息子がいるんです。息子も他の子とは違くて、時々どう接するのが正しいのかわからなくなってしまうことが、あるけれど、いなくなったらそれこそ僕は生きていけない。どんな子でも僕の大切な息子だから。ゆう君のお父さんもお母さんも同じ気持ちだと思う」


「・・・・・・」


「・・・・・・ねぇ、ゆう君。君は、これから何かやりたいことはありますか?」


「やりたいこと?」


「うん、あれが食べたいとか、あれを見てみたいとか、何でも言ってみてください」


沈黙が流れた後、小さな声でゆう君は自分のやりたいことを教えてくれた。


「ママの作ったグラタンが食べたい。あまったシチューをつかって作るやつ。今日シチューを食べたから、明日作ってくれるかも」


「うん、それから?」


「これからうまれてくる、弟か、妹のお兄ちゃんになる。でも、ちゃんとお兄ちゃんができるか心配なんだ。ぼく、こんなだから・・・・・・」


へえ、これから兄弟ができるのか。親しい存在ができたら前向きな変化が訪れると良いな。


「きっとゆう君なら良いお兄ちゃんになれますよ。まだありますか?」


「・・・・・・もう1度パパに会いたい」


先ほどパパは見つかったのか聞かれたが、どうも行方がわからなくなっているらしい。宵ノ口さんはどう関わっていたんだろう。


「えっと、パパは、どこかに行ってしまったんだっけ?」


「夜中に家を出ていなくなったからさがしてほしいって、よいのくちさんにお願いしたじゃない」


・・・・・・待てよ、これまでのゆう君の言っていることって、あまりにも僕の事情と被りすぎてやしないか?


「パパが、がんって病気になっちゃったんだ。病気につれていかれて、もう帰ってこなかったらどうしよう・・・・・・。よいのくちさんでも見つけられなかったのに」


心臓がバクバクする。


待て、待て待て待て。冗談だろう? まさか、そんなはず、ない。


「ゆう、君。・・・・・・僕がもう1回パパを探すから、顔を、見せてくれる?」


少し経ってからゆう君が土を踏んで立ち上がる音がした。僕の目はすっかり暗闇に慣れていて、相手がどんな顔をしているのかは薄らと見えるようになっている。


次にゆう君が遊具の中からひょっこりと小さな頭を出した時、僕はその顔を見て言葉を失った。








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