子育て幽霊
ポタ。
私の目から1滴の涙が落ちて、ノートの端っこを湿らせた。
世界に一つしかないこのノートを、私の涙なんかで汚してはいけない。でも、泣かずにはいられなかった。
これは遺書にしか見えない。やっぱり母親は、もう心花ちゃんには会えないと覚悟を決めていたのだ。
指先で払った涙が心花ちゃんの頬についた。そのせいで覚醒し、泣いている私を不思議そうに見上げた。
「おばしゃん、ぽんぽんいたい? なでなでしてあげる」
小さな手でぺたんこな私のお腹を撫でる。名前の通り、なんて優しい子だろう。
「心花ちゃん、ママに会いたい?」
ぱっと目を見開いてから、口をへの字に曲げて私の胸に顔をこすってぐずり始めた。
「ママにあいたいー、あいたいよー」
ついにはプァーっとラッパを拭くように泣き出してしまった。涙と鼻水がべちゃりと私の服にくっついた。
「そうだよね、会いたいよね。ごめんね、我慢させて」
人見知りしないとか寂しがらないとか勝手に決めつけていた。母親に会いたくてたまらないのを我慢していただけだったのだ。ママと私が口にしたために我慢は弾け飛んで、ついに限界が来たのだ。
この子にとって良いことか悪いことかはっきり言えないけど、動かずに後悔するより動いて後悔した方がいい。私は意を決した。
「心花ちゃん、お母さんに会いに行こう」
「はい、宵ノ口です」
電話越しにのんびりした男の人の声がする。
「あの、永遠子ですけど」
「ああ、どうも。まだ夕方までに時間がありますが、トラブルですか?」
「いえ、聞きたいことがあったのと、伝えたいことがあったので電話をしました」
へえ、と感心の声を漏らすのが聞こえた。
「何でしょう?」
「心花ちゃんのお母さんが入院している病院を教えてください」
「依頼主と直接会いたいということですか。意識がないのでお話はできませんが、よろしいんですか?」
「私が会うより、心花ちゃんに、会わせたいんです。いつどうなるかわからないんでしょ?」
すると宵ノ口さんの口調が少し荒くなる。
「それは結構ですけどよくお考えになりましたか? 母親は元気だった頃とは全く違う姿なんです。想像してください、たくさんの管に繋がれて眠る母親の姿を。どんなに呼びかけても声は返ってこず、傍に行っても頭を撫でてもらえない。幼い子にとってそれは受け入れ難い再会ではないでしょうか」
まるで審判にかけられている気分だった。気圧されないように私も強気で答える。
「子どもを産んだことはないけど、子どもだった頃はあります。親に愛されてその親と別れたことも。未だに考えるんです、両親が交通事故で即死していなかったら、ちゃんとお別れができていたのかなって。反対に苦しむ姿を見ずに済んでよかったなって。こうした矛盾したもやもやが何年経っても付きまとっているんです。でも、やっぱり生きているうちに伝えたかったことはたくさんありました」
「しかし、永遠子さんが母親役を引き継いだら今再会したって意味はありません、忘れてしまうんですから。一時のショックを与えるだけですよ。このまま会わずに別れた方が良いと思いますけどね」
「しません」
「え?」
「私は母親役を引き継ぎしませんと言ったんです。私は、心花ちゃんのお母さんが目覚めると信じて待ちます。目覚めて元気になって心花ちゃんを迎えに来るまで、責任を持って面倒を見るつもりです」
「つまり、あなたはあなたのまま生きる選択をしたということですか?」
「そうです」
「優翔さんが戻らないかもしれないあの家で暮らすんですか?」
「そうです」
「もし母親が目覚めないままだったら?」
「その時はその時です。この先どうなろうと心花ちゃんの幸せを考えることが私の生きがいであるのに変わりありません。絶対に、独りにはさせない。誰かの人生をもらってまで幸せになろうとは思いませんから、私はこのままささやかな幸せでいい」
「・・・・・・もう決めたことなんですね?」
「はい、揺るぎない意志です」
これほど意見をきっぱりと言えたのは自分でも驚いて、込み上げてくるものがあった。宵ノ口さんは黙っていたが、しばらくすると安堵したように笑った。
「永遠子さんにこはなちゃんを預けて正解でした。僕の目に狂いはなかった」
その言葉で私は宵ノ口さんに試されていたのだと気づいた。
「もしかして、わざと挑発してました?」
「はい、すいません。永遠子さんがどれほどの覚悟があるのか確かめたくて」
「・・・・・・いじわるな人ですね」
「すいません、でもあなたの声は今朝会った時よりも自信に満ちています」
そして宵ノ口さんから母親の名前と入院する病院名、場所を聞いた。位置を検索すると市民公園からはそれほど遠くない場所にあった。
「こはなちゃんが今夜は永遠子さんの自宅で過ごしたいと望むなら、夕方迎えには行きません。おばあさんには僕から伝えておきます。一緒にこはなちゃんの面倒を見てくれる人が見つかったと」
「ありがとう、ございます。ちょっと待っていてください」
私は一旦電話を中断して、心花ちゃんに尋ねる。
「夜ご飯、カレーにしようと思うんだけど今日はおばしゃんの家にお泊まりする?」
心花ちゃんは飛び跳ねて「おばしゃんといる! カレーだいすき!」と叫んだ。
「決まりました。泊まってくれるそうです。明日にでも心花ちゃんを連れておばあさんの所へ挨拶に行きたいんですが、時間をいただけますか?」
「もちろんです。では、明日迎えに伺います」
電話を切った後、公園前の道路にタクシーを呼んだ。母親の入院する病院名を伝えて出発する。母親に会えるとわかった心花ちゃんの表情は明るかった。
「くるまはやーい! ママまっててねー」
きっと心花ちゃんがイメージしているのは元気な母親。これから会う母親は、宵ノ口さんが言った通り体に管が繋がれて眠っている。理想と現実がかけ離れていても、どうか頑張って戦っている姿を見てほしかった。
私の貫いたエゴは後戻りできない。1週間ぶりの再会がこの子にとって良いものでありますようにと病院に着くまでの間ずっと祈っていた。
病院の受付けで母親の名前を言い、見舞いに来たことを伝える。集中治療室にいるらしく、場所まで案内してもらえることになった。
集中治療室のある階は真っ白な壁と床の廊下が続いていて、奥に行くと機械の音が聞こえてくる。いくつもの重々しい自動ドアをくぐり抜けると消毒液の匂いが強くなっていった。心花ちゃんは怖がって私の手をぎゅっと掴む。
「大丈夫だよ、怖くないからね」
「ママ、ここにいるの?」
「そうだよ、ここで悪いやつと戦っているんだよ」
受付けの人から看護師へ伝達が行われ、マスクと消毒をしてから母親のベッドへ案内される。面会時間は10分程と言われた。
「心花ちゃん、ママだよ」
病床ベッドは高さがあり3歳児では覗き込めないため、母親の顔が良く見える位置まで心花ちゃんを抱き上げた。
「ママ?」
母親は機器や点滴に囲まれ、眠っていた。布団で隠れた体からたくさん管が出ており、それは一輪の花からつるが伸びているように見えた。
初めまして。
目は瞑っているが、きっと心花ちゃんそっくりで綺麗な目をしているんだろう。鼻も口も面影がある。
「心花ちゃん、ママにお話したら?」
正直、どんな反応をするのか怖かった。こうして抱き上げているだけで、戸惑いが伝わってくる。横顔を見ると、目を瞬かせ手をもじもじとさせていた。
「いつも見てきたママは、呼んだらすぐに返事をしてくれたよね。お話もたくさんしたよね。でも今は夢の中で戦っているんだよ」
「ゆめ?」
「そう、心花ちゃんも怖い夢を見たことがあるかな?」
「・・・・・・おねしょしておこられちゃったことある。まっくろな、おばけがでてきてこわかったの。でもやっつけようとしたんだよ」
「ママも同じだよ。夢の中で悪いやつと戦ってるの。悪いやつに勝ったらおめめをぱっちり開けていつもみたいに元気に起きてくるんだよ」
「ママ、かてる?」
「うん、絶対勝てる。だから応援してあげようね」
桔花さんに声が聞こえるよう、心花ちゃんを耳元へ近づけた。
「ママ! がんばって! わるいやつ、やっつけて!」
かすかに桔花さんの瞼が動いた。意識がない時も聴力は働いていると聞いたことがある。
それから心花ちゃんは今日のことを絶え間なく話した。おばしゃんの私とかけっこをして、滑り台で遊んで、好きなハンバーグを食べて、おもちゃを買ってもらって、恐竜ごっこをして、ママに会いに来たんだと。
10分間の面会時間はあっという間に過ぎて、看護師から退室を促される。
桔花さんから離れる際、心花ちゃんは最後に大きな声で言った。
「ママ! こんどはおばしゃんと3にんであそぼうね! ちゃんといいこでまってるね」
院内を出た正面玄関先で鼻をかんでいると、見覚えのある男の人と遭遇する。
「あ・・・・・・宵ノ口さん」
今朝初めて会った不思議な人は、腫れぼったい目をした私を見て微笑んだ。
「泣いているんですか?」
「・・・・・・花粉症です。それよりどうしてここに? 迎えに来ないって言ったのに」
「この病院の系列の老人ホームに用があったんです。ついでに立ち寄って永遠子さんに心花ちゃんの日用品を渡そうと」
膨らんだピンク色のボストンバッグを受け取る。きっとおばあさんから預かったのだろう。
「そうでしたか、わざわざどうも」
「桔花さんに会えましたか?」
「はい、心花ちゃん、いっぱい声をかけたんですよ。ね?」
心花ちゃんは誇らしげに頷き「ママがんばってたんだよ」と言った。
「母親をやってみてどうでしたか?」
「たった1日母親役をやりましたが、うまくできていたのか自信はありません。私じゃない誰かが代わりにやっていたら、もっとこの子のためになっていたかもしれないな。なんて」
自虐的に笑うと、宵ノ口さんは否定するように首を横に振った。
「子育て幽霊を知っていますか?」
「ええと・・・・・・子どもを身ごもったまま亡くなった母親が、死後に棺の中で出産をして幽霊になって子どものために飴を買いに行くって、話ですか?」
「そうです。永遠子さんは本当の母親でもなく、かといって完全な他人ではないふわふわとした存在、まるで幽霊みたいなものです。でも役割はとても重要でした。たった1日とはいえ、こはなちゃんに愛という飴をたくさんあげたのではないでしょうか。その証拠にこの子は今笑顔で溢れています。これは紛れもなくあなたのおかげなんですよ」
確かに、ある意味私は子育て幽霊だ。いつか桔花さんが目覚めて心花ちゃんが私の元から離れ、成長したらきっと今日の思い出は掠れてしまうだろう。それでも、私があげた飴が心花ちゃんの一部として在り続けてくれたら嬉しいな。
まいった、ポケットティッシュが空になったのにまた泣きそうになる。
「あの、宵ノ口さん」
「何でしょう?」
「ありがとうございます」
なぜ突然お礼を言われたのかわからない様子で宵ノ口さんはきょとんとしていた。
「桔花さんの人生はもらいませんでしたが、結果的に私の人生はほんの少しだけ変わりました。今日という日はどんな薬よりも効果があったんです。あなたが、可愛い女の子を連れて来たおかげで私は救われました」
心花ちゃんの丸い手をそっと握る。
「母親がどんなものかを教えてもらいました。今日のこと、一生忘れません。桔花さんが帰ってくるまで、責任を持って守らせていただきます」
改めて深々と頭を下げてお礼を言う。つられて心花ちゃんも丁寧にお辞儀をした。
「僕は何もしていません。あなたが幸せそうで何よりです。あとは、優翔さんの帰りを待つのみとなりましたね」
「あはは、彼がどうするのか、こればっかりは何も言えません。だって彼の人生ですから。・・・・・・まぁ、本心は帰ってきてほしいですけどね。今日のこと話したいし」
「電話をして永遠子さんの本心を伝えますか?」
「だめだめだめ! 絶対また喧嘩になります。私は彼の幸せを邪魔する資格、ありません。あとは成り行きに任せますから、宵ノ口さんは見守っていてください」
宵ノ口さんは「承知しました」と言ってそれ以上は彼について話すのをやめた。
スーパーでカレーの材料を買って、家に着いた頃はすでに陽が落ちて薄暗くなっていた。長い長い1日が終わろうとしている。
野菜を細かく切ってカレーの具にして心花ちゃんに食べてもらう。反応にどきどきしたが「おいしい!」と喜んで食べてもらえた。心花ちゃんノートに「野菜を細かくすると食べてくれます」と書いた桔花さん宛のメモを挟んでおく。
それから歯を磨いてお風呂に入って同じ布団で寝る準備をした。私は濃厚な1日に疲れて瞼を閉じればすぐ入眠できそうだったが、心花ちゃんの目はらんらんとしていた。
「なんかおはなしして」
そんなリクエストを受けて、読んであげる本を買えばよかったと後悔した。
「じゃあ、おばしゃんの作ったお話をしよう」
半分眠っている脳が作った話には、桃から生まれた亀やら、うさぎと競争するかたつむりやら、月で餅をつく猫などわけのわからない動物がいっぱい出てきた。
そして、いつの間にか2人でくっついて眠っていた。夢の中に出てきたのは、私と夫と、可愛らしい子どもの3人で仲良く歩いている風景だった。私は夢の中で笑っていたかもしれないし、あまりにも幸福で泣いていたのかもしれない。
夫からのメールに気づいたのは、寝癖頭で顔中によだれを垂らした翌朝のことだった。
真夜中の23時に届いたメールの内容を読む。
「ふふふっ」
そのあまりにも短く、ぶっきらぼうな文章に思わず吹き出してしまった。
「今日は泊まる。明日の朝、必ず帰るから」
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