母性って何だ
女の子名前は、こはなちゃんと言った。まだ3歳で、母親はシングルマザー。今まで2人で暮らしていた。しかし母親は脳の病気を患っていて、1週間前に大きな病院で手術を受けた。しかし、術後意識が戻らず眠ったままなのだそうだ。
ちなみに宵ノ口さんと母親は、病院内にあるレストランで知り合ったらしい。なんでも宵ノ口さんがうっかり転んで右足を捻挫して受診した際、昼食をとったレストランでの席がたまたま隣同士だったという。
母親は、手術のリスクを承知してた。だからその前に手を打っておかなければならなかった。人生紹介バンクを利用して。
「母親は、僕に保険をかけたんです。自分に何かあった時、こはなちゃんが悲しまないように代わりの母親を探してくれと。自分の人生を引き継ぐにふさわしい人をお願いしますと。結果、未だに目覚めません。これからずっと眠ったままなのかどうかはわかりません」
「.......どうなるか、わからないんですね」
まだ小さい子どもにはいなくなるや死ぬの意味がわからない。でも本人を前に口に出すことはできなかったから言葉を濁した。
「こはなちゃんはこの1週間どうしていたんですか?」
「おばあさんの元で暮らしているんですが、そのおばあさんも高齢でこはなちゃんの面倒を見るのに限界があります。だから僕は時々様子を見に伺っていたんです。このままだと、児童養護施設に預けるしかない状況です」
宵ノ口さんは1冊の花柄のノートを手渡してきた。ずいぶんたくさんの付箋が貼ってある。
「ここには、こはなちゃんのことについて書き記してあります。好きな食べ物、嫌いな食べ物、泣いた時のあやし方、寝かしつけ、トイレの仕方、お風呂の入り方など。僕は読んでいませんが、事細かに書いてあるそうです」
「お母さんが作ったんですか?」
「はい、手術前の短い時間で作りました。新しいお母さんに渡してほしいと」
「もし私がお母さんの人生を引き継ぐことになったら、私は初めからいなかったことになるんですよね?」
「いなかったというよりは、人々の記憶から消えるだけです。だから生きていた形跡、物はそのまま残ります。そして永遠子さんがこの子の母親だと記憶が改ざんされます」
「つまりこれ、私が作ったってことになっちゃうんだ」
「それだけじゃありません。この子は永遠子さんが産んだことになるんです」
私が、子どもを産む。有り得ない言葉に反応して体が固まった。
「あくまで実際に産んだわけではありません。記憶と周りの環境がそうなるだけです。あとは血液型、DNA情報もこんがらがることがないように根回しも必要になってきます。人生が変わっても体が変化するわけではありませんからね。当然性格や持病や体質もそのままです。人生紹介バンクは警察、病院など多機関の協働によって成り立つものなので融通が効くんです、だから心配無用です」
「じ、じゃあ、物はどうするんですか? 初めから私が母親だって記憶が改ざんされたら、知らない女の人の物が身近にあれば不審に思うでしょう?」
「免許証等の写真類、靴や服のサイズが違えばおかしいですもんね。基本的には契約前に依頼主と弊社スタッフと一緒に物の整理をしますが、今回のように依頼主ができる状況ではない時は弊社スタッフが全面的に整理整頓させていただきます。永遠子さんは必要最低限の物だけをとっておいて、不要なものを処分してくだされば大丈夫です。ようは引越しと同じで前の住人が綺麗に片付けた部屋に住むイメージです。そうやって環境がきちんと整ったところで新しい人生のスタートというわけです。ね、不思議でしょう?」
「不思議過ぎて言葉を失います...........。夢なら覚めてほしいくらい」
「人の人生をもらったことは、本人と本人に関わる人間には決して勘づかれてはいけないですからね。弊社で厳重に物のチェックはしますが、もしも処分しきれなかった母親の写真や永遠子さんの名前が書かれた物を誰かが見つけたとしても「この人は誰だろう?」と一瞬疑問に思うだけなので、つじつまが合わないものが多少あったとしても大した問題ではないんです。お客様の新しい人生のセッティングは完璧に。その後のケアもしっかり。それが弊社のモットーですからそんなミスは起こさせませんけどね」
「その後のケアってことは、私が知らない裏で、生活が見張られるようになるんですか?」
「その通りです。他に質問は?」
「・・・・・・いえ、頭がついていかなくて」
人から人生をもらう、イコール、全てを忘れ嘘の記憶で監視付きの人生を歩むということ。なんとも不気味で奇妙な話だ。まだ夢を見ているんじゃないかと疑う。でも、紛れもない現実だ。
想いのこもった子育て参考書。自分の代わりに子どもを見てくれる相手のために作ったもの。手術が絶対うまくいくと信じていたらこんなもの作らない。初めから自分の運命がわかっていたみたい。愛情をそそいで育てた子どもに忘れられるって、どれほど辛い決断をしたのだろう。母親を思うとひしひしと胸が痛くなった。このノートは、私なんかが触れて良いものなのか。
「あくまで今日はお試し。でも、母親に万が一のことがあれば.......ま、とりあえずは今日1日の感想を聞かせてください」
「人生を引き継ぐかこのまま生きるか、ですよね?」
「はい。どう生きるかよく考えてください。全て自分のためを思って」
頭の中がぐるぐると渦巻く。高卒で独り生きていくとなった時よりも脳がオーバーヒートしている。だけど子どもを守らなくてはという母性本能だけはしっかりしている。
私の生涯では、子どもの面倒を見る日が最初で最後かもしれない。
宵ノ口さんの膝の上に座っているこはなちゃんと目が合う。初対面の私を怯えないか心配していたら、てくてくと目の前まで歩み寄ってきた。じっと私の顔を見る。
「かわいいから、ママににてる」
そして、私の胸に飛び込んできた。ずっと欲しかった小さくて熱い体温。ふんわりとミルクの匂いがする。
「とても良い子でしょう? 永遠子さんを気に入ったみたいですし、これなら僕も安心です」
宵ノ口さんはすくっと立ち上がり真っ直ぐ玄関へ向かった。
「え、え? 帰るんですか?」
「夕方迎えに来ます。その時感想をお聞かせください。・・・・・・あ、うっかりしていた。これ、僕の連絡先のメモを渡しておきますので何かあったら電話してくださいね」
素早くメモを渡してからガチャリとドアを開け、宵ノ口さんはお辞儀をしながら「母子の時間をお楽しみください」と言い残して去っていった。
母子の時間と言われても。
子育ての本を買い漁って読んでいたから多少知識はあるものの、実技となると別だ。しかも赤ん坊じゃなくていきなり3歳児の世話をするなんて、私にできるだろうか。小中高を抜かしていきなり大学受験をするようなものだ。しかし答えが書かれたノートは手にしている。
部屋に戻るとこはなちゃんは飾ってあったくまのぬいぐるみで遊んでいた。顔見知りの宵ノ口さんが帰ってもケロッとしている。どうしてここに預けられたのか、この歳で理解できているのかしら。
「こはなちゃん、大丈夫、かな?」
恐る恐る尋ねると、こはなちゃんはきょとんとした。
「さっきのお兄さんが来るまで私と遊ぶ?」
ぱあっと花が咲いたみたいに表情が明るくなる。少し恥ずかしそうに頷いてぬいぐるみを抱きしめた。食べてしまいたいほど可愛いとはこのことを言うのか。子どもを見るだけでも辛かったのが嘘みたい。
遊ぶにしてもこの部屋ではおもちゃも絵本もない。あるのは数体のぬいぐるみだけ。これじゃあ退屈させてしまう。1人にさせるわけにもいかず、一緒に外出することにした。
見慣れない景色に辺りをキョロキョロするが嫌がったり泣いたりはしなかった。道行く人をじっと見つめて、手を振られれば振り返す。本当に人見知りしない子だ。元々の性格か、それとも母親が傍にいないことに慣れてしまったのか。寂しい感情を知らずに成長したらどうしようとずっと先の未来を心配をする。
それにしても子どもの好奇心と体力ってすごい。気になるものがあればなりふり構わず走って向かって行く。それに追いつくのが大変。
運動不足のくせにバタバタ走って息切れを起こす。明日は筋肉痛確定だ。こはなちゃんは疲れを知らないのかまだ走る。困っている私を振り返って見ては無邪気に笑った。わざとからかっているみたい。
「ねぇ...........ちょ、ちょっと、待って」
中心街に近づいて行く。色んな店舗が並ぶ賑やかな場所惹かれるように、こはなちゃんは向かう。
「ここきたことある!」
商店街を指したかと思ったら大通りに向かって走り出した。車がたくさん行き交う道路に小さな体が飛び込もうとしている。一気に血の気が引いた。
「待ちなさぁいっ!」
渾身の力を振り絞って私は全速力でこはなちゃんの元まで駆けた。がしっと両肩を掴んで胸に引き寄せ抱きしめた。
2つの早い鼓動の音が聞こえる。ドカドカドカ。1つは私、もう1つはこはなちゃんのもの。猫のお玉を抱っこした時と似た感覚がする。私の両腕におさまる小さな命。一瞬目を離したら危険だ。面倒を見始めてまだ30分くらいしか立っていないのに、寿命が縮むほど子育てが大変なものだと思い知らされる。
「だめだめだめっ。私から離れちゃだめだよ! 危ないから一緒に歩こう」
もぞもぞと腕の中で動き、丸い顔をぽんと上に出してしかめっ面をする。
「おばしゃん、あせくさ〜い」
そして子どもは可愛いだけじゃなく時に憎らしくなることも思い知った。
こはなちゃんノート3ページ目を開く。付箋に書かれている項目は『好奇心について』。
「こはなは好奇心が他の子より旺盛。興味のあるものに向かって迷わず走ります。走って追いつけない時は大好物のたまごボーロを見せると戻ってきます。食いしん坊さんです」
また道路に突進されてはたまったものではないので、さっそく近くのコンビニでたまごボーロを購入する。3粒あげるとこはなちゃんはピタッと体を私に密着させて歩く様になった。単純過ぎて面白い。おかしなことに猛獣を懐かせた気分になる。
どこでどのようにして遊ばせるか悩んでいるとアミューズメント施設の看板を発見する。商店街を超えた先に大型ゲームセンターがあって、屋内には子どもが遊べるスペースが設けられている。実を言えばいつか子どもができたら遊ばせようと思って下調べした場所だ。
そこだけじゃない、子どもが喜びそうな場所は全国各地調べ尽くしてあった。ちゃんとガイドブックも買って行き方も把握して。でも空振りに終わったのでガイドブック達は紐で結ばれてホコリが被っている。
四方八方遊ぶもので溢れた空間にこはなちゃんは目を輝かせていた。止まることを忘れたかのようにバタバタとあちこち動き回る。それはこはなちゃんだけではなくて、子どもは皆同じだった。他の子の母親や父親は我が子を安全に遊ばせるために一時も目を離さない。ほとんどの保護者が疲労してやつれていた。
「子どもって体力おばけですよねぇ」
疲れた笑みを浮かべた1人の女の人が話しかけてきた。その人は男の子とソフトカラーボールを投げあって遊んでいる。私はその近くでこはなちゃんが何十回も滑り台を滑っていく様子を見守っていた。
「わかります、こっちの体力を奪われているみたいっていうか・・・・・・」
「もう人生の半分以上捧げてる感じですものね。おいくつなんですか?」
「あ、35歳です」
「ごめんなさい、お子さんのお歳です」
「あっ、お子さんね。そうですよね、すいません、3歳です」
アホか、自分の年齢を答えてどうする。人の良さそうな女の人はくすくすと笑う。お子さんという単語がすぐにぴんとこなかった。周りからすれば私達は親子にしか見えないのに。
「3歳ですか、うちの子の2つ下ですね。まだまだこれからやんちゃになっていくんですよね」
「そう考えると恐ろしいです」
「面白い感想ですね」
「子ども1人の面倒を見るのがこんなに大変だなんて知りませんでしたから。この先、育てていくとなったら正直不安です」
腹を痛めて産んでいない、他人の子ども。これから母親になったとして嘘の記憶と思い出で、私じゃない私が、この子を真っ当な大人に育てられるか心配だ。
男の子にぽこぽことボールを当てられながら、女の人は微笑んで言った。
「大変だけど、自分の命よりも大切な存在があるっていいものですね。この子も私を頼りにしてくれている、それだけで充分生きがいになっちゃうんです」
「生きがい・・・・・・」
そういえば私に生きがいなんてあったっけ。
こはなちゃんは滑り台の上からこちらに向かって小さく手を振る。天使にしか見えない。
女手1つで育ててきた母親もこの子が生きがいだったに違いない。重い病気にかかってもこの子のために生きようと今も頑張っている。私が同じ立場になっても、石にかじりついてでもこの世に留まろうとする。腹を痛めて産んだ子の面倒を、見ず知らずの人に頼むのは断腸の思いだっただろう。
今日1日お試しでも私はこの子の母親。しっかり楽しく過ごしたら、今度は一緒に本当の母親の見舞いに行ってみよう。時々はおばあさんの家に遊びへ行って、とにかく絶対独りにはさせない。独りがどれほど心細くてしんどいのかは私がよくわかっている。母親が目覚める日までとにかく待って待って・・・・・・それでも結果、駄目だったらその時また考えればいい。
誰かの人生を奪う罪悪感など背負う必要はなかった。母親が目覚めるまで私の元で預かっていればいいだけの話だ。
宵ノ口さんが夕方に迎えに来たらそう話してみよう。
よし、これで蟠りが消えた。帰ってくるかこないかわからない夫の意見は不要。私はこはなちゃんが幸せになることを生きがいにしよう。
生きがいを見つけた途端、体の中に石が詰まったような感覚はすっと消えて、ふわっと軽くなった。
「ありがとうございます、ありがとうございます。おかげで答えが見つかりました」
「は、はぁ、それは良かったです」
私は感極まって女の人の手を取り、握手を交わした。遊びを中断された男の子は嫉妬して私にぽこぽことボールを当ててくる。
「おばしゃーん! こはなもボールあそびする!」
こはなちゃんは滑り台をするりと滑って華麗に着地し、周りに落ちているボールをかき集めて持ってきた。そして男の子と一緒にボールをぽこぽこ当ててきた。女の人は怪訝そうに首を傾げて訊いてくる。
「えっ、おばさん? お母さん、じゃないんですか?」
しまった、せっかくママ友風にやりとりしていたのに母親じゃないことがばれた。
「えっと、これには深いわけがありまして。いや、誘拐じゃないですよ? 私はこの子の・・・・・・おばしゃんです、はい」
こはなちゃんノート7ページ目を開く。付箋に書かれている項目は『遊びについて』。
「こはなは滑り台が大好き。飽きるまで何回も滑ります。でも他の子が面白そうな遊びをしているとすぐ真似を始めます。1人より皆で遊ぶ方が好きなんです」
「おなかすいた」
丸いお腹からグゥーと音がした。こはなちゃんは遊んでエネルギーを消費したためお腹が空いたらしい。家で食べたものだけじゃやっぱり足りなかったか。
こはなちゃんノート1ページ目を開く。付箋に書かれている項目は『食べ物について』。
「こはなは特にアレルギーはありません。1番好きな物はハンバーグです。ファミリーレストランに行ったら必ず頼むものですが、野菜が嫌いで避けて食べてしまいます。食べたご褒美に恐竜ごっこ(おんぶしてあげてガオガオと言いながら走る)をしようと言えば頑張って食べてくれます」
・・・・・・また走るのか。
私のふくらはぎと太ももはすでに悲鳴をあげている。ファミリーレストランにてお子様ランチとミートスパゲティを注文する。
お子様ランチにはハンバーグとケチャップライス、そしてブロッコリーに人参が付いていた。
こはなちゃんはさっそく野菜を避けて好物ばかりを頬張った。
「お野菜もしっかり食べてね」
声をかけて口に運んだ野菜は油で揚げたじゃがいも。つまりフライドポテト。いや、元は野菜だけどちょっと違う。あと皿やジュースをひっくり返さないか、フォークとスプーンを落とさないかハラハラする。こはなちゃんを見張りながらミートスパゲティを食べているせいで味がわからない。母親の食事はいつもこんなに落ち着かないものなのかしら。
結局最後まで野菜に手をつけなかった。諦めて私は野菜を食べてくれる禁断の呪文を唱える。
「ちゃんと食べたら恐竜ごっこしよう」
ふくらはぎと太ももに謝罪しつつそう言うと、こはなちゃんは野菜とにらめっこしてからゆっくり食べ始めた。すごくまずそうにしている顔があの可愛かった顔と真逆でブサイク過ぎる。私は一生懸命な子を笑わないようにぷるぷる体を震わせながら堪えた。
食べ終わってからまた少し歩いて今度はおもちゃ屋に来た。すぐに恐竜ごっこをしたら脇腹が痛くなるから食休みの意味も込めて。家で過ごすのに退屈しないよう何個かおもちゃを買ってあげよう。
恐竜ごっこなどという男の子が好きそうな遊びを好むことから、おてんばな子かと察していたがそれは的中した。こはなちゃんは入店して早々、女の子が好む着せ替え人形やぬいぐるみやままごと道具のあるコーナーには行かず、怪獣のフィギュアやミニカーや銃、刀のおもちゃがあるコーナーへ走った。
「ばきゅーん! だだだだだ!」
銃のおもちゃを持って遊び始める。構え方がやけにリアルで怖い。
「こはなちゃんはこれが好きなの?」
「うん! ママがね、さばげーっていうのをやっていたの。ときどきおもちゃかしてくれたよ」
・・・・・・サバゲー、サバイバルゲーム。なるほど、納得した。
とりあえず好きなものを3つ選ばせた。
結果、会計レジには銃のおもちゃと戦隊ものフィギュアセットと恐竜のぬいぐるみが並ぶ。少し恥ずかしい気持ちでそれらを購入した。
こはなちゃんノート8ページ目を開く。付箋に書かれている項目は『おもちゃについて』。
「こはなは着せ替え人形とかキラキラしたアクセサリーのおもちゃとかよりも戦隊ものが好きなんです。近所の男の子に混ざって戦いごっこをやります。私の趣味の影響に間違いありません。すいません」
食べたものがおおよそ消化した頃、約束通り恐竜ごっこを実施する。
市民公園の芝生広場にて、足裏をしっかり地面につけて両手を広げ構える。向こうから走ってくるこはなちゃんを力いっぱい抱きとめて、大体の体重を把握。そして、静かに背中へ乗せた。まだ小さな体をしていても、命の重みがずっしりと感じる。
「行くぞー! ガオー! ガオー!」
「きゃあー! あははははは!」
私は恐竜になりきって芝生の上を駆けた。劣化した家の柱みたいに筋肉が軋むが、それよりも爽快さが勝った。
神様は私のお腹に命を授けてくれなかったが、ささやかな素敵な出会いをくれた。あんなに暗かった空が、今は眩しいくらいの青でいっぱいで、ようやく私は灰色の霧の中から出られたような気がした。
「ぜぇー・・・・・・ぜぇー・・・・・・」
「おばしゃんだいじょうぶ?」
木陰のベンチに倒れ込むように座り息を整える。30代になってから一気に体のサビを感じる。出産は例えるならおしりからスイカを出すような激痛と聞いたことがあるが、この体ではとても耐えられそうにない。
遠くで10代くらいのカップルがキャッチボールをして遊んでいる。俊敏な動きが羨ましい。もっと羨ましいのは、愛し合っているのが目に見えてわかることだった。私にもあんな時期があったのにな。
今頃夫はどうしているだろう。まだ夫を忘れていないってことは、新しい人生を迎えていないってことだ。
この薬指にはめている指輪も、知らず知らずのうちに消えてしまうのかな。
「おばしゃん、ねむい」
こはなちゃんはつぶらな目を何度も擦ってあくびをした。
「お腹いっぱいになって遊んで疲れたよね。いいよ、おねんねしな」
ベンチに座って膝枕をしてあげると、こはなちゃんはすぐに眠った。よく耳を立てないと聞こえない寝息の音と、葉が風で擦れる音がとても癒される。うっかり私も眠ってしまいそうになるが、こはなちゃんを見守っていなくちゃいけない。
眠らないために色々思考をめぐらせる。野菜が嫌いなら、夕飯は野菜細かくしてカレーに混ぜてしまえばどうだろうとか、明日は何をして遊ぼうとか、帰ったらもう一度子育ての本を読み返してみようとか。
試しに母親になってみてすごく大変だけど、すごく楽しい。
お守り代わりに持ち歩いているこはなちゃんノートのページをめくる。こはなちゃんが眠っている隙に読み上げてしまおうと思った。全部暗記すればいざという時速やかに対処できる。
このずるくて浅はかなカンニング行為が、自分の心をひどく痛めるはめになるとは思いもしなかった。
「へぇ、こんな時はこうするんだ・・・・・・ふぅん」
ページの後半に差し掛かる。もうこはなちゃんのことを80パーセントほど知ったところだ。あともう少しで知り尽くす。母親が3年子どもと過ごして書き留めたものを、私はたったの30分程で読み終えてしまう。別に悪いとは思わなかった。いつか全部読むなら遅かれ早かれ同じだから。
そして、最後のページをめくる。ここにはなぜか付箋が貼っていなかった。だから何の項目かわからない。書くことがなくて、これから書こうとしていて空白のページなのかもしれないなと、軽い気持ちでめくったのが間違いだった。
「心花・・・・・・?」
最後のページで、初めてこはなが漢字でどう書くのかわかった。そこには、娘に当てたメッセージが書かれていたのだ。
心花へ。
このノートがいつか消えて、読んでもらえないかもかもしれませんが、それでもここに記しておきます。
いきなり一緒にいられなくなってごめんね。
ママは悪い病気と戦わなくちゃいけなくなりました。いつもやっている戦いとはちょっと違くて、なかなか強い相手なんです。もしかしたら負けちゃうかもしれません。
負けたらもうお話できないから、こうして書かせてください。
まず、ママの宝物はあなたの他にありません。あなたが生まれた日、世界は違って見えました。
パパはあなたが生まれる前に病気で死んでしまいましたが、ずっとあなたに会えるのを楽しみにしていました。天国できっと今も見守っていることでしょう。心花という名前はパパとママが一生懸命に考えた最初のプレゼントです。
寂しい時も嬉しい時もありました。でもママはあなたに会えて初めて生きていてよかったと心から思いました。悪い病気になってあなたといられる時間は減ってしまいましたが、一時もあなたを想わなかったことはありません。あなたが全部を忘れて他の誰かの元で過ごしていても、幸せならそれでいいんです。だって、何が起きてもママの子だもの。
あなたの未来は明るいだけではなく、過酷なこともあるかもしれません。悪いウイルスが流行ったり、平和な国同士が突然戦争を始めたり。辛くて泣いてしまってもいい。でもあなたの周りには必ず、あなたを守ってくれる人がいます。だから心配しないで、どうか立派に生きてください。
心花の面倒を見てくださる方へ。心が花のように綺麗で優しい子になりますようにと願いを込めてこの名前をつけました。わがままでおてんばで世話のやける子ですが、3年間愛を注いで育てた子です。どうか、よろしくお願いします。
ママより。
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