悩ましい性
カタカタカタ。パチ。ウィーン。ピロリロリーン。カタカタカタ。タン。チャリン。○○○○サーン、シンサツシツヘドウゾ。オギャアオギャア。
毎日代わり映えがない音を聴いて、頭がおかしくならないのが不思議だ。
「お会計250円です。250円ちょうどお預かり致します。診察券、保険証お返し致します。こちら領収書です。お大事にしてください」
私、人間なのに、それも母親になりたいのにいつからロボットになったのかしら。
子どもが大好きで、将来は子どもに関わる仕事がしたいってずっと思っていた。保育士とか小児科医とか看護師とか。でも学費がなかったし、生活するだけで手いっぱいだったし、そもそも頭も賢くないから断念した。
通信教育で取った事務の資格を活かして今は小児科クリニックの受付をしている。間接的ではあるけど、子どもと関わる仕事。どちらかと言えば満足『だった』。
悪いけど今は子どもを見るだけで辛い。大好きだったのが世界で1番嫌いな生き物になった。だから仕事は地獄。
わかっているんだ、自分にないものを他人が持っているのが妬ましいだけなんだって。誰も悪くないのに独りでキレてるだけなの。
「最近苛立ってない? 大丈夫?」
先輩事務員が心配して声をかけてくれた。
「ホルモンバランスがめちゃくちゃなんですかね。変にイライラして.......」
「まぁ気持ちはわかるわよ。先週入った新しい子、さっそく休んじゃってるしね」
「ですよねぇ、誰が代わりに働くんだって話ですよ」
「子どもが具合い悪いからってこれからも頻繁に休まれちゃ迷惑よねぇ。まったく、あたしみたいな独身で健康な人ばっかりが倍働かなくちゃいけないんだから嫌んなるわ」
「本当ですよー。前働いてた所でも.......」
あー嫌だ。小児科で働いているくせに妊婦とか子持ちとかの悪口で憂さ晴らししてる。挙句の果てに「あなたは結婚してても子持ちじゃないから話が合うわ」なんて言われるし。
そうなんです、私、子どもが欲しくてもできない体なんです。えっへん。子どもなんかいりませーん。などとおちゃらけて開き直ればどれだけ楽なんだろう。
毎月子宮からダラダラ流れる血が鬱陶しい。生理用品代がかさむばかりの、何の役にも立たない臓器が憎い。精神を貪られて涙脆くなって体が浮腫んで。夏は余計むしゃくしゃする。夫に八つ当たりしてうまくいかなくなったのは私のせい。
35歳、子どもを諦めてから何も楽しくなくなった。唯一の癒しだった猫は死んじゃって、いよいよ生きがいがない。いつから間違ってたか考えたらキリがないけど、女として生まれた時点で詰んでいたんじゃないかしら。
くたくたで家に帰ると夫はいなかった。そういえば、朝に言い争ったんだっけ。顔を見合わすと喧嘩になって気まずいから、どこかで時間を潰しているのだろう。もはやただ苗字と住んでいる場所が同じだけの関係みたい。私が彼を不幸にしているのなら、他の女性と一緒になってもらった方がいいのかもしれない。もちろんちゃんと子どもを産める人と。
自暴自棄になって全部が面倒くさくなり、夕飯も食べず風呂にも入らず着替えもせず化粧も落とさず布団の上に倒れた。このまま目覚めなくてもいいやと思いながら、いつの間にか眠ってしまった。
「今日、友人の家に出かけてくる。夜は遅くなるかもしれないから」
ある日の朝早く、夫がぶっきらぼうにそう言った。今日はお互い仕事が休みの日だった。私が家にいるから無理に外出する理由を作ったのだろう。
「ふうん」
スマートフォンをいじりながら興味がないのを演じて空返事をした。
何日か前から誰かと連絡を取っているような素振りがあった。友人って、本当に友人なのか。男が女か。遅くって、何時まで帰ってくるの。気になることは1つも訊けないまま、夫は出かけて行った。
ドアが閉まる音を聞いてから、スマートフォンを放り投げてため息を吐いた。なんて空気の悪い部屋。害しているのは自分なんだけどね。
窓を開けて外の空気を入れる。自由なのに、出かけて買い物をしたり美容院に行ったりする気力は湧かない。友人は、皆結婚して子育てに忙しそうだし。
昔から人を妬む人生だった。幼少期はおもちゃを持っている子や可愛いアクセサリーを付けている子。学生時代はお金持ちのお嬢様やかっこいい彼氏がいる子を妬んだ。今は子どもがいて幸せな家庭を妬んでいる。
私、もしも子どもを手に入れたら今度は何を望むんだろう。そうやって人が持っているものを欲しがって生きていくのかな。
貪欲な自分にうんざりした。三つ子の魂百までというから、この性格は死ぬまで治らない。
他に治る方法は、私が私をやめることか。
馬鹿げたことを考えていると、チャイムが鳴った。
誰だろう、宅配便かな。
ドアスコープを覗くと、色白で顔の整った、スーツ姿の男の人が立っていた。宅配便ではなさそうだ。とりあえずドアチェーンをかけたまま対応する。
「はい?」
「こんにちは。永遠子さんでお間違いないでしょうか?」
「そうですが.......どなた?」
「宵ノ口と申します。優翔さんはお出かけ中ですよね?」
「はぁ、出かけてますけど、夫に用が?」
「知り合いではあるんですが、今日は奥様の永遠子さんに用があって来たんです。とにかく、話を聞いてもらえませんか?」
夫じゃなくて、私に用事? 一体どういうことだろう。何も聞かされていない。本当に夫の知人かどうかも疑わしい。
見たところセールスマンっぽいが、詐欺の可能性もある。
怪しい、怪しすぎて怖い。
「わ、悪いけど、用があるならそのままそこで話してもらえませんか? ちょっと手が離せなくて.......」
その時だった。
「おなかすいた」
どこからともなく子どもの声がした。びっくりして思わず体が跳ねる。
男の人は背後に向かって声をかける。
「おー、よしよし。ちょっと待っていてね」
正面からは気づかなかったが、男の人が体を揺らして角度を変えると2、3歳くらいの女の子を背負っているのが見えた。ピンクのリボンで髪を2つに結った、目がくりくりしていて赤いほっぺをした可愛い子。
「まてないよ、うえぇーん」
生命力溢れる泣き声にほっとする。何か訳ありのようだ。
「えっと、お子さんがいるんですね。わかりました、とにかく中へ.......近所の人も泣き声に驚いちゃうから」
使い道のない母性本能が働いて、私はドアチェーンを外し中へ招き入れた。
「うぇーん、うぇーん」
泣きっぱなしでは話もできない。パンやバナナなど家にある簡単に食べられそうな物を渡すと、女の子は無我夢中で食べた。食べ終えたらウトウトし出してクッションの上に横になり、男の人の手でしばらくトントンと胸を叩いてあやすと静かになる。涙の水滴を頬に付けたまま眠ってしまった。
正体不明の人の子どもでも、やはり子どもは可愛い。パンのようにふっくらとした頬に思わず触れたくなる。
「すいません、急に訪ねてしまって」
「.......それで、話というのは?」
でも、優しそうな顔をしていたって、詐欺への警戒心を解くために子どもを連れてきたのかもしれない。場合によっていつでも警察に連絡できるようスマートフォンを傍に置いておく。
神妙な面持ちで彼は口を開いた。その内容は耳を疑うものだった。
「人生紹介バンクって、ご存知ですか?」
突如頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。
「はぁ、聞いたことがありませんが」
「僕はこの世界からいなくなった人、これからいなくなる人の人生を紹介しています」
クエスチョンマークが増えた。この人は日本語を話しているのに言っていることがまるで理解できない。
「あの、どういうことかさっぱりなんですが……」
「夫婦揃って同じ台詞を言うんですね」
彼は鼻で短く笑った。夫は人生紹介バンクなどという訳のわからないものをすでに知っているのか。いよいよ夫が遠くにいる無関係の人間に感じる。
「単刀直入に言うと、優翔さんは新しい人生に1歩、いや半歩踏み入れている状態です。優翔さんが完全に人生を他のものに乗り換えてから永遠子さんを訪ねるつもりでしたが、それでは永遠子さんの選択肢が狭まって不公平になるなと思って、彼のいないタイミングで会いに来ました」
「だから、言っている意味がわかりません.......!」
声が大きくなってしまい、女の子はしかめっ面をする。起こさないように私は口を手で押えた。
心臓がばくばくして飛び出してきそう。夫と2人で協力して私を貶めようとしているのか。だってこれって、夫が不倫をしていると告げられているのと同じじゃないの。
「そうですよね、いきなりこんなことを言われても困りますよね。わかりやすく物語風に説明してもいいですか?」
「ええ、構いませんよ。どうぞ、気の済むまでお話して、私を納得させて」
ふつふつと怒りが湧く。確かに離婚届けを突きつけられても仕方がないと思った。でも第3者の力を借りて別れを強要するなんて卑怯極まりない。そんな人と何十年も暮らしてきた自分が情けない。
「とある夫婦がいました。彼らは子どもに恵まれず、お互いに共通して愛するものがひとつもないことから、諍いを繰り返し仲が悪くなってしまいました。猫を飼って我が子のように愛すことで夫婦仲が良くなった時間もありましたが、それもわずか。その猫は死んでしまって、再び仲が悪くなってしまいました。夫は、自分のせいで妻を不幸にしているなら、自分が身を引くべきだと考えます。文字通り死ぬほど悩みました。ある日、夫は不思議な男に出会います。男はこの世界からいなくなった人、これからいなくなる人の人生を紹介する仕事をしていました。夫は空白になるはずの誰かの人生を譲り受ければ、これまでの記憶を一切なくして他人として生きていけることを知ったのです。長い時間迷いました。妻を気がかりにしていたからです。自分がいなくなったら身寄りのない妻は独りぼっちになってしまいます。それに、自分は人々から忘れられ、最初からいなかった存在になる。しかし、別れがお互いを幸せにするならと苦渋の決断でした。自分が人生を変えたら、今度は妻へ人生を紹介してもらう。そうすればお互い忘れて他の誰かと幸せに生きていける。それが彼の行き着いた答えだったのです」
小説や漫画の話のようだが、これは私達夫婦のことを言っているんだとわかる。ただ思考が追いつかなくて脳がチーズみたいに溶けている。
「それで、その話の夫は、今、どこに?」
「不思議な男に息子さんを亡くしたある男性を紹介され、その人の元を訪ねています。気に入っていただければ夫は息子さんとして生きるでしょう」
「なるほど、じゃあ、不思議な男は次に妻へ人生を紹介しに行かなきゃいけないわけね。夫がいなくなったら身寄りのない哀れな妻を独りぼっちにしないために」
私はにっこりと笑う。話を理解してもらえたのが嬉しいのか、相手も笑った。
そして、私はテーブルを両手で強く叩いて声を張り上げた。
「ふざけたこと言わないで! 私が哀れ? 独りぼっち? 随分見下されたものね! 馬鹿みたいな話信じたわけじゃないけど、独りで生きていけないほど弱くないわ! それにいなくなった人間の人生を何で私が引き継がなきゃいけないのよ! いらない中古の車を買わされるよりタチが悪いわ!」
高校3年の冬、両親が交通事故で亡くなった。親戚はいるものの遠い血筋でほとんど他人。葬式には会ったこともない人ばかり集まった。独りで生きていけない年齢じゃなかったから、高校卒業後はスーパーや新聞配達や介護など仕事を転々として生きてきた。巡り巡って夫と出会い、25歳で結婚した。誰かと生活するのは久しぶりで懐かしくて、ひどく安心感を与えられた。それなのに、どうしてこうなった。
「..うぇ.....ーん、うぇーん」
遠のいていた意識を戻したのは子どもの泣き声。私の怒声で女の子は起きていて、男の人が抱っこしてあやしていた。
「ご、ごめんなさい。私ったらまた.......」
冷静になってみれば、こうなったのは私が悪い。子どもがいなくたってあなたがいれば良いって、1度も言ったことなかった。愛するものがなくたって、夫婦でお互いを愛せばそれで良かったのに。ようはあれも欲しい、これも欲しいと駄々を捏ねて夫を困らせて追い詰めた。全部全部私がいけなかった。婦人科の先生は、ホルモンバランスが崩れているからイライラしやすいって言ってくれたけど、それだけじゃない。私の性格の問題の方が大きい。
話が本当ならあの人は、最後の最後まで私の幸せを第1に考えていたのに。被害的になって喚いて、私は最低な女だ。
男の人は気分を害せずに平然としていた。
「いえ、怒るのもごもっともです。でも、僕の話は本当です。それは信じてください」
「.......じゃあ、信じる『てい』で聞きます。私は、一体どうすればいいんでしょうか? 夫は、きっと帰っては来ないでしょう。あなたが紹介した他の人の人生を生きればいいんですか? 何もかも全部忘れて。あなたの言いなりになったら、私達の幸せの責任、ちゃんととってくれるんですか?」
「最終的な道を決定するのはお2人です。残された選択は、お互い別の人生を生きるか、片方が別の人生を生き片方がこれまでの人生を生きるか、お互い今の人生の続きを生きるかです。幸せの定義は人それぞれ、どれがベストなのか答えはありません。だから僕は僕の考えを提案することしかできません。幸せへ行き着く責任を負うのはあなた方本人なんです」
ぐうの音も出ない。正論を言われて反論の余地もない。自分達のこれからを人に決めてもらうのは確かにどうかしている。
「私だって、彼を苦しめているなら身を引くべきだって考えています。それに、彼とこれからも夫婦をやっていきたいと私だけが願っても、彼が帰ってこなければそれこそ哀れでしょ」
「まぁ正直、お互いが今の人生の続きを生きるのは、選択肢の中で1番確率が低いです。両思いにならないと成立しませんから。でも奇跡が起きればもしかしたらと思い、手遅れにならないよう早めに会いに来たんです。お節介だったらすいません。優柔不断なんです、僕」
私は言葉を遮るように首を振った。
「せっかく気を遣って早く私に会いに来てくれましたけど、残念ながらその選択は除外ですね。私は彼を幸せにする自信がありません。自分のことでいっぱいいっぱいなんです。一緒にいても傷つき合うだけなら、やっぱり別々になった方がいいんですよ。........何だかすいません、私達の問題に巻き込んでしまって」
「いえいえとんでもない、僕の仕事ですから」
「さぁて、これからどうやって生きていこうかなぁ」
昔みたいに独りで生きるか、それとも他の誰かとして生きるか。私はただ、家族が欲しかっただけなのに、唯一の人を不幸にしてしまった。いっそ酷い言葉で罵られて別れた方が未練が残らずに済んだのに。
少し涙ぐんで思い切り鼻を啜った。いつまでもうじうじしていられない、現実を受け止めなくては。
「ところで、その子は宵ノ口さんのお子さんですか?」
子連れで仕事をするなんて大変だ。面倒を見てくれる人がいないのだろうか。すっかり目が覚めて、宵ノ口さんの膝の上で小さな指をいじっている。
「違いますよ」
「え、じゃあ誰の子なんですか?」
「永遠子さんへ人生紹介するにあたり、キーパーソンとなる子ですよ。すでに現在あなたの中で独りで生きる選択をしているのなら、僕達は黙って去ります」
何となく、彼の狙いは予想できたが、あえて白々しくわからないふりをした。
「どういうことですか?」
宵ノ口さんは女の子を抱き上げて私の方へ近づけてくる。黒くつぶらな瞳には、子どもが欲しくて欲しくてたまらない1人の女が映っている。盗賊が金塊に自分の顔を映したら、きっとこれと似たような表情をするんだろう。
「今日1日、試しにこの子の母親になってみませんか?」
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