忘れないもの


白い杖をついて歩く慶郎の1歩後ろをついて行った。団地の敷地内から歩道に出て聞き耳を立てると、遠くで波の音がした。


「散歩に連れて行ってやる」


私が奥さんじゃないと白状した後、慶郎はそれだけを口にして出かける準備をした。全く意図が読めない。奥さんが死んで、偽物が来たっていうのに嘆きもせず怒りもせず、散歩に連れて行くなんて何を考えているんだか。


目的の場所までの道のりが合っているのか、黙ってついて行くだけでは心もとない。しかし、慶郎にどこまで行くのか聞いたところで、初めてこの地に訪れた私では案内もできない。だから慶郎の足が止まるまで見守るしかなかった。


波の音が近づいてくる。草木で辺りが生い茂った細道を縦に並んで歩き、踏切を渡って坂道を下っていく。その先に水平線が見えて、空と海がくっきりと分かれていた。


木の板でできた浜辺までの階段で慶郎の足が止まり、崩れるように腰を下ろした。歩き疲れた私も、1つ上の段に座り込む。たどり着けたのはきっと何度も足を運んでいるから体が覚えているんだろう。大したもんだ。


海は何年ぶりだろう。ずっと来たいと思っていたけど、1人で来る余力はなかった。それに、海が好きだった夫のことをどうしたって思い出してしまう。


着いてからしばらくお互い何も話さなかった。波が押し寄せて引いて行く音を静かに聞いているだけ。ずっとこうしたままでいるわけにもいかない、2人で干からびるのだけはごめんだ。


先に根負けしたのは私の方だった。


「悪かったよ、騙して! 文句なら宵ノ口に言ってくれ!」


もう文字を書くのはやめて、慶郎の耳元で大きな声を出す。喉を痛めたとしてもその方が手っ取り早く話ができる。


「そんな声をしていたのか、美弥とは似ても似つかない」


「何言ってんだ、あんたの嗄れ声よりましだろ。それに奥さんだと信じきっていた癖に!」


「信じていた。だから帰ってきて、ほっとして、力が抜けてしまったんだ」


「てっきりボケていたのかと思ったよ! 大体奥さんが帰ってきたら喜ぶのが普通じゃないのかい? それをあんた、おかえりも何もなく飯をガツガツ食ったり下手くそな体操始めちゃったりして!」


「考えてみれば、美弥が作る肉じゃがより塩気が多かった」


「目と耳だけじゃなくて舌も使い物にならなくなったんじゃないかね!」


こっちは声帯を、向こうは鼓膜を過度に使わないよう気をつけながら悪態をつき合う。再び沈黙が流れて波の音だけになる。


「・・・・・・美弥は、どんな最期だったんだ」


「知らないよ、宵ノ口に聞きな!」


「これ、読んでくれないか」


慶郎はズボンのポケットに入れた財布の中から、無造作に折りたたまれた紙を出した。


「何だい、鼻紙ティッシュにしちゃ硬いな!」


「美弥が、出て行く前に俺に手渡した物だ。困った時、誰かに読んでもらえって」


「あんた、困ってるんだね?」


「ああ、これからどう生きていけばいいのかさっぱりだ」


やだね、辛気臭い。これからなんてあんたの歳からしたらあと数年くらいしかないのに。生き方を考えるのは飽きるくらい、長生きしてきただろうに。


「散歩に連れてきた礼だ」


仕方がないので紙切れを読んでやる。慶郎への愛の言葉が書いてあればすぐに読むのをやめてやるつもりだった。ただでさえ夫婦の間に割って入っていることを気色悪く思っているんだ。好きだの愛しているだの口に出すだけで蕁麻疹が起きそうだよ。


「・・・・・・ご飯をしっかり食べてください。適度に運動してください。お風呂に入ってください。昼寝はほどほどに、夜寝てください。病院に定期検診を受けに行ってください!」


なんだい、こりゃ。命令口調の文字がずらずら書いてあるだけじゃないか。わざわざ書くもんでもないことを。


淡々と読み上げていたが、最後の文字を読む直前で黙り込んでしまった。


「それで終わりか?」


「・・・・・・ああ、おしまいだよ、おしまい。期待はずれだったかい?」


最後には、今手紙を読み上げてくれている人を大切にしてくださいと書かれていた。残念だがこればっかりは読めない。


馬鹿な奥さんだ。自分が病気で死ぬことをわかっていたんだ。だったらもっと伝えたいことを書き残せば良かったじゃないか。今までありがとうとか、世話になったとか、こんな淡白じゃ呆気ないだろう。


「わかった、読んでくれてありがとう。妻ほどじゃないが、芯の通ったいい声をしていた」


「今更褒めたってしょうがないだろ。あんたの奥さん、不器用だったのかい?」


「そうだな、俺にそっくりだった。人に弱みを見せたがらなくて、いつも勝手なことばかりしていた。もう戻って来ない気はしていたんだ。知らないあんたが来てぬか喜びしたが」


「はは、似た者夫婦ってやつだね。羨ましいよ、大層仲がよろしかったようで!」


「あんた、旦那は?」


「もう死んだよ、ろくでもない旦那だったからせいせいした」


「ろく? 何だって?」


「ろくでもない旦那だったよ!」


私は息を吸い込んでからそう叫んだ。それも慶郎にじゃなく、海に向かって叫んでやった。


「それにあんたじゃない、瑠璃っていうんだ。覚えなくていいよ、どうせ会うのは今日限りだ。私はね、初期の認知症なんだよ。あんたのことも忘れちまう。この先独りで死ぬか、死にかけたところを誰かに見つかって老人ホームに入って終わりなんだ。でも安心しな、あんたは私より幸せな人生なんだから、最期は安らかなお迎えがくるさ!」


「羨ましいな」


「何が?」


「この世も自分も綺麗に忘れて旅立てるだろ。生憎、俺は頭だけはしっかりしているから」


慰めているつもりなんだろうか、病気を羨ましいと言われるのは想定外で、何も言えなくなる。


「俺は、幸せな奴も不幸な奴も見えない。目玉が使えないからって意味もあるが、例え目が見えていたとしても人の幸不幸なんて見ただけじゃわからんだろ」


「・・・・・・あんたは幸せなのか?」


「幸せ、だった」


風に乗ってひらひらと花びらが目の前に落ちた。飛んできた方角を見ると、数百メートル先の海辺に桜の木が1本立っているのが見えた。


こんな所にも桜の木があるのか。


「ちょいと、あっちに桜の木があるよ。せっかくだし歩かないかい? 座っていたら腰が痛くなった!」


有無を言わさず、慶郎の腕を引っ張りあげて立たせた。普段なら桜なんて気にしないが、なぜだろう、あの1本だけで凛と佇む桜の木は、間近で見てみたいと思った。


手を引いてやるほどの優しさは持ち合わせていないから、裾を掴ませて誘導してやる。私も杖をついている身だしね。


風が強い。時々砂に足を取られて転びそうになったが、お遊び感覚だと思えばこれもまた楽しかった。


近くで見れば立派な木だった。桜の花は満開で風が吹く度散り落ちていく。


「どんな桜の木だ?」


「自分で触ってみな!」


慶郎の手首を掴み、木の幹に掌を当ててやる。


「なるほど、立派だ。桜はピンク色だと聞いた。ピンク色とはどんな色なのか考えてもわからない」


「そうだねぇ、優しいとか、可愛いとか言われるけどね! あんたが奥さんに対して想像する色と同じにしといたらいいんじゃないの?」


茶化すつもりで言ったが、慶郎は「そうか」としか返事をしなかった。つまらない男だ。さっきの言い合いの勢いはどこいった。


落ちた花びらが慶郎の頬にくっついた。からかってやろうとしたが、できなかった。慶郎は静かに泣いていて、手ぬぐいの下から頬に伝う涙に桜の花びらがついていたからだ。


美弥さん、あんたよっぽどいい男を捕まえたんだね。幸せだったろう、出ていきたくなかったろう、死にたくなかったろう。私が代わりになれるもんならなりたかったよ。これほど不器用に悲しんでくれる人、他にいないだろう。


「過去は美しく愛しいが、今は醜く憎らしい。今あんたといる時間は、申し訳ないが醜く憎らしい、でも明日には美しく愛しくなっているだろう」


慶郎はまた春三日月のような口をして笑った。


「嗄れた声でそんなこと言われてもねぇ!」


「また遊びに来な」


「どうだかねぇ、あんたのことを覚えておく努力はしてやるよ! それと、宵ノ口に奥さんのことしっかり聞き出して、ちゃんとお別れしなね!」


「ありがとう、瑠璃さん」


感謝されることはこれっぽっちもない。礼を言うな、怖気が走るよまったく。


私たちはもう遠くには行けない。海辺の町で独りぼっちの老人同士が出会った。私たちの終着点はここ以外にない。この桜も、春三日月の口も、できることなら死ぬまで忘れたくないな。


その日以来、バスを使って気まぐれに慶郎に会いに行った。買い物にも行ったし、飯を食いにも出かけたし、散歩にあの海へ行った。愛があるのか、ただの暇つぶしの相手なのかは自分でもわからない。でも、2人で過ごすのは人生で1番充実した時間ではあった。誰かに夫婦と間違えられた時には気色悪くて激怒はしたが、悪くない思い出にはなったかな。


やがて認知症は進行していき、生活もままならなくなって老人ホームに入った。その頃には夫に暴力を振られたことも、慶郎が老衰で死んだことも、嫌な思い出は全部綺麗さっぱり忘れて、ただひたすら夢を見ていた。


桜の木が見える綺麗な喫茶店で、美味しいお茶を独り飲んだ後、心弾ませながら好きな人の元へ帰ろうとしている夢だった。




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