孤独の老婆

2年前



生まれてから今日で85歳を迎えた。


あっという間の生涯だった。親同士が決めた結婚をして、その夫から長年暴力を受けて、朝から晩まで働かされて、稼いだ金は全部奪われてきた。逃げることは許されなかった。


夫が数年前に死んでからようやく訪れた安寧だが、あるのは孤独の時間で他には何もなかった。ひたすら生きるためだけに今日まで生きてきたのだ。


古く荒んだ小屋みたいな家に住んでいて、誰も訪れる人はいない。だから誕生日など祝ってもらえるわけもなかった。


文字通り、何のために生きているのかわからない。ただ刻々と時間が過ぎて息をしているだけ。人の役にも立てない醜い老婆。来るべき寿命を待つだけの日々さ。肥溜めのような人生をさっさと捨ててしまいたい。早く迎えに来ないもんかね。


やれやれ、あちこちで桜が咲いているよ。年に1度きり、短い間しか注目されない可哀想な花だ。花が散ればただの葉のついた木に戻っちまうんだから。


腰を丸めて片手に杖、片手に買い物袋を持って歩く。いつのまにかみすぼらしい老婆になって。取り柄のない人生だこと。それでも自分への祝いくらいやらないと可哀想だ。


「あっ」


小石か何かにつまづいて転んでしまい地面に倒れ込む。


通行人が何人かいたが、汚らしい老婆に声をかけてはくれなかった。私はぶつけた両膝を庇いながら、落とした荷物を拾っていく。手提げ鞄の中身も散らばり、スーパーで買ったケーキは形が崩れてしまっていた。


馬鹿だね、調子に乗って食い意地を張るから

こうなるんだ。


別に転ぶのは初めてじゃない。足腰が弱くなってから何度も転んで生傷が絶えない。薬代が勿体ないから唾をつけて治していた。今更こんな体を大事にしたって何にもならないしね。医者代ももったいない。通うのも大変なんだから。


「大丈夫ですか?」


地面に誰かの影が伸びた。見上げるとそこには若い男がいた。


「気にしないでおくれ」


私はふいっと顔を逸らして無愛想に言った。前にもこんなことがあった。若い衆が声をかけてくれたかと思ったら、いきなり動画を撮り始めて私を笑いものにしたんだ。それから誰も信用しないと決めた。信じられるのは自分だけだ。


男はしゃがみ、落ちた物をかき集めてどんどんこちらに寄越し、最後は遠くまで転がったりんごを拾ってきた。男だけど女の子みたいに色白で可愛い顔をしている。本当なら私にもこのくらいの孫がいてもおかしくなかった。


「・・・・・いらないよ。そんな汚れたりんごなんて」


「恥ずかしながら僕はりんごの皮を上手に剥けないんです」


「じゃあ適当に捨てておいてくれ」


世の中に捨てられた人間がこの台詞を言うのは滑稽だ。私は泥で汚れたりんごよりも価値のない存在なのに。


「いえ、勿体ないのでいただきます。皮剥きの練習用に。お礼に家まで荷物をお持ちしましょう」



素っ気ない態度をとって突き放そうとしているのにも関わらず、まだ親切心を見せびらかして。ここまでしつこいのは初めてだ。


「余計なお世話だよ! どうせこの老いぼれを面白がってるんだろう。優しいふりしたってやる物は何も無いよ! さっさとどこか行きな」


「あれ、もう物はもらっていますよ」


男は得意げに汚れたりんごをちらつかせた。その無垢な顔には下心など一切見えなかった。


私はふんと鼻息を荒くして荷物を奪い取り、歩き始めた。


よたよたと不安定に歩く私の後ろを男はついてくる。


「あ、ちょっと待って。膝、大丈夫ですか?」


「年寄り扱いするんじゃない。何が目的だい? 見ての通り金は持っていないよ。暇つぶしにからかう相手なら他の奴にしな、痛い目にあわせるよ」


「からかうなんてとんでもない、ただの親切です」


杖を振り上げて威嚇しても、男はけろりとしている。そりゃそうだ、指で弾けば倒れそうな老婆に恐ろしさは微塵も感じないんだろう。


オンボロ家を見て金がないとわかった途端、きっと愕然として何も言わずに退散する。そのがっかりした顔が楽しみで家までついてくるのを許した。


しかし、家に着いてからもまだ男はけろりとしている。


「荷物、ここに置いておきます」


・・・・・・結局、膝が痛くて持ってもらっちまった。男は玄関先に荷物を置いて、それ以上敷居をまたごうとはしなかった。そのままピシャンと引き戸を閉めてやれば良かったのに、私は変な興味を持って男が何者なのかを訊いた。


「あんた、どこの誰なんだい?」


「あ、宵ノ口と言います」


「ふん、変な名前だね」


「営業マンをやっていて・・・・・・」


「ははっ、そうきたね。生命保険か何かかい? 生憎私は1文無しと同じ身だからね。残念だったね、せっかくの親切が水の泡さ。ほら、帰った帰った」


「でも、誕生日に誰も助けてもらえないなんて、あんまりじゃないですか瑠璃さん。そんな悲しい誕生日、毎年今日が来る度に思い出しちゃいますよ」


いきなり自分の誕生日と名前を当てられて拍子抜けした。もちろん私は1度も口にしていない。


「すいません、さっき転んだ時に手帳ケースの中から保険証類も落ちたんです。それであなたの名前と生年月日を知りました」


「・・・・・・だろうね、私のことを知っている人はもう周りにいないんだから」


「じゃあ僕だけが誕生日を祝えるということですか」


「何言ってんだ、図々しい若造が・・・・・・!」


「おめでとうございます」


真正面から受けた祝いの言葉のせいで、ついに折れてしまった。世辞でも喜びの感情がわずかに生まれたのは久しぶりのことだった。


「・・・・・・あんた、たらしって言われたことない?」


「えっ、言われたことないです」


「わかったわかった、あんたが裏表のない人間だってのはよーくわかったよ。暇なら茶でも飲んでいきな。ぐちゃぐちゃになったケーキも食わせてやるよ。仕事しているふりにはなるだろ」


私も気まぐれな女だ。祝ってもらって機嫌が良くなって宵ノ口という変わった男を家にあげてやることにした。


この埃を固めて作ったようなみっともない家に誰かをあげるのは初めてだった。


「汚い家だろ。でもゴミなんて溜めないよ。必要最低限のものだけが揃っているんだ」


「確かに、ほぼ空き家みたいです」


宵ノ口は木棚に置いてある夫の位牌を見つけ、膝をついて合掌しようとした。


「あー、ろくでなしな旦那のために手なんか合わせることないよ」


「どんな人だったんですか?」


「毎日顔を引っぱたかれた。酒を飲めば腹を蹴られたね。おかげで子どもができない体になったよ。今頃地獄で苦しんでるんじゃないかねぇ。物がないのはいつ死んでも人に迷惑かけないようにするためだよ。私の亡骸とこの家の中にあるものをまとめて燃やしてもらうようにさ。あんたも歳をとったら自分が死ぬ時のこと考えるようになるよ」


体が動かなくなって誰かの世話なしじゃ生活できなくなるより、ピンピンコロリと逝った方がいい。だからいつくたばってもいいように準備はしていた。


「燃やしてくれる人、いるんですか?」


「これから探そうとしてたんだ。あんたに頼むわ」


宵ノ口は口角を上げて控えめに笑った。


4畳半の狭い畳み部屋で茶を飲み、崩れたケーキを2人でつまんで食べた。この部屋が私の世界で、風呂とトイレ以外はずっとここで過ごしていた。もちろん今まで誰も入れたことがない。この宵ノ口は人の懐に入るのが上手くて、偏屈な私でさえも和やかな気持ちにさせた。万人受けする人間はこういう人間なんだろう。


「そうそう、上手じゃないか」


包丁でりんごの皮を剥くやり方を教えてやる。初めは不安定だったが上達が早くて綺麗に剥けるようになっていた。


「瑠璃さんはうさぎを作れるんですね。器用で羨ましい」


「こんなのすぐできる。もう何十年もやってなかったけど感覚はあるもんだね」


「なぜやらなかったんです?」


「誰かを喜ばせる機会がなくなったからだ」


わずかな友達や知り合いは皆先に逝ってしまった。私は体だけは丈夫で昔から病気をやらなかった。心臓に毛が生えているんだ。もはや買い物で会計のやりとりをする以外人と話していない。時々口の動かし方を忘れそうになる。


「ええと、あんた名前何だっけ?」


「宵ノ口です」


「そうだったそうだった」


独りの時間が長かったのが悪かったのか、最近物忘れが多くなった。さっきも買い物で金を払わず出そうになったし、帰り道も少し迷った。仕方のないことだ。もう諦めちまってる。


「あんたはりんごを剥いてやる相手がいるのかい?」


「はい、いるにはいます」


「嫁さんか?」


「とんでもない、僕は独身ですから。りんごが好物の、ある男性のお客さんがいまして」


宵ノ口がりんごを剥いてやりたい相手は、盲目の90歳の老人。それが頑固で強がりでなかなか気難しく、宵ノ口しか受け付けない。なんだか私と気が合いそうだ。


「奥さんは先日亡くなられて天涯孤独でしてね。心を許してくれるのはありがたいんですが、僕がずっと後見人のような真似をやっているわけにもいきません。彼を支えてくれる人を探しているんです」


「それはそれは大変だ」


自分に関係のない話。適当な相槌を打つと、宵ノ口は真面目な顔でとんでもないことを言い出した。


「瑠璃さん、奥さんになる前提で彼に会ってみませんか?」


馬鹿な話をするんじゃないと、熱い茶をぶっかけてやれば良かった。冗談にしちゃたちが悪すぎるだろう。


営業マンと言っていたが、まさか縁談を持ち込まれるとは思いもしなかった。


「あの、勘違いされては困るんですが、僕は結婚相談所の者じゃありません」


「じゃあ何だって言うんだい気色悪い!」


私はがなり声をあげて宵ノ口を睨む。85歳で魅力のみの字もない、老い先短い相手に男を紹介するなんて。頭がおかしい仕事だ。


「説明が足りなかったのはうっかりしていました。奥さんになるというのは、そのままの意味ではないんです。半信半疑でいいので、話を聞いてください。彼はまだ奥さんが亡くなったことを知らないんです」


宵ノ口の仕事は、この世からいなくなった人間が、本来なら歩むはずだった人生を紹介するという奇想天外なものだ。今までの記憶は全部忘れ、嘘の記憶を植えつけられて別な人間として生きる。周りの人間も都合よく記憶が弄られて絶対に暴かれることはないだなんて。


生憎、私はそういった有り得ない話は信じない。しかしその盲目の男の話だけは信じてやった。


「彼は慶郎さんと言います。生まれつき視力がなく、親からは煙たがられて愛された記憶がないと仰っていました。按摩師をやっていた時に常連客だった奥さんと親しくなったそうです。家族も友達もいない彼にとって奥さんは唯一無二の存在でした。そのことを奥さんはわかっていたのです。病に倒れてから真っ先に心配していたのは慶郎さんのことでした。自分にもしものことがあった時、代わりに支えてくれる人を探していたんです。そして人づてで知ったのが僕が務める人生紹介バンクでした。奥さんは僕にこう遺言を伝えています」


私が死んだことは、慶郎さんには決して知られないようにしてください。もう、あの人に独りぼっちの辛さを味あわせたくない。


「望み通り慶郎さんには、奥さんは長い旅行に行ったと話してあります。しかし知られるのも時間の問題です。早く奥さんの人生を引き継ぐ方が必要なんです」


「そうすると、あんたはその慶郎って人にばれないうちに、奥さんをすり替えようって魂胆かい?」


「言い方は悪いですが、そういうことです」


「とんだくわせものだぁ! 作り話にしたってそんなのうまくいきっこないよ!」


とんでもない話に、私は腹がよじれるくらい笑った。そんなに上手い話があるなら世の中苦労しないだろう。


「そうなんですよ、皆さん最初は信じません。でも現実の話なんですよ。今まで知らなかっただけで上手くいかないことが上手くいく世の中に変化してきているんです」


「ははは、それは大層なこった。大体どうやって奥さんのふりをしろってんだい? 目が見えなくとも声が違えば1発でわかるだろ」


「問題ありません、慶郎さんは耳が遠くて奥さんも大きな声を出せる方ではありません。だから夫婦は掌に指先で文字を書いてコミュニケーションを取るのが主だったんです」


「さっきの話を聞いていたのかい? 私は男に苦しんできたんだ。それをあんた、見ず知らずの奴を紹介してきて奥さん役をやれだなんて酷くないかい?」


「慶郎さんは愛妻家です。手を挙げたことも1度もありません」


ふん、愛妻家ねぇ。ますます気に食わない。生まれた時から光を知らない男に、どうして惹かれて夫婦をやっていたんだか。死んだ奥さんの気が知れないね。死んでからも旦那を心配するなんて。


ゴポポポ。


嫌な音を思い出した。


夫に殴られて血まみれになった顔を洗って、赤い血が水に混ざって排水溝に流れていく音。あの絶望の目をした、鏡に映る自分。他人の幸せを妬んで生きているのは今も変わらない。


口の中に鉄の味がした。恨み妬みの不味い味だ。


「気が変わった、奥さん役をやってもいいよ」


この時、私は悪巧みをした。ころりと態度が変わった裏で、人としてやってはいけないことをやろうとしていたのだ。


それは、奥さんだと思い込ませて酷い仕打ちをしてやろうというものだった。慶郎という男は、私のこれまでの生涯に一切関わりがない。恨まれる筋合いももちろんない。


夫にできなかった復讐を代わりに受けてもらおう、面白おかしくどん底に突き落としてやろうと思ったのだ。それで気が済むのかは知らないけど、退屈しのぎにはなりそうだ。


「いいんですか? あんなに怒っていたのに」


「いや、私も死ぬ前に1度は人から大切にされてみたくなったのさ。愛妻家に嫁いだらどんな気持ちになるのかなってね」


入れ歯が浮く、じゃなかった。歯が浮くような台詞をべらべら言うと、宵ノ口はぱっと表情を明るくさせて喜んだ。


「ありがとうございます。じゃあさっそく会う前の打ち合わせをしましょう」


打ち合わせは名ばかりで、宵ノ口がべらべらと慶郎について勝手に喋っているだけだった。生年月日やら生活習慣やら好物やら言っていたけど全く頭に入らない。そんなものどうでも良かった。私が散々嫌がらせをしてから、激怒した慶郎が私を奥さんと間違えて引っぱたく。その後種明かしをしてやったら、きっと酷い顔をするだろう。何が愛妻家だ、本性を見るのが楽しみだね。


明日の朝、宵ノ口が弄れた老婆を迎えにやって来る。今夜は早めに床へ入ることにした。


久しぶりに人と話して疲れたようで、目を閉じたらすぐ眠れて朝まで1回も起きなかった。


しかし、排水溝に水が流れる音はずっと耳の奥で鳴り続き、死んだ夫が夢の中で私を嘲笑っていた。翌朝に目が覚めてからしばらく恐怖で布団の中から動けなかったものの、あの人はもうこの世にはいないことを思い出してひどく安堵した。


「・・・・・・このクソ野郎め」


少し上から私を見下す位牌に向かって、枕を投げつけてやった。


どうせ相手に見えやしないと、髪を整えたり綺麗な服を着たりはしなかった。ぐしゃくしゃの寝癖頭に何年も着てあちこちがほつれた服を着ている、つまりいつも通りの格好で宵ノ口を迎えた。


「おはようございます。わざわざ玄関先で待っていただいてありがとうございます」


「別に。晴れていたから陽に当たっていただけさ」


「それにしても大きなリュックですねぇ」


「まぁね、これでも女だから必需品が多いんだ」


「そうですか、ささ、こちらへ」


準備がいいことに、すでにタクシーを呼んでいたらしく後部座席に乗り込むまで私をエスコートした。


「こっから遠いのかい? 料金は?」


「隣町なので40分ほどで着きますよ。料金は依頼主が負担するのが基本です。亡くなった奥さんからこういう時のためにいくらかお金を預かっているのでそこから使わせてもらいます」


「ふうん」


話を全部信じたわけじゃない。親しみやすいとはいえ昨日会ったばかりの男だ。死んだ人間の人生を引き継ぐなんて、はいそうですかとすぐに納得できるはずがない。


しかし、このまま車に乗って誘拐される危険がないのは確実だった。私に家族や金があればその可能性は少なからずあったんだろうが、何もない私を誘拐しても利益がない。目的もなくボロ雑巾みたいな私を攫いたい奴がいたらそいつは物好きだ。


しばらく車が走っているうちに、だんだん潮の香りが強くなってきた。車窓から海が見える。いつの間にか海沿いの町に来たらしい。微かな波の音しかしない、静かで寂しい場所だった。



それからほどなくして慶郎が住む団地に着いた。部屋のある3階まで階段をあがり、玄関前で一息ついてから宵ノ口がチャイムを押すと、やけに大きな音楽が流れた。


中から足音が近づいてくる。少し時間がかかってガチャリと半分だけドアが開き、現れたのは白髪頭の男。


そして、目元は黒い手ぬぐいを巻いて隠されていた。


「誰だ?」


こちらを警戒する男の声はひどく嗄れていた。何日も声をあげて泣き続けて喉が潰れたらこんな風になりそうだ。


「慶郎さん、僕です。宵ノ口です」


宵ノ口は耳元で大きな声で話しかけた。


「入れ」


ドアが全開になりようやく相手の姿見がわかった。


肌着とステテコの格好をして、ひょろりと高い身長に胸元からあばら骨が浮き出ていて手足は木の枝のようだ。


空になった弁当の容器の山、脱ぎ捨てられた衣類、いくつもの膨らんだゴミ袋。足の踏み場がないほど室内には物が散乱していた。まるで強盗が入ったかのような散らかりように呆気に取られる。これじゃあ私の家の方が何倍もましだ。


「あらら、またこんなに散らかして」


宵ノ口は驚いた様子もなくむしろ慣れた風にそう言って、テキパキと物を避けて歩くスペースを確保していく。


「すいません、先日片付けたばかりだからこんなに散らかってると思わなかった」


面倒を見ていると言ったのは本当らしい。自分のことでも精一杯なのに、これほど酷い有様の男の世話をするとなれば想像しただけで吐きそうだ。宵ノ口がいなくなったら、奥さんのふりをして頭から水を被せたり蹴りあげたりして憂さ晴らしをしてやろう。愛する者に酷い仕打ちをされた時の反応を見るのが楽しみだ。


「誰か他にいるのか?」


嗄れた声には敵意が込められていた。私の思惑が悟られたかと一瞬心臓が跳ねた。


「慶郎さん、実は、奥さんが、帰ったんですよ!」


宵ノ口はまた耳元で大きく話す。そして慶郎の手を取り私の目前まで連れてきた。思わず1歩後ろに下がる。


「・・・・・・美弥みや?」


顔の部分で1番感情がわかるのは目だ。この男の場合、失明しているし手ぬぐいで隠されているし感情が読み取りにくい。ただ、奥さんの名を呼ぶ声は悔しいほど優しかった。


「あ、ええと・・・・・・」


どうしたらいいか戸惑っていると、宵ノ口が慶郎の右手を取り、掌を上にして私の方へ伸ばしてきた。指で文字を書けと言うのだろう。生意気な。


仕方がないので指先で「はい」とだけ書いてやる。情けないが、指先が震えた。このくらい大丈夫なはずだったが、男に対する恐怖心は植え付けられたまま。これは死ぬまで治らない呪いだ。


挙動不審に書いた文字で奥さんではないことがばれてもおかしくなかった。しかし慶郎は気づかずにうんうんと何度も頷く。警戒心が強そうなくせに鈍感だ。


「随分長く、出かけていたんだな」


慶郎の問いかけをどう返すべきかは、宵ノ口がこそこそと耳打ちをしてそのまま私が掌に文字を書いた。


『友達が病気で入院したから、色々面倒を見たんだけど思ったより長引いてしまって』


「ああ、そういえばそんなことを言っていたっけ。友達は、大丈夫なのか?」


『大丈夫、元気になった』


「もう、行ったきり戻って来ないのかと思った」


その寂しげな嗄れ声に、うっかり情が移りそうになった。


ああそうだよ、本物の奥さんは行ったきりで2度とあんたの所には戻らないよ。悪さをするため代わりに鬼婆がやって来たのさ。


「それで、私は何をすりゃいいんだい。下の世話をやるってんならごめんだよ」


慶郎には聞こえないが、一応ひそひそと宵ノ口に耳打ちする。


「家政婦をお願いしているわけではないので、瑠璃さんはただ慶郎さんの傍にいてくれればいいんです。夕方には迎えに来ますので、それまでの間にもし何かあれば電話をください」


そう言って電話番号の書かれたメモと携帯電話を渡される。しめしめ、夕方までやりたい放題してやろう。まずはこっそり金目のものを探して、売れそうな物を集めてリュックに詰め込もう。その後はわざとまずい飯を作ってやって、掌に罵詈雑言を書いてやって、それからそれから・・・・・・。


「では瑠璃さん、僕は一旦失礼しますね。ご検討を祈ります」


「あ、そう。んじゃまた」


思いつく限りの悪意を想像しているうちに、やっと宵ノ口が帰ると言ってきた。


慶郎の耳元で帰ることを伝えると、今度はさっぱり綺麗になった廊下をスタスタ歩き、玄関のドアを開けて去った。私達はようやく2人きりになる。



私はさっそく室内を探索し始めた。ただ団地で部屋数は少ないといっても、家具だかゴミだかわからない物で溢れているから、金目のものを見つけるのは骨が折れそうだ。


慶郎は畳部屋の真ん中にある長座椅子に腰掛けてぼーっとしている。何を考えているんだか。もしかしてぼけちまってるんじゃないか。


まぁ、ああして誰とも話さず飯もまともに食べているか怪しい生活なら、脳みそが腐ってもおかしくないね。


慶郎は放置してありとあらゆる場所を漁った。


物をどかしては、また物をどかす。かなりの重労働だ。こりゃスコップで地面を掘って宝を見つけるより大変だぞ。


必死で探しても出てくるものはガラクタばかり。タンスの引き出しを開けても通帳や金はなく、金庫らしいものもなかった。


台所、風呂場、トイレ、押し入れ、手当り次第探したが、結局見つからず気づけばここに来て1時間以上経っていた。


最後の手段を使うしかない。尚もぼーっとしている慶郎の掌を取り、文字を書いた。


『慶郎さん、お金はどこにしまったの?』


慶郎は首を傾げてこう答えた。


「俺だけでは買い物も満足にできないから、美弥が宵ノ口に預けるって言ったろ」


それを聞いて私はずっこけた。奥さん、余計なまねしてくれたもんだね。この1時間返しな。


売って金になりそうなものもなし。もうゴミ山を漁るのは諦めよう。


私は腰を痛めながら水道水をペットボトルに汲んで、慶郎の元に歩み寄った。薄汚れて何日着ているかわからない服。こんなの身ぐるみを剥いだところで1円の価値にもならない。なら、せめて憂さ晴らしの相手にはなってもらわないと。


そうして、ペットボトルの水を勢いよく慶郎にぶっかけた。


・・・・・・しかし、どういうことか。素早い身のこなしで避けられてしまう。慶郎は近くのダンボールの山に頭から突っ込んだ。


もしや、見えないふりをしている? 手ぬぐいに小さな穴が開いていて、こちらの様子がまるわかりだったのではないだろうか。


慶郎はじたばたと手足を動かして、やっと上体を起こした。


「・・・・・・あんた、私のことが見えてるだろ? 耳も聞こえないふりしてないか?」


問いかけに反応はなかった。慶郎は困ったように頭をボリボリと掻いて、手探りで何かを探し始めた。そのうちタオルを掴み取って、座布団の位置に戻り水浸しの畳と座布団をこれまた手探りで拭き始めた。


プルルルルルル!


突然、宵ノ口から渡された携帯電話が鳴る。驚いて飛び跳ねてからやっと通話ボタンを押した。


「な、何だい!」


「あ、すいません。宵ノ口です。実はうっかりして言い忘れたことがありまして・・・・・・」


「だから何だい!?」


「慶郎さんですが、あまりの反射神経の良さに驚くかと思います。というのも彼は幼い頃から周囲の人間に忌み嫌われていたらしく、特に親から日常的に虐待を受けていたそうです。だから目が見えなくても耳が遠くても気配で危険を察知して回避するんですって。あと、亡くなった奥さんはこれまたおっちょこちょいで、つまづいて花瓶の水やお茶を慶郎さんにかけちゃいそうになったなんてエピソードも・・・・・・」


話している途中で私は力を込めて電話を切った。



再び慶郎がぼーっとし始め、私は苛立ちながらゴミ部屋をうろうろとしていた。


一体どうやって酷い目にあわせてやろうか、作戦を考えていたのだ。


そうだ、料理があるじゃないか。


いくらなんでも食べ物に気配はない。食ってみなけりゃ味などわからないんだ。


さっそく私は台所に立った。でも洗っていない食器の山があって調理する場がなかった。仕方がないのであらかた片付けをしてから作り始める。


まな板と包丁を見事に発掘した。鍋も1個あれば十分。材料は冷蔵庫の中に宵ノ口が買ったと思われる肉や野菜、調味料があった。


よし、これですごく不味くて舌がいかれそうな飯を作るぞ。


黙々と調理をする。いつもはスーパーでできあいのものを買って腹を満たしていた。自分で料理を作るのも誰かに食わせてやるのも久しぶりだった。そのせいで、不味く作ってやるつもりが味見をしては美味い方へと調味料を加えている。無意識にできた料理は、予定と違って美味くなってしまった。


今から唐辛子を入れて辛くしたり、醤油を入れてしょっぱくしたりしても良かった。だが、その簡単なことができない。というよりしたくなかった。


私の料理は誰にも褒められたことがない。美味いと一言もらうのは、どんな気分なんだろう。馬鹿みたいな期待が膨らんでしまう。


2人分の皿によそって慶郎の所に持っていく。匂いが届いたのか、慶郎のうつむき加減だった顔がこちらに向く。


私は掌に『ごはん』とだけ書いて教えてやる。ついでに箸も渡してやった。


慶郎は口に入れると咀嚼した。ふと、夫の姿が重なる。あの人は不機嫌だと料理に箸をつけず床に向かって投げ捨てていた。そして頬を2、3発殴られる。理由はない、私は悪いことはしていない。ただ虫の居所が悪いから殴るだけ。子がいなくて本当に良かった。自分の父親が母親に暴力を振るう様を見せなくて済んだ。


体のあちこちにうっすらと残る傷跡が痛んできた。


「美味いなぁ! 久しぶりにこんな美味いものを食った! 肉じゃがだな」


突然の大きなしゃがれ声に心臓が止まりそうになった。慶郎の口は春三日月の形になって笑っていた。それから箸を止めることなくガツガツと無我夢中に食べ、しまいには皿を舐めまわした。


「・・・・・・ふん」


犬みたいな男だ。上品の欠片もない。一体奥さんはどこに惹かれたんだろうね。


傷跡の痛みはいつの間にか消えているのに気づくのは、もう少し後のことだった。



飯を食って腹がいっぱいになったおかげか、電源が入ったみたいに慶郎は活発化した。音楽もなしにラジオ体操を始めている。目が見えず耳も遠くて無口になってしまったのか、それとも元々寡黙な性格だったのかは知らない。連れてこられた身としては退屈で仕方がなかった。


攻撃をしようとすれば避けられ、不味い飯を作ろうとすれば失敗する。はてさて、他に何かできることはないか。


慶郎の顔を見ながら考えた末、まだ残っている嫌がらせを思いつく。


そういえば、手ぬぐいの下が気になる。目が見えないとは聞いたが、どうなっているのかは聞いていない。


目玉がなくて空洞になっているのか、瞼が閉じきったままなのか。眉と鼻と口の形だけではやはり顔がわからない。見られたくないから隠しているんだろうが、奥さんだと思って見せたのが、実は他人だったと知った時の反応も面白そうだ。


私は動き回る慶郎の手を掴まえて文字を書いた。


『慶郎さん、手ぬぐいを洗濯してあげる』


慶郎は少しも疑う様子がなく、頷いて手ぬぐいを取った。


____顕になった目に、思わず息を飲んだ。


空洞でもなく、二重の瞼も開いている。世界の光を1度も見たことがないのだろう、その瞳は乳白色に薄く青みがかかっていた。青翡翠という石によく似ていて美しかった。


それを見てから慶郎に対する敵意とか、愛されて死んだ奥さんへの嫉妬とかがどうでも良くなってしまった。過去に囚われていたのが阿呆らしく思えたし、ここに来てからの緊張の糸もぷつりと切れて、差し出された手ぬぐいを握り締めながら私はその場で脱力する。


今はただ、底なしの申し訳ない気持ちしかなかった。


「どうしたんだ? 座り込んでいるのか?」


足元で蹲る私の気配を察して、慶郎はしゃがんで手探りで私の肩に触れた。触られるのは初めてだったが、ちっとも嫌な気分にはならなかった。


「美弥、美弥? 具合いでも悪いのか? 返事をしてくれ」


肩から背中へとしわしわで大きな手が回され、適度な力でさすった。


私は、あんたを苦しめるためにやってきた疫病神さ。優しくするんじゃないよ。


・・・・・・おかしいな、人を傷つけるのが面白そうで退屈しのぎになるなんて、腐った思考を持つはずなかった。だって傷つけられた痛みが何十年経っても消えないのは、私がよくわかっているのに。何だか最近、自分が自分じゃなくなっている気がする。昔の私はもっと、慈悲のある人間だったじゃないか。


___あなたの病気は、忘れるだけではなく人格が変わることもあるんです。


思い出した。そうか、私は病気になっていたんだった。どんどん進行していって、最後には何もかもわからなくなってしまうんだ。


目線の高さが合っている慶郎に向かって、誰にも言えなかった事実を打ち明ける。


「医者に、認知症と言われたんだ。それも1番厄介な種類のね。これから朝も昼も夜も、季節も、自分のことも忘れていくんだって。今の人生を捨てて、他人の人生をもらったところでこればっかりは変わらんでしょうね。いいんだ、私は私のまま最期まで生きてやるよ。たった今決めた。あんたのおかげさ」


もちろん声は聞こえていない。慶郎はおろおろと奥さんの心配をしている。そんなに私と似ているのかね。いくら容姿がわからなくたって触ったら違いがわかりそうなもんだが。耄碌するのは私だけで充分だよ。


目を覚まさせてくれてありがとう。


私は慶郎の手を取り、私の中で微かに残っている善良な心を込めて文字を書いた。





『私は、美弥さんじゃない。あんたの奥さんは、亡くなってしまったんだよ』

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