憂鬱3年

「何で私達には赤ん坊が授からないのかな」


何年過ぎてもあの時の永遠子の悲鳴は耳の奥に残っている。


大丈夫、必ず授かるからと前向きに待っていたのに、いつしかそれは後ろ向きへと変わった。


愛の結晶である子ができないのは俺達に愛がないからなのかとか、子が親を選んで生まれてくるとしたら、俺達は選ばれなかったんじゃないかとか、誰かの親になる資格がないとか。


毎晩、永遠子の押し殺すような泣き声で夜中に目が覚める。いっそ自分の命を子に与えたかった。永遠子が苦しみから解放されるなら。


あの頃から俺達夫婦はおかしくなっていったのかもしれない。変によそよそしくてお互いを気遣うように言葉をわざわざ選んで、

当たり障りないつまらない日々を送っていた。俺達に子どもが望めないのだとわかってから、2人は夫婦でいて良いのか疑問に思ってしまったのだ。足繁く病院に通っては不妊治療を懸命に受けたのに。いつやって来てもいいように、赤ん坊を迎える準備はとっくにできていたのに。男の子だったら、女の子だったらこんな名前にしようとも決めていたのに。


永遠子の子宮は赤ん坊が休めるベッドがうまくできないらしいのだ。


イライラしたり腹部が張ったりしたのは妊娠の兆候ではなく月経前症候群といわれるもので、月経が来る度に永遠子は涙を流した。


時間も金も割いて頑張った。頑張ったけど、無理だった。口には出さなかったけど2人の宝物は諦めていた。そのうち喧嘩が絶えなくなって、なるべく顔を見合わせないよう時間を潰した。


昼間は永遠子が、夜は俺が外に出て行くすれ違いの生活。あの頃俺は色んな機械の部品を作る古い工場で夜から朝方まで安い賃金で働いていて、朝家に帰れば永遠子は町中のクリニックへ事務の仕事をしに行く。永遠子は精神が弱っていた。体を休めるべきだった。でも仕事で気を紛らわせないとやっていられなかったのだろう。休みの日が被ればどちらかが外に出て時間を潰す。何日も会わない日か続いて、互いの生存確認は洗濯機に放り込まれ積み上がっていく衣類の山を見ること。家は寝るか風呂に入るか以外使われない場所になった。


子どもがいないせいで家庭が崩壊しかけるなど思ってもみなかった。罪のない他人や子どもが憎らしくなってきて、町で見かける子ども、妊婦、親子連れを睨みつけるようになってしまった。


公衆トイレで赤ん坊を産み落として放棄したり、子どもを虐待して死なせてしまったり、そんなニュースが流れる度悔しさと怒りで頭がどうにかなってしまいそうだった。


子を望む親の元に子は来ず、子を望まない親の元に子は来る。理不尽で不公平な世界。


永遠子の髪を撫でなくなってから、手を握らなくなってから、抱き締めなくなってから随分経った。誰かを愛でる余裕がない。自分を保つことで精一杯。


精神をやられているのは僕も同じ。意識を失いたくても失えず、嘔吐したくても嘔吐できない、消えたくても消えるわけにはいかない。行き場のない心痛がどんどん酷くなっていく。痛みを感じなくなった時、僕の中の何かが弾き飛んだ。


とにかく、とにかくどこか遠くに行きたかった。手段は何でもいい。車、電車やバス、タクシーでどこかへ。誰も知らない場所で独りになりたかったんだ。衝動的になっていた。その一時の感情で自ら命を絶つ人は世界に数え切れないほどいるんだろう。俺もそのうちの1人になる可能性は充分にある。


ある日の夜。仕事は休みで、久しぶりに顔を合わせた永遠子と大喧嘩をした。掃除洗濯をやるやらないのくだらない理由からだった。彼女のいる家にいたくなくて外へ飛び出る。夏の涼しい夜で、嫌な目にあった直後だというのに不思議と清々しい気分だった。


飲み屋街にはアルコールで馬鹿になった連中が大笑いしながら歩いていて、道の真ん中で寝ようが電柱に小便をしようが、ゲロを吐こうが何でも自由な状態。人としてのプライドを放棄している。シラフの俺も馬鹿なふりをして笑いながら歩いた。日中なら奇異の目で見られるが、誰も気に留める人はいなかった。何も考えず、ずっとこうしていたい。


でも、今頃日本の反対側には鬱陶しい太陽が照っていて、あと数時間もすれば東の方から頭を出してくる。夜は消えてしまう。


笑い疲れた俺は建物の前に座り込んで項垂れた。金が勿体ないから妻が出勤する時間までどこかで野宿しようと考えていた。夏だからいいが、冬だったら凍え死ぬ。でも、死んだら死んだで別に構わなかった。むしろ手間がかからずラッキーだった。


どこか遠くにっていうのは距離的な意味だけじゃない。


朝が来る前に、この町から、この世界から消えてしまおうか。ここのところ疲れても眠れない。不眠が続いているせいで思考がどうかしている。こうして項垂れているのが夢なのか現実なのかも曖昧だ。



俺は、何をしているのだろう。


「どうかしましたか?」


背後から声をかけられ、慌てて振り向く。スーツを着た男が中腰で立っていた。


「店の前に2時間近くいらっしゃったので」


いけない、看板がないがどうやら店だったらしい。よく見れば自動ドアの向こうにオフィスが見える。2時間? そんなに長くこの場に座っていたのか。怪しまれて通報されたらたまったもんじゃない。


「すいません、お邪魔をしてしまいました」


俺は立ちあがって従業員らしき男にへこへこと頭を下げて謝罪する。長く曲がっていた腰を勢いよく伸ばしたせいで下半身に痛みが走る。


「具合が悪そうですね。よければ中で休んでいきませんか?」


すぐに立ち去るべきだったが、男の親切のこもった穏やかな声が俺の足をこの場にとどめた。


何の店なのかも確認しないまま中に案内される。室内はこざっぱりとしていてポスターも張り紙もない白い壁に、大きな接客カウンターとパソコンが数台あるだけだった。他に従業員と客はいない静かな空間。


入って、良かったのか?


内側に引き込んで高額なものを売りつけたり、保険加入をすすめたりと、利益を得るために親切なふりをして話しかけてきたっておかしくない。簡単に人を信じるなんて俺らしくなかった。胡散臭い話を持ちかけられたらすぐに出て行こう。


男は僕をカウンターの椅子に座らせて、水を一杯持ってきた。そしてなんと、くだらない身の上話を飽きずに聞いてくれたのだ。初対面の相手に話す方もどうかしている。でもこの男になら身のうちを打ち明けても良い気がした。意見や叱咤激励してくるわけでもなく、ただ黙って聞いてくれることが、居心地良くて仕方なかった。


人生最後の話し合い手はこの男で充分だと思えるほどに。


一通り話して喉がカラカラになって、僕は用意されたグラスに入った水を一気に飲んだ。


「すいません、一方的につらつら話しちゃって」


「いいんです、今日はたまたまお客がいないので退屈していたんですよ。ま、そうですねぇ.......夫婦の仲がまた良くなるようにしたいなら、趣味とか好きな物とか共通できるものがあるといいかもしれませんよ」


「共通ねぇ、何かあったかな……」


「例えば、動物を飼ってみるとか。特に猫。寂しい時に寄り添ってくれますし、可愛いし」


「猫か。いいかもしれないな」


「ああ、あと夜勤の仕事は辞めることを勧めます。人はお腹が空いていたり睡眠不足だったり痛みがあったり、どれか1つ当てはまれば気性が荒くなりやすいですから。人に優しくしたいなら避けるべきです」


「そう、ですよねぇ。ありがとうございます、転職も考えてみます」


話を聞くだけでなく的確なアドバイスをくれる男。


誰にも言えなかった悩みと鬱憤を吐き出したことで、気持ちがすっと楽になった。感謝の意味で店から買えるものがあればと店内を見るが、商品らしきものが見当たらない。


「失礼ですが、ここは何の店なんですか? 看板もないし、事務所のようにも見えますが」


店の名前、売りにしているもののヒントになるものがどこにもない。唯一わかったのは、男の胸元のネームに書かれた名前が宵ノ口という珍しい苗字であること。


宵の口、日が暮れて夜になりはじめたばかりの頃をさす。


「人生紹介株式会社、人生紹介バンクですよ」


聞いたことのない会社名に戸惑ってしまう。


「人生紹介って、どういうこと?」


「そのまんまの意味ですが」


ますます意味がわからない。宵ノ口の方もなぜ僕が理解していないのか不思議で仕方ないような顔をしている。


「簡単に説明すると、僕はあなたという人材を求める人とあなたを結びつける仲介人です。普段は出張ばかりしていますが、今日はたまたま社に用があって戻っていたんです。そこにあなたが」


「えっと、人材バンク、ってことですか?」


「似てますけど違いますね。人生の一部である仕事の紹介じゃなくて人生丸ごとの紹介ですから、僕は転人生エージェントってことです。この世界からいなくなった人、これからいなくなる人の人生を存続できるよう手配するんです。例えば、息子を亡くした方の息子として生きたり、兄を亡くした方の兄として生きたり。運が良ければ大手企業の社長の息子とか大女優の夫になるのも夢じゃありませんよ。あなた自身のまま、まるっきり別人として生きていけるんです」


「あの、どういうことかさっぱりなんですが……」


脳が綿になったみたいにふわふわして、俺の思考力は低下する。目の前の男が真面目な顔をしておかしなことを言っているせいだ。


更に彼は憐れんだ目をして、俺を分析し出した。


「申し訳ありません、実はあなたも勧誘する見込みがありそうだったから声をかけたんです。真夜中に若い男性が、独りで道に座り込んで思い詰めた顔をしている。しかも酒の匂いがしない。穏やかじゃありませんよね。朝を迎える頃にまだこの世界にいるかどうかも危うい。とても声をかけずにはいられませんでした」


心拍数があがる。体中の毛穴から滝のように汗が吹き出てきた。この男にはこれから俺がしようとしていたことを見抜かれている。


「この国の年間自殺者は約3万人。年々人数は増加しそれも若年層が目立ちます。自殺者を減らすために設立されたのが弊社です。自分に置かれた状況が嫌ならば捨ててしまえばいいんです。肉体的な死をもって生まれ変わったってまた不幸な道を歩むことになれば意味がありません。ならば生きたまま他者になればいい。名前も家族も友人も仕事もあなた次第でいくらでも変えられるんですよ」


自殺というワードを口に出されていよいよ身が硬直した。さっきまでの俺は衝動的でやけになっていたし、今は少し冷静になっている。何か言い訳をしようとしたが、何を言っても通用する気がしなかった。それにきっと独りになって時間が過ぎていけば、気持ちが不安になってまたろくでもないことを考えてしまうのは目に見えていた。


「人が人から逃げたくなる理由とか、人が人を求める理由なんて十人十色です。人生のレールはすでに準備されているので、それに乗っかって新しく生き直せばいいんですよ。1度でも捨てようとした命、誰かのためになるし自分も幸せになれるんです。あまり難しく考えないで。人生紹介バンクを使っているお客様、結構多いんですよ。僕があなたに相応しい人生を見つけて紹介する、あとは相手と自由にやり取りをして条件が良ければ契約に移行する。それで完了です」


「そ、そんなの上手くいくんですか? 大体別人として生きたって、死に別れじゃなく生き別れだったら、嫌でも無関係になった家族や知人に会ってしまう。 ……まさか整形するっていうんじゃないでしょうね?」


「整形なんてしませんよ。先程も言ったようにあなたのまま別人になるんです。時代は何事も不可能から可能へと変わってきています。別人として生き始めたら昔のことなどすっかり忘れて新しい自分になります。昔のあなたと関わっていた人達も、あなたのことを忘れる。だから引き戻そうとする人はいません。万々歳でしょ? 反対に元の生活へ戻りたくなっても戻れないのはデメリットになりますがね。仕組みについて話すとなると脳の構造から情報処理メカニズムと難しく長々と説明することになりますが……」


「い、いや、結構です。きっと聞いても理解できませんから……」


あまりにも現実離れした話についていけなくて、唇に麻酔をかけられたみたいに上手く喋れない。


「つまり死んだらね、そこでおしまいなんですよ。天国や地獄があるのかもわからない。三途の川を渡りかけた人は何人かいるらしいですけど。ところで優翔さんの好きなことはなんですか?」


「……プラモデル。時間がなくて、随分やれていないけど」


「好物は?」


「ハンバーガー、かな。あと、フライドポテトです」


「いいですね。体の機能が衰えて寿命を迎えるまで楽しみを楽しまなきゃ勿体ないですよ。嫌なことからの逃げ先を死にしてはいけません。どうせ皆いつかはそこに行くんですから早まらずゆっくり行きましょう」


死はライブイベントの1つ。


生き物はいつか必ず寿命を迎える。彼の言う通り、どうせなら寿命を終えるまでまるっきり使った方がいい。心身が健康な人から見れば、死ぬなんて大袈裟なくらい俺の悩みなどちっぽけなものなんだろう。でも今の自分から逃げてしまいたくて、いっそ誰かが俺の代わりになってくれないかとか、誰かが永遠子を幸せにしてやってくれないかとか、途方もないことを頭中で巡らせては何も解決しないまま時間が過ぎていくのが、もう疲れた。


疲弊した頭では、別人として生きるという選択肢も悪くないと思えてくる。だが話だけじゃ想像するに限界がある。この先、俺が一体誰となりどんな風に生きてゆくのか、イメージが湧かない。


悶々としている俺を見兼ねて、宵ノ口は宥めるように話の締めくくりをする。


「ま、お話はさせていただきましたがさっきアドバイスしたことを実践して夫婦仲が上手くいって幸せに暮らせれば、この話も僕のことも綺麗さっぱり忘れてもかまいません。何事もやってみなければわかりませんし。でも、あなたが店の前に座り込んでいたのも何かの縁だと思います。今すぐ人生変えろだなんて言いませんから、帰ってご自分の未来をよく考えてみてください」


「……はい、ありがとうございます」


「もし決心がついたら僕の携帯に連絡をお願いします。新天地が決まるまでは定期的なモニタリングとアンケートの実施でフォローはしていきますので、そこだけご了承してもらえれば結構です」


宵ノ口は電話番号と人生紹介バンクの概要について書かれた紙が入った封筒を渡してきた。恐る恐るそれを受け取ると、付け足したように彼は真剣な顔でこう言った。


「なかなか新天地が決まらずあなたの精神状態が悪化していくようであれば、少し強引に話を進めなければいけませんのであしからず」


「それは、俺の命の危機を見逃すわけにいかないって使命感ですか?」


「まさしくその通りです。不幸から幸せへと御案内するのが仕事ですから」


そうか、自分は不幸にいるのか。他人に言われて改めて自覚する。


恥ずかしながら、俺はこの時反発することができなかった。嘘でも幸せとは言えないから。


永遠子、ごめんな。


心の中で妻へ謝罪する。結婚した時に2人で誓った幸せは、守れそうにないから。


「すいません、命のことに関わるとつい饒舌になってしまって」


「いえ、心配してくださって、ありがとうございます」


「いつでも連絡お待ちしております」


店の出入り口で丁寧に見送られて、また独り夜の道を歩いた。たかが書類が数枚しか入っていない封筒が鉛のように重かったのを覚えている。いや、鉛よりは1人の赤ん坊の重さに近かったかもしれない。家族3人川の字で寝る日は永久にやってこない。いないものを愛して求めて苦しむのもおしまい。そもそも、あの封筒を家に持ち帰った時点で今の僕との別れを選択していたのだ。


もし永遠子にこのことがばれた時、彼女の悲しむ顔がどうしても想像することができなかった。むしろ清々しい顔でお互いの幸せを願い、快く送り出してくれそうな気もする。


どうかそういう別れでありますように。


翌日、俺は宵ノ口に電話をした。


「次の日に連絡をいただいた時は、まさかあなたの決心が揺らぐとは思いませんでしたよ」


座席にもたれ掛かり、宵ノ口は呆れたように首を横に振る。


「いくつもの人生を紹介しました。あなたのことを話してぜひ会いたいと希望する方は何人もいたんです。なのに会いもしないで断り続けて、未だにあなたはあなたのまま。猫を飼う、仕事を変える、僕のアドバイスを実践しても結局駄目だったというのに。新しい人生を歩む気がないなら、この3年間は何だったんですか? 鏡を見てください」


俺はバックミラーを覗いて、自分の顔を見た。光のない濁った目、その下には黒色のくま。何年も腹の底から本気で笑っていないためか、口の端は随分垂れ下がっている。久しぶりにまじまじと自分の顔を眺めた感想は、酷い、だった。


「その顔で客を乗せてきたんですか。楽しみでやってきた観光客にとっては最悪ですよ。あなたは初めてあった日より絶望に満ちています」


「顔顔ってうるさいな。仕方ないだろ歳をとったんだから」


「いいえ、歳だけじゃありません。もう優翔さんは今の生活に限界なんですよ。仕事して食べて風呂に入って寝て。その他には何も無いんでしょ? 何の楽しみもないまま高齢になるまでだらだら続けるんですか? それとも」


「その先はよしてくれ」



宵ノ口がこれから何を言うかはわかっていた。


それとも、チャレンジせずに自らの手で命を断ちますか、だ。


「自覚してるよ。俺だってこの3年、自分に言い聞かせて頑張ってきた。仕事を変えたし、猫を飼ってなんとか妻とも話をするようになったけど、仲を取り持つ存在がいなくなった途端、やっぱり駄目なんだ。2人が共通して愛するものがなけりゃ笑い合うことすらできない。・・・・・・昔はお互い一緒にいればそれだけで良かったんだがな。結局、俺達は名ばかりの夫婦なんだ。いっそ離婚届けを突きつけられたり不倫されたりした方が楽なんだろうけど、そんな素振りはない。ただ言えるのは、妻を独りにさせたくはない。あいつ、早くに親を亡くして俺以外に身寄りがないんだ。だからどうしても別れを切り出せない。女々しいだろ? 笑ってくれ。・・・・・・大切な人を幸せにできない苦しみはな、身を裂く思いだぞ」


ごちゃごちゃとしたまとまりのない訴えを、宵ノ口は黙って聞いていた。俺が宵ノ口の立場なら呆れ果てて車を降りていく。


「あなたはうんざりするほど優しすぎる」


しかし、彼はそうしなかった。


「もう、自分を無理に偽るのはやめましょう。空元気や見栄は毒です。優翔さんがどんな葛藤を抱えているのかはよくわかりました。3年の付き合いですからね。どうせ今日も返事をもらえないと思ってある提案を持ってきました。こういうのはどうでしょう? 今の生活をしながら、新しい人生をお試しで過ごしてみるというのは」


宵ノ口の提案は、断ち切れるまで今の生活を続けながら試しに俺を希望する人と生活をすることだった。


「つまり、不倫みたいなことをしろと?」


「とらえ方は自由ですけど、まぁ後ろめたい気持ちになるのはわかります」


宵ノ口はさっきの男性の写真を差し出してきた。理由を知らないが、この人は俺をほしがっている。一緒に人生を送りたいと願っている。


「とにかく、この方に会ってみてください。今の人生への未練が断ち切る前に、信頼関係を築いておくのも策ですよ。この方に会った後、あなたに相応しい生き方が待っているはずです。もちろん彼にも話は通しておきます。必ず双方の人生を豊かにさせることでしょう。どんな条件があってもあなたと生きたいと希望する方ですからね」


そこまでこの俺を求めているなんて。喜んでいいのかそれとも警戒した方がいいのか。何にせよ、仮で生活してみればどんな人かわかるだろう。


「もしこの方の元で生きるか決まったら連絡をください。あとは優翔さんがいかに冷酷になり奥さんとの縁を断ち切れるかにかかっていますから、そこはしっかりと決断してください。数日かけて考えてもらって結構ですので」


冷酷に、突き放さなきゃいけない。最後は俺の意思の強さ次第。


永遠子と出会ってから今日まで、喧嘩は何度もあったが酷い言葉を浴びせたり別れを切り出したことはなかった。とにかく優しさだけが俺の取り柄で、きっと若かった永遠子もそこに惹かれてくれたのだと思う。


「優翔さんが別の場所で生きるようになった後、僕が奥さんに新しい人生を紹介しに伺います。そうすれば奥さんは独りにならずに済みます。夫婦で転人生するのは別に珍しいことじゃありませんからね」


揺らぐ心を止めたのは、宵ノ口のその言葉だった。永遠子も別れた後にどこかで新しい家族と幸せに暮らせる。それだけで肩の荷が降りた気がした。


「……わかった、とりあえずは君の話に乗るよ」


「ありがとうございます。奥さんの目を盗みながらなので大変かと思いますが」


「いや、休日でもお互い干渉しないからそこは大丈夫だ」


仕事が休みの日にこの人達を順序よく訪ねて生活する、お試し期間をもうけることで話が決まった。宵ノ口は満足したようににっこりと笑う。


「これで話はまとまりましたね。1歩、いや半歩前に進めて良かったです。さっそく彼らに連絡をしておきますので」


「君も大変だな。他にも担当している人がいるだろうに」


「担当は社員で割り振ってますし大丈夫ですよ。新しい人生を迎えたあとのフォローもしますからご心配なく。最も、何もかも忘れたあなたに気づかれないよう影で見守る形にはなりますが」


「生涯ずっと担当ってことか」


「そうですね、僕が退職するか死なない限り、二人三脚でやっていくんです」


「記憶があるうちに俺が担当を変えろと言った場合は?」


「ああ、それも加えておきましょう」


宵ノ口は上機嫌でウインクをした。


「安心したらお腹が減りました。茶屋で一休みさせてもらいます。後ほどメールで彼の連絡先を送りますのでやり取りは自由にしてもらってかまいません」


「ああ、わかったよ」


「それでは失礼します」


宵ノ口は車を早々と降りていき、雨に濡れながら茶屋の中へと走っていった。


誰もいなくなった車内で僕はハンドルに額を押し当てて脱力した。半分とはいえ、話を受けてしまった妻への罪悪感が背中にのしかかる。不倫ではないが、やましいことに変わりない。


でも俺達が幸せになるには、こうするしか方法がない。いつかお互いを綺麗さっぱり忘れた方がいい。


雨はいっそう激しさを増した。雨音と視界の悪さが幸いして、大の男が公用車の中で声をあげて泣くのを誰にも気づかれずに済んだのだった。


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