親子ごっこ

優翔君て〇〇〇に似てるよね。


✕✕✕君久しぶり!元気だった?


昔から知らない人に声をかけられ、よく誰かに間違えられていた。人違いとわかると相手は寂しそうな、懐かしむような顔をする。


俺との思い出が1秒もないのだからそんな顔はしないでほしかった。まるで俺という人間が見えていない、他の誰かに重ねられるのが嫌だった。


今となってはどうでもいいことだけど。


宵ノ口に紹介された、信彦という中年の男性の元を訪ねる。写真に映る彼は少しパーマのかかった灰色の髪をしていて、丸い顔には銀縁の眼鏡をかけている。微笑んでいるつもりなんだろうけど口が歪で笑うのが下手なようだ。でも人あたりの良さそうな印象を受ける。ちょうど父と同じくらいの歳。一体この人はなぜ俺との生活を希望したのだろう。


宵ノ口からメールで伝えられた住所の行き方を調べる。遠い場所でも外国でもどこでも行けるのは、相手が交通費を全額負担してくれる決まりがあるからだ。今日会うことは一応宵ノ口に伝えておいた。あとは会ってどうだったかの感想を連絡しなければいけない。


信彦さんの住む家は電車で2時間程で着く場所にあった。車以外の乗り物には久しぶりに乗った。


窓側の席に座り、流れていく景色を眺める。青々と茂った草木が延々と続く。ゴトゴトと電車に揺られる間、まだ独身で就職活動していた頃、こうして電車に乗って会社の面接を受けに行ったことを思い出した。手応えがあったのに不採用で、ひどく落ち込んだっけな。


まさにあの緊張感と似ている。行ったことのない場所、会ったことのない人に会うのだから。



あの頃と比べてちっとも成長していない。社会人になっても満足に金を稼げず、何も生み出せず、1人の人間も幸せにできず、こうして逃げてばかりいる。次こそは、次こそはって賭け事をするみたいに生きてきた。

情けないの一言だ。


自分の人生を省みているうちに、目的の駅に着く。


改札口を降りてすぐ、写真で見た男性が立っていた。


向こうもこちらに気づいたらしく、窺うようにしてゆっくりと近づいてきた。


「あっ、どうも。はじめまして。優翔、さんですね? 信彦です」


「は、はい、今日は、よろしくお願いします。ご自宅に伺うつもりだったんですが」


「ははは、じっと待っているのは苦手な性分でしてつい迎えに……。写真で拝見するより実物の方がずっと男前ですね。宵ノ口さんから聞いた通りです。遠路はるばる来てくださりありがとうございます」


会う前にお互いがわかるようメールで写真を送りあっていた。出会い頭に変な世辞を言われてつい苦笑いをする。緊張した雰囲気を和ませようとしているのだろう。彼は写真と同じく、笑うのが下手だった。よく見ると両目には涙の膜が張っていて、懐かしむような眼差しを僕に向けている。怪訝していると彼は我に返ったように、ぐいと手で涙を擦った。


「すいませんね、いきなり涙ぐんでしまって。あなたにそっくりにな奴がいて、でも嫌ですよね。他人に重ねて見るなんて」


ああ、なるほど。彼も同じか。


「慣れてますので大丈夫です。それに、見ず知らずの他人で、何の利益も生まないような俺と生活したいなんて、よほどの理由が必要ですから、何となく……」


「いやいや! 自分を卑下しないでください。私はどうしてもあなたに会いたかったんですから……。改めて、よろしく」


握手を求めてきた彼の右手に躊躇しながらも、自分の右手を差し出した。


「今日はよろしくお願いします」


駅の駐車場に置いた車に乗せてもらい、彼の家へ向かう。


初対面にも関わらず、不思議と親しみを感じた。彼も俺に対して好印象を持ってくれたらしく、自宅までの道を車で走行している間、ガイドみたいに地元のことを色々と教えてくれた。


「この街に来るのは初めてです。のどかでいいところですね」


「時々グルメ取材に来てテレビで流れるくらいで、映えるものはないですよ。つまらない街ですが私はここで生まれ育ちましたから、やっぱり落ち着きます」


彼がいつどこで生まれ、誰と暮らし誰と巡り会ってここまで来たのかなどちっともわからない。俺達の関係は道ですれ違ったのと同じくらい希薄だ。今日1日を共に過ごしたら、少しくらいは彼のことを知れるだろう。


駅から20分ほどして彼の家に着いた。極一般的な一軒家。アパート暮らしの俺にとって庭付きの家に住むのは夢のまた夢だった。


中に招かれ頭を低くしながら入る。入ってすぐに気になるものがあった。広々とした玄関に、なぜか靴箱にしまわれていない靴が1足だけ隅の方に綺麗に揃って置かれている。それも若者が履くような、黒と赤の派手なスニーカーだった。


「誰かお客さんがいるんですか?」


この質問に彼は首を振った。靴を見て一瞬暗い顔をしたが、再び笑顔に戻る。何か訳ありのようだ。事前に宵ノ口から聞いた情報によれば、信彦さんは現在独りで暮らしている。


「いいえ、私独りです。ああ、この靴ですね。私のじゃあないんですが.......これにはわけがありましてね、どうしようもないわけですよ」


客もいないのに、他人の靴が綺麗に揃って置いてある。


違和感を抱えながら案内された客室は、旅館の一室を思わせる綺麗な和室だった。用意された座布団の上で慣れない正座をする。井門さんは隣にある台所からお茶と菓子と灰皿を盆に乗せて持ってきてテーブルへ置いた。


「たばこは吸われますか? 灰皿を一応持ってきたんですが」


「付き合う程度には.......」


昔はヘビースモーカーだったが結婚してからは永遠子と自分の体を気遣って禁煙した。


酒も煙草もギャンブルもやらない男は、真面目すぎてつまらないとテレビ番組で人気女優が言っていたのを思い出す。永遠子ももしかしたら内心そう思っているのかもしれない。


「何もありませんが、寛いでください」


そうは言われても人の家にあがる機会がないから緊張する。車の中ではお互いの顔を見なかったため会話ができたが、今は正面に向かい合っているせいで上手く話せない。こんな調子では無駄に時間が過ぎていくだけ。


「すいません、たばこ持ってきますね。ちょっと待っててください」


信彦さんは逃げる口実みたいにそう言ってそそくさと部屋を出ていった。1人きりになった俺は痺れた足を崩して息を長く吐いた。


新しい人生を迎えるのは死ぬことより大変そうだ。最終的にどっちで生きるのかを決める。もし決まってここで生きたとして不具合が生じたら、また別の場所を探してもいいと宵ノ口が言っていた。まるで寄生虫だ。名前も戸籍も変えて、やがて性格も記憶力も変わっていく。これで本当に幸せになれるのか。寿命を迎えて死の間際に、誰の顔を思い出して死ぬのだろう。


置かれた場所で咲く前に苗、もしくは種のまま転々と移動をして咲かずに命が終わりそうな気がした。それだけは避けたい。ちゃんと見極めなければ。


たばこを取りに行った信彦さんがなかなか帰ってこない。どこに置いたのか忘れてしまったのか、箱が空になり買いに出たのか。いや、客を置いて黙って出て行くような非常識な人には見えなかった。


不本意だが家の中を歩いて信彦さんを探すことにした。


「あの、信彦さん?」


物音が一切せず、嫌なほど静かだ。まるで人の気配がしない。ただたばこを取りに行っただけではなさそうだ。


悪びれながら家の中を歩き回る。台所、トイレ、風呂場など場所を移動するたび声をかけたが彼の姿はどこにもない。


玄関へ行くと彼の靴がなかった。どうやら外に出ているらしい。まさか本当にわざわざ買いに出てしまったのか。


誰かのスニーカーと俺の靴だけがぽつんと並んでいる、なぜかその光景に不気味さを感じてしまう。


たまらず靴を履いて外に出た。彼が帰ってきたら、黙って出て行くことはないんじゃないかと一言文句を言ってしまうかもしれない。


.......それにしても。


草木に囲まれた庭を見渡すと、信彦さんがこの家で最初から独り暮らしをしていたわけではないことが想像できる。門の脇に幼児の背丈ほどの古びた木製フェンス、ガムテープで補強された家庭用バスケットゴール、今は1台しかないが車2台分のカーポート、その隣に建っている小屋の前には潰れたサッカーボールと錆びた子ども用の自転車が置いてある。俺から見ればがらくた、彼にとってはきっと宝に溢れた庭。どことなく寂しい感じがした。


来た時はどうだったか忘れたが、小屋のドアが開いている。耳を澄ませば微かに嗚咽が聞こえた。


足を一歩近づけるごとに声がだんだん大きくなる。昼間なのに小屋の中は薄暗く、覗き込むと中で背中を丸め蹲っている人物がいた。


「信彦、さん?」


信彦さんは驚いて顔をあげる。目は涙で溢れ真っ赤だった。右手には写真立てを持っている。目を凝らして見ると、そこには若い男性が写っていた。


「すいません、すぐ戻るつもりだったのに.......」


手で乱暴に顔を擦っておぼつかない足で立ち上がった。見てはいけないものを見てしまった気分になる。人が悲しんで泣く様をみれば、例え身内であろうが他人であろうがみぞおちの辺りが苦しくなる。



「俺にそっくりな奴がいるって、もしかしてその写真の人ですか?」


「うん、はい、そうです。すいません、あなたを見ていたらどうしても泣くのを堪えきれなくて、写真を持って小屋に逃げ込んでしまいました。.......もう、大丈夫ですから」


そうは言うものの、拭き取っても涙は延々と流れ出ている。顔中がびっしょりと濡れて、まるで豪雨にでも打たれたかのようになっていた。


宵ノ口が言っていた、すでに死んでいる人間。


「そこまで俺に似ている人って、誰なんですか?」


「.......私の、息子です」


信彦さんはこれまでの生い立ちを静かに話した。


かつてこの家には奥さんと息子さんの3人で暮らしていた。奥さんは息子さんがまだ5才の時に交通事故で亡くなり、その後は男手1つで育ててきた。


去年の冬のこと。


夕方、仕事から帰った息子さんはちょっと疲れてたと言って、夕食も食べず風呂にも入らず自分の部屋で眠ってしまった。翌朝になってもなかなか起きてこない息子さんを心配して部屋に行ったところ、顔色が真っ白で息をしていなかった。すぐ救急車を呼んで病院へ運ばれたが、死亡が確認された。原因不明の心停止だった。まだ35歳、俺と同い年という若さで、父親を独り置いて亡くなったのだ。


「頑張りすぎて疲れちゃったのかな。玄関にあった靴は、息子が仕事から帰ってきて脱いだ時のままなんです。不思議なことにね、ああやって靴が揃っていると、なんだか息子が家の中にいるみたいで.......。遺品を全て小屋に片付けましたがあの靴だけは動かせませんでした。馬鹿な父親でしょう?」


「そんなこと、ありません」


俺は即座に否定して、信彦さんの持つ写真立てをよく見た。確かに、俺の顔と似ているところがあるかもしれない。これほど聡明な顔つきはしていないが。


「信彦さんは、俺を亡くなった息子さんの代わりとして一緒に暮らしたかったんですね」


「そうです。私は、もう独りで生きていくのは無理そうですから。誰でもいいから一緒に生きたかった。宵ノ口さんとは偶然この街で知り合って、人生紹介バンクのことを教えてもらいました。彼から聞いたあなたの特徴も、あなたからメールで送っていただいた顔写真も、あまりにも息子にそっくりでした。.......不思議な時代になったものですよね。いなくなった人間の人生を丸ごと引き継げるだなんて」


信彦さんは感情に耐えかねて、口元を手で押えてまた涙を流した。


息子さんにそっくりな俺と出会ったことが、返って彼の心を抉っている気がした。底なしの空虚感を他人で埋めても、どうやったって本物には敵わない。この先俺と暮らし始めたとして、どれだけ姿がそっくりでも本物との違いは必ず出てくる。


でも信彦さんも俺も、他人だったことを忘れて親子をやっていくとしたらその違いには気づかない。息子だったらこうしてたのに、息子だったらこう言ってくれたのにと、彼は本物の息子さんを1ミリも思い出さないから、俺と比べることはない。それは本当の幸せと言えるのだろうか。


嘘の愛情と思い出のある偽物の息子と一緒に生きて、満足に生涯を終えられるわけがない。


「すいません、信彦さん。俺はこの話を断ろうと思います。いくら顔が似てたって亡くなった息子さんには永遠に敵わない。泣いているのは、本物の息子さんに会いたいからでしょう? もう答えは出ています。俺に息子役は務まりません」


少し間を置いてから信彦さんは息を吐くように「そうですか」と言った。


「私は、やけになっていたのかもしれません。他人でも息子に似たあなたと暮らせば、また昔みたいに幸せになれると.......。過去には戻れないのに、本当、馬鹿ですよねぇ。大変、失礼なことをしたと反省しています。こんな重い役割を押し付けるなんて、不快な思いをさせましたね」


「とんでもありません、ここまで想ってもらえる息子さんが羨ましいくらいです」


「そうかな、父親として子を想うのは当たり前じゃないでしょうか? 君のお父さんだって.......」


「どうでしょうね、俺は父とあまり仲が良くはありませんから。2度と会いたいとも思いませんし」


彼は自分がデリカシーのないことを言ったと感じたのか、慌てて口元に手を持っていった。


父は、厳格で頑固な性格だった。笑みを向けられたことも、褒められた記憶もない。実家は小さなりんご農園で、幼い頃から朝早くに叩き起されて夕方暗くなるまで仕事を手伝わされた。遊びは必要ない、勉強も最低限だけ、将来家業を継げばそれでいい。俺のやることなすことを全て反対し、不要なものは与えられず、欲しいものが手に入ったとしても取り上げられて処分された。


ひょんなことから偶然父が毒りんごを食べて死なないかと、平気で冷酷なことを考えた日もあった。


何歳の誕生日だったか、母がこっそりプレゼントをくれたことがあった。ずっと欲しかった車のラジコン。父が不在の時に隠れて遊んでいたが、ある日ばれてしまって激高された。ラジコンは地面に叩きつけられ、俺は頭を殴られた。昔は子の躾によく暴力が使われたが今の時代では立派な虐待に値する。父は立派な犯罪者になる。


その自覚ない犯罪者から逃げるように地元を離れ、とにかく何でもいいから仕事を見つけて働いた。母とは時々連絡を取っていたが、父とは一切取っていない。結婚したこともたぶん知らない。また会ったとしたら今度は殺されるかもしれない。置き手紙だけ残して出てきたから。


おかげでりんごが大嫌いになって、見るのも匂いを嗅ぐのも吐き気がする。痛みと苦痛のトラウマを呼び覚ます引金になっているのだ。



「息子を想う私と、お父さんが嫌いな君では、いくら記憶が変わったとしても心のどこかにしこりがあるままなんじゃないでしょうか。私達が生活を共にするのは、やっぱり難しいかもしれないですね。何よりあなたが苦しむ顔は見たくない」


信彦さんは少し困った顔をして笑った。写真を大切に抱いて、薄暗い小屋から外に出た。明るい場所に立つ彼は眩しそうに空を見上げた後、俺を真っ直ぐ見つめた。


「これから一緒に生きていけなくても、今日だけは親子でいてくれませんか? 独りで生きていけないなんてもう言いません、前を向いて生きていくと約束しますから、どうか」


「.......わかりました、ぜひ」


今日だけ親子で過ごしてほしい、深々と頭を下げて懇願されて、断る理由はなかった。


仏壇の置かれた部屋に案内してもらい線香をあげた。遺影に映る青年は、口を歪にして笑っていた。父親譲りで笑うのが下手なようだ。隣には信彦さんの奥さんの遺影も並んでいる。


潰れた座布団の上でそれらを眺めていると寂寥感に苛まれた。彼らの方がここから別の場所へ逝ったのに、自分の方が別の場所へ来てしまった、そんな錯覚が起きてしまう。


客室に戻ってから信彦さんは息子さんのアルバムを持ってきた。とても分厚くて全部見終わるには時間がかかりそうだ。


かつて賑やかに家族と生活していた痕跡。


息子さんだけじゃない、彼の両親と奥さんがこの家のあちこちで撮った姿が何枚もあった。


「会うは別れの始めってご存知ですか?

仏教のお経にある会者定離という言葉が由来らしいんですが、会った人とはいつか必ず別れなければならないという意味なんです。出会ってからすでに別れのカウントダウンが始まっているんですよ。そのカウントダウンが、私の家族は早かったんです。ただそれだけのことなんですが、どうしてもやるせないですね。憎む対象がないから尚更です」


悪い出来事の先には必ずしも敵がいるわけじゃない。怒りや憎しみの矛先がない辛さは俺もよく知っている。


だから人はいるかいないかもわからない存在に意識を向け始める。つまり神様を恨むしかなくなるのだ。


「時に優翔さんはお酒が飲めますか?」


「はい、まぁまぁ強い方ではあります」


「それなら良かった。恥ずかしながら、息子といつか一緒にやりたかった夢がありましてね。もし時間をもらえるなら、優翔さんに代わりをお願いしたいんですが.......」


信彦さんの言う夢はほんのささやかなものだった。


居酒屋で酒を飲んで、締めに中華料理屋でラーメンを食べる。それだけ。俺が独身の頃頻繁に行っていた娯楽だ。


「20歳で社会人になってからあいつも仕事と人付き合いで忙しくて。1度もそういうことをしたことがないんです」


「俺も父としたことはないです。したいとも思いませんけど、信彦さんとならぜひ」


そもそも父親と2人で出かけるなんて想像しただけでも吐きそうだ。いくら金を注ぎ込まれても冗談じゃない。


だから、他の父親がどんなものなのか知りたくなった。


「ありがとうございます。あの、帰る時間が遅くなっても大丈夫ですか? ご家族、いらっしゃるんでしょう?」


「夜遅くなるかもとは言っておいたので平気です」


ここへ来る前、あらかじめ永遠子には友人の家に行くと一言だけ言っておいた。友人は同性か異性か、家は遠いのか何時に帰るのか、何も聞かれず「ふうん」と興味なさげに空返事をされた。何日間帰らなければ彼女は心配してくれるのだろうと疑問に思う。


死期が近くなった猫は主人の元を静かに去るといわれているが、彼女にとって俺が猫以下の存在なら、黙っていなくなってもさほど気にならないかもしれない。永遠子自身が悲しまないためならその方がありがたい。


さて、信彦さんと今日だけ親子の不思議な関係を築くのに色々な課題が出た。


まず敬語についてだ。他人行儀に敬語を使うのは如何なものかとなり、タメ口で会話をしてみることにする。これがなかなかぎこちない。出会った初日に気を許してタメ口をきいたことはこれまでなかった。


次に呼び方。父親を名前で呼ぶのはおかしい。息子さんは信彦さんを「おやじ」と呼んでいたそうなのでそれにあやかる。


「優翔さんのことは、優翔と呼んでいいかな?」


「息子さんの名前じゃなくていいんですか?」


「うん、私はあなたと親子をやるんだから。それにせっかくの良い名前を呼ばなきゃもったいない」


優しく、どこまでも高く翔んでいけるようにと母に付けられた名を、人から良いと言われたのは初めてだった。


「あの、息子さんの名前は何て?」


雅司まさし。間違えて呼ばないよう気をつけるよ。呼んでしまったらその時は勘弁してね」


「わかった。お.......おやじ」


俺も実の父をおやじと呼んでいた。唯一嫌っている名称で信彦さんを呼びたくなかったが、こればっかりは仕方がない。


信彦さんは久しぶりにおやじと呼ばれたのが嬉しいのか、またあの下手な笑みを浮かべていた。



俺が彼の過去を知って、今度は彼が俺の過去を知る番になった。最初は断ったものの、ぜひ聞きたいと懇願されて仕方なく話した。


永遠子への愚痴が1割、子どもへの未練が1割、自分の情けなさを嘆いたのが8割。本当の父親がろくでなしじゃなかったら、定期的に実家を訪ねて悩み事を打ち明けてアドバイスをもらえたんだろう。しかしそれは叶わなかった。どうしていいかわからない時はいくつもあって、そんな時は友人や顔の見えないネットの相手に相談していた。


子は親の背中を見て育つって言うけど、俺の場合親を見て育つことはできなかった。


見本にするものが俺にはなかった。永遠子の言った通り、子どもがいなくて良かったのかもしれない。


「マイナス思考のところも、そっくりだなぁ」


信彦さんは煙草の煙を吐き出すと共にそう言った。俺も1本もらって吸い込む。しばらくぶりの煙草は美味くて、心を緩やかに落ち着かせてくれた。


「恥さらしをしてすいません。信彦さんに比べたら小さい悩みで.......」


「あらら、もうルール破ってる」


「あっ」


ついうっかりして、敬語をやめるのとおやじと呼ぶのをどちらも忘れてしまった。


「悩みに大きいも小さいもないよ。実はね、私は母子家庭で育ったんだよ。ほら、父親の遺影がないでしょ?」


信彦さんは仏壇の上に並ぶ遺影達を指した。


確かに、母親らしき白黒の遺影はあるが、父親のものは見当たらなかった。


「私が赤ん坊の時にいなくなったんだよ。写真がないから顔はわからないし、どんな人だったのかも最後まで母に教えてもらえなかった。ただ1つわかるのは、ろくでもない人間だったということだけ」


「.......父親を知らずに育ったんだ」


「うん、だから好きな人ができて家庭を持った時に、自分はちゃんと父親になれるのか不安だったよ。命を育てることが果たしてできるのかってね。でも、立派とは言い難いけど、まずまず父親をやれたと思ってる。見本なんかなくたってやれるもんなんだよ、子を想えばね」


「いや、充分立派だと思いま.......思う」


アルバムの中の雅司さんを見れば、いかに生涯が幸せだったのか身に染みてわかる。泣いた顔、怒った顔、笑った顔、無表情な顔。どれも煌めいている。心臓が止まらなければまだまだ何十年も生きられたのに。自分が父親を残して先に逝くなんて、想像もしなかっただろうな。


「俺が雅司さんになったら、本物の雅司さんはいなかったことになる。じゃあ、このアルバムはどうなるんだろう」


「そうだね、優翔を迎えるならアルバムや運転免許の写真類は雅司の顔が写っているから処分しなくちゃいけない。もちろん遺品もね。私達の記憶が変わったとしてもつじつまが合わないものがあれば混乱するから、都合の悪い物はなくさなくちゃいけないって宵ノ口さんが言っていたよ。でも雅司の写真が1枚2枚残ってしまったとしても、息子としての認識はなくなっているからさほど問題ではないとも言っていた」


俺が雅司さんにならないと決めた時、信彦さんはどこかほっとしていたように見えた。今もそうだ。雅司さんが写ったアルバムも遺品も捨てずに済むから。


人生紹介バンクの話に乗ったのは、衝動的なものに近かったのかもしれない。底なしの寂しさから抜け出すために、本当に大切な人を忘れて代わりを傍に置く他、方法がなかったのだろう。


俺と信彦さんは、赤の他人だ。俺の家庭が上手くいっていて、雅司さんが元気に生きていれば巡り合わなかった関係。父と呼ぶなど以ての外。


客観視すればこれは悲劇か、それとも喜劇か。


ただ、今日限りの親子ごっこは今後の俺の人生に大きな影響を与えてくれるに違いない。


時が過ぎて夜。赤の他人の親子は、あかりの灯る街に赴いた。



街の中心部にある飲み屋街まで車を走らせ、信彦さんが友人とよく訪れるという行きつけの居酒屋へ赴いた。中に入ると香ばしい匂いが充満し、老若男女の客達で賑わっていてお祭り状態だった。運良く空いていた出入口付近のカウンター席に並んで座る。


「よっ、信さん。しばらくぶりじゃねぇの」


頭に手ぬぐいを巻いた店主らしきおじさんがさっそく声をかけてきた。


「来たくてもなかなか来れなくて」


「息子さんのこと、大変だったな。いつか一緒に飲みに来たいって言ってたのに。でもまた信さんが来られるようになって嬉しいよ。お連れの方はお初にお目にかかるねぇ」


こちらに向かって愛嬌たっぷりで笑う顔に軽く会釈をした。


「甥っ子なんです。今日遠くから遊びに来ていて、どうしてもここに連れてきたかったんですよ」


「そいつぁありがてぇ、今度友達と一緒においで。ゆっくりしていってな」


おじさんはそう言って奥の厨房へ消えた。ガヤガヤと騒がしい店内では、誰が何を話そうが大して気にならない。しかし信彦さんは耳打ちをしてきた。


「この街は広いようで狭いから、息子が死んだことも色んな人が知っているんだ。優翔を息子と紹介したら混乱させるから、甥っ子と嘘ついた。悪かったね、親子ごっこを中断させてしまった」


「じゃあこれから街には俺がおやじの甥っ子と噂されるわけだね」


何だかおかしくて俺は笑った。面白くて嬉しくて腹の底から笑うのは本当に久しぶりだった。変な話だ。実の親父とは飯を食いに出たことがないのに、今日会ったばかりの人と本物の親子を演じて飯を食うだなんて。


隣に座る彼が、なぜか頼もしく見えてきた。自分が守られている気さえする。子役に集中するごとにだんだんリアリティが増しているのだ。


こういうのを一般的に童心へ帰る、というのだろうか。自分より大きい存在が隣にいることで安心感がある。それは遠い遠い昔、物心着く前に親父の存在もこうだったんだと頭の片隅で記憶が残っているからなのか。


運ばれてくる料理は全部美味かった。普段あまり食べる方ではないが、舌鼓を鳴らしてたくさん平らげた。でも締めのラーメンを食べる分、胃袋のスペースを空けておくのは忘れていない。


ビールも何杯も飲んだ。お互い酔いが回るとさっきまでぎくしゃくとしていた会話が流暢になり、他人、年の差、敬語、礼儀などの硬っ苦しい壁をぶち壊してげらげらと下品に笑いあった。それに久しぶりのアルコールは全身に回るのが早かった。


「あんな父親の息子ですよ俺はぁ、ろくでもないに決まってますよぅ。遺伝子って汚いんだからさぁ。血は争えないから俺も子に同じことをしていたのかもしれなぁい。そう、考えると、可哀想な思いさせずに済んだからぁ子がいなくて、良かったなって、なっちゃうんですよねぇ」


酔いつぶれてテーブルに伏せている信彦さんの肩を叩きながら本音を吐きまくる。とてもシラフじゃできない失礼なことをしている。


「私は.......共感することはできても、お父さんが優翔にやったことを.......何も知らない私が、完全に否定することはできない.......。きっと、愛情の注ぎ方がわからないんじゃない、かな? 暴言を吐いたり暴力をふるったりして.......躾けることを愛情だと思っている親は、世の中にたくさんいるから。皆が、それを間違っていると指摘しても.......本人は正しいと信じている。誰より子を愛して、未来を心配している自信があるんだ.......。自らの行いを後悔するのは、子がいなくなった時だよ」


過度な躾で命を落とす子のニュースを耳にしたことがある。愛するが故にやったことで、加害者は決まって後悔していた。人は失ってから気づくことが多い生き物だ。


「今頃、あの鬼親父もぉ、後悔してるかなぁ?」


「..............恐らくね」


「今更遅いってぇ」


俺はビールを1口飲んだ。今日はいつもより酔いが回るな。ビールも苦味が強くてさほど美味くはない。


「父親ってのは.......母親より弱いんだ。図体と態度ばっかりでかくって。自分が、未知の父親になってから、よくわかった.......。子に、自分を超えるくらい強くなってほしくて、厳格な態度をとって.......泣かせて傷つけたこともある。嫌われ役でもいい、から.......強く、誰よりも強く、生きてほしかった」


それなのに親より先に死なれちゃやり切れないよな。


「なんだぁ、混んでるな」


新たな客が入ってきた。おじさんが2人、出入口に近く座っていた俺達を真っ先に見て目を見開く。


「おっ、信彦さんじゃねぇか?」


丸々と太ったおじさんが信彦さんの背中を叩いて話しかける。信彦さんは真っ赤な顔をあげておじさん達を一瞥した。知り合いらしい。


「やっぱり! 珍しく随分飲んだんだなぁ! はは、タコみたいに真っ赤じゃねぇか。あんたは誰だ? 信彦さんの親戚か?」


「は、はい、甥っ子の優翔です」


もう1人のガリガリに痩せたおじさんは、まじまじと俺の足先から頭の先まで舐めまわすように見る。


「へぇー! 亡くなった息子さんにそっくりだな! てっきり生き返ったのかと思った。どれ2人とも、ここはいっぱいだから別な店で一緒に飲み直すぞ!」


「おお、そりゃいいや! 信さんよ、いつまでもシケたツラしてねぇで前向きに生きようや。死んだ奴はどうやったって戻って来ねえんだから酒飲んで忘れよう」


配慮のない発言に怒りを感じた。生き返ったって何だ、忘れるって何だ。信彦さんの気持ちも知らないくせに勝手なことを言いやがって。


太ったおじさんは人の意見を聞かず図々しく俺の腕を引っ張り始める。アルコールの匂いが強い。何件かハシゴしてここに来たらしい。


すると、脱力していた信彦さんが俺を引っ張るおじさんの腕を掴んだ。


「駄目です。.......今日は、2人で飲むって、約束したんです」


「何言ってんの、サシでしんみり寂しく飲むより俺達と騒いだ方が楽しいって」


「約束、したんです.......!」


それはまるで赤鬼が怒ったかのような顔だった。今すぐにでも金棒を振り回してこの場の全員をなぎ倒しそうな雰囲気だ。


さすがのおじさん達も一気に顔が真っ青になる。これほどの怒りを顕にした信彦さんは初めて見たのだろう。太ったおじさんはようやく俺から手を離した。


「へ、へへへ。そんなムキになることねえだろ信さん。ほんの悪ふざけよ。じ、邪魔したな」


おじさん達は苦笑いをしながらそそくさと店を出ていった。滞在時間はわずか数分。この短い時間に人を苛つかせることができるのは天才だ。でも信彦さんの知り合いにあんな下衆がいるのはショックだった。


「ごめん、あれは友人じゃ、ない.......町内会のメンバー。ただの、顔見知り。私は.......嫌いだ」


なんだ、親しくないなら思い切り突き飛ばしてやれば良かった。


この一件ですっかり酔いが醒めた。しかし信彦さんはどんどん体が脱力している。ナマコみたいにふにゃふにゃして、さっきの気迫ある赤鬼はすっかりいなくなった。


眠らせたら起こすのが大変そうだ。


グラスの水を飲ませてから会計を済ませて、信彦さんを担いで店を出る。夜風に当たれば少しは酔いが醒めてくれるだろう。


「大丈夫?」


俺の肩に寄りかかりながら歩く信彦さんは、今度はニヤニヤと笑っていた。怒り上戸から笑い上戸に移行したらしい。


「大丈夫だよぉ.......。いやぁ、いい気持ちだなぁ.......」


「代行呼んだから。とりあえず車停めたパーキングエリアまでは頑張って歩こう」


街灯に照らされた信彦さんは、俺を見て目を瞬かせた。やがてその目に光が宿り、喜びに満ちた声をあげる。


「おお、雅司ぃ! こんな所で何してるんだ? 学校帰りは寄り道しないで、真っ直ぐ帰れといつも言ってるだろぅ。.......よおし、一緒に家へ帰ろぉなぁ。母さーん、美代ー、雅司ぃー.......今夜はすき焼きだぞぉ」


ついに俺を雅司さんと間違えた。アルコールは二度と戻れない過去の幻想を見せる、残酷な飲み物だと思った。幻に取り込まれた彼は上機嫌になり大きな声で歌い出す。近所迷惑も甚だしい。極めつけは彼が歩道をまたいで道路の真ん中を歩き出そうとした時だった。


「信彦さん! 車に轢かれたらどうするんですか! しっかりしてください!」


俺の一言により動きはぴたりと止まった。彼の名前を呼んだのは、息子じゃない人間が隣にいるのだと認識させるのに充分だった。


車が何台も通り、酔っ払い達がすれ違っていく。信彦さんは我に返ったらしく、ぽつりと呟いた。


「.......あぁ、そっか、あいつらはもうどこにもいないんだった」


崩れるようにして信彦さんは縁石の上に腰をおろした。


「大丈夫ですか? そんなところに座ったら危ないですよ」


「.......うん、やっと目が覚めた。はー、何だかどっと疲れてしまったなぁ。ごめんよ、優翔君」


「いや、謝ることは・・・・・・」


「夢を見ていた気がする。決して現実になるこない、幸せな夢だった」


信彦さんは項垂れてアスファルトの地面に向かってため息を吐いた。そして、しゃっくりが鳴ったと思ったら嗚咽も聞こえ始めた。


「何で、みんな.......私を置いてくんだよ.......雅司、何で先に逝くんだ。私が変わってやりたかった。ごめんな、ごめんな」


体内で大粒の雨が降っているような心象。言葉では表せないほどの巨大な悲しみが目の前にある。


俺は、人と今生の別れをした経験がない。それだけ周りが健康で病気や怪我をしない。この上ないことだがいつかしら経験する日が来る。


母がいなくなったら、俺はきっと泣くだろう。


父がいなくなったら、俺はきっと怒る。


永遠子がいなくなったら、俺はきっと誰も愛さず生きていくだろう。


人が人に対する想いは十人十色で、全く同じものは1つもない。他人の気持ちなど所詮想像でしか理解できない。


それでも、相手が1番欲しい言葉くらいはわかる人間になりたい。



「おやじ、泣かないでくれよ」


もう、泣いて謝られるのはたくさんだ。


永遠子も夜中に泣いては俺に何度も謝っていた。その度、罪悪感でいっぱいになった。


弱みを見せるのは悪いことじゃない、謝る必要はないんだ。俺を悪者にしないでくれ。


しゃがんで信彦さんと同じ目線になる。縮こまって泣いている彼はとても小さく見えた。なぜか、あの威厳たっぷりの父と重なった。


父さんねぇ、アンタがいなくなってからお酒飲むようになったのよ。毎晩泣かれてこっちはたまったもんじゃないわ。


俺が出ていってから日も経たないうちに、電話のやりとりで母から聞いた話。


帰ってきてほしいがための、母の作り話だと思って信じなかったが、今なら本当の話だったんじゃないかと思える。


「おやじは、思っていた以上に弱虫だな、でも知らない一面を知れて良かったよ。酒も一緒に飲めたし。ラーメンは今度食べるのを楽しみにとっておこう。これから何度でも会いに来るから」


信彦さんはうんうんと頷いて、俺の手を握って自分の額に押し当てた。温かい涙が手を伝って地面に落ちていく。


それからは謝罪じゃなく、ありがとうと何度も感謝の言葉を漏らしていた。



こうして、期限1日の親子ごっこは終わった。



代行を使って家に帰ったが、深く眠った信彦さんを独りにするわけにもいかず、結局この日は泊まることになった。


すでに23時を回っている。永遠子にメールをするが、返事はなかった。寝ているのか、それとも呆れ果てているのか。仕方がないのでとりあえず休むことにした。


朝になって最初に起きたのは信彦さんだった。2人で畳の上で雑魚寝したので体が痛かった。少し頭痛もする。


信彦さんは、朝食にとお茶とおにぎりを持ってきてくれた。そして、深く頭を下げて礼を言われる。


「昨日はありがとうございました。あの、あまり覚えていないんですが、何が恥ずかしいことを言いませんでしたか?」


「いえ、ただ父親らしさってものを見せてもらいました」


「いやいや私のせいで帰れずに申し訳ない.......何だか夢を見ていた気分です。本当に、雅司と酒を飲んだような。こんなこと、優翔さんにとって失礼ですが」


「そんなことないです。信彦さんを見ていたら、俺も親父になってみたいなって、思いました」


美味い料理を食べた時、真っ先に浮かんだのは永遠子にも食べさせてやりたいという気持ちだった。なんの夢も目標もなかったが、今は妻と子どもの家族で飯を食べに行きたいと強く願っている。


父に、母に、永遠子に出会った。そして信彦さんにも。すでに別れのカウントダウンが始まっている。そう考えるといても立ってもいられない。今まで避けてきた人とちゃんと向き合って、俺の人生を再構築しよう。


「昨日と顔つきが違っていますね」


「1日でしたが、昨日と気分が全然違うんです。まるで、生まれ変わったような・・・・・・」


「これから、どうするんですか? 他の人生を探すんですか?」


「いいえ、俺は俺のまま、もう1回頑張るつもりです」


「そうですか、それを聞いて安心しました」


「できるかどうか不安でいっぱいですけどね」


「あなたが決めたなら私は応援します。一時は父親だったんだから。大丈夫、まだ失っていないんだからまたやり直せますよ」


「もし、また挫けそうになったらここに来ても良いですか?」


「もちろん、私からもお願いします。ラーメンの約束もありますからね」


「実は、恥ずかしい話、妻と喧嘩中で気まずいんです。何か仲直りするのにいい方法、ありますか?」


「喧嘩って漢字、口に宜しくと華が付くでしょう? 喧嘩の後に仲直りして、今後も宜しくって言いながら華を渡せばいいんですよ」


「それ、もしかして信彦さんも奥さんにやりました?」


「さあ、想像に任せます」


朝食を食べ終わってから信彦さんが駅まで車を出してくれると言ってくれたので、それに甘えることにした。


玄関に行くと雅司さんのスニーカーがなくなっていた。おかしいな、昨夜帰った時は確かにあったのに。


「さ、行きましょうか」


信彦さんはスニーカーのことに触れず、玄関のドアを開けて前へと進む。


そうか、止まっていた時間は動き出したのか。


爽やかな空気が肌に触れる。空は快晴で清々しい朝だった。ドアを閉める直前、俺は誰もいない屋内を振り返って、静かに雅司さんへ別れを告げた。






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