崩壊しかけの愛

「この子が家に来てから、本当にあの子が帰ってきたんだと思いましたよ。もう……嬉しくて懐かしくて涙が止まりません」


朝。妻の永遠子とわことリビングで朝食を食べながらテレビを眺めていた。


見知らぬおばさんが涙を流しながらインタビューに答えている。1年前に飼い犬を亡くして塞ぎ込む日々が続いていたが、ペット型ロボットを購入してから毎日が晴れやかになったという話だ。


「いいねぇ、これ」


永遠子はうっとりした後にため息をついて、テーブルの隅にある写真立てを見た。写真には、先月病気で死んだ雌猫のお玉が写っている。知り合いからもらった猫でたったの3年しか生きられなくて、賢くて懐っこい三毛猫だった。あんなに可愛いらしい猫はどこにもいないだろう。


「今のロボットってすごいよね。姿も動きもまるで生きてるみたい」


瞬きをしたり喋ったり、挙句に心音が搭載されているロボットを通販サイトで見かけたことがある。テクノロジーが進歩していく世の中なのは良いが、あれは一種の生物のようで気色悪さを感じた。


無機質なものを命とは呼ばない。


「こんなもの代替品でしかないよ。所詮は物だしし本物には叶わない」


俺の一言でむっとした永遠子は、ぶつぶつ何かを言いながら空になった食器をキッチンに運ぶ。


「でもさ、もしまた猫を飼いたくなったらペットショップじゃなくて保護施設からもらおう。殺処分される命を一つでも救いたいじゃん?」


「いや、もう猫は飼わないかな。お玉の代わりになるのはいないよ」


正論を言ったつもりだが、尚更永遠子はむっとした。


「……そもそも、あなたが夜勤の仕事辞めずに昼間家にいて、お玉が具合い悪かったのをすぐ気づいてくれたら、死ななくて済んだかもしれないのに」


「なんだよ、お玉が死んだの俺のせいだって言うのか?」


「別に。ご飯やトイレ掃除ほとんど私がやってたのは本当のことだけどね。人間の子だったらもっと大変だってのに。私達に子どもがいなくて良かったんじゃない?」


「それとこれとは違うだろ!」


怒鳴るつもりはなかった。でも彼女は決して言っちゃいけないことを言った。それだけはどうしても許せなかった。


いよいよ永遠子は機嫌を悪くして、汚れた皿をシンクに放置したままどかどかと足音を立ててリビングを出て行った。


若い頃はあんなに短気じゃなかった。意見のすれ違いもなくて仲良く穏やかに過ごしていたのに。

お玉がいなくなったせいで『また』夫婦仲が悪くなった。ちょっとのことで互いにイライラしてしまう。口に出さなくても空気で機嫌の善し悪しがわかる。


友人の紹介で知り合い、お互い25歳の時結婚してから10年が過ぎた。おかげで夫婦だけが通じ合うテレパシーが生まれた。アレを取ってと言われれば間違いなくアレを取り、アレはどこにいっただろうと探せば間違いなくアレを見つけ出せた。しかし互いに1番欲しい言葉を与え合うことができない。テレパシーなんかより子どもが生まれてほしかった。不妊治療虚しく子どもに恵まれることはなくて、代わりに仔猫のお玉を飼っていたけれど、夫婦仲を取り持つ存在はわずか3年でいなくなってしまった。だからこうして些細なことでギクシャクしてしまう。


もはや俺達の未来に待っている確実な進路は、年老いてどちらか独りになって、どこかの老人ホームで何もかも忘れて死ぬ時までただ生きるってことだけ。


ぬるくなったインスタントコーヒーの残りを一気に飲み干した。そろそろ出勤の時間だ。今日は永遠子の見送りはなし。


不妊をきっかけに夫婦間には亀裂が入りっぱなし。崩れないようセロハンテープで止めておいているようなもので、今現状ただ一緒に暮らしているだけ。正直、愛よりも情の方が強くなっている。


俺は東北地方のとある田舎町で僕はタクシードライバーをしている。今年で3年目になる。前は夜勤の仕事をしていて常に睡眠不足の状態だった。昼起きて夜寝るリズム良い生活を送るようになってから体調を崩すことは滅多になくなった。


駅前のタクシー乗り場で待機する。この町は大きなショッピングモールはなくても観光地としては割と有名で、土日祝日には客足が多い。今日は平日。山奥にある集落から高齢者が電車に乗ってきて、町中の病院やクリニックへ送迎するのが大体である。


車内で座席を倒して客を待つ。雨のせいか人っ子1人歩いていない。


俺はじっと待つことに苛立って貧乏揺すりを始める。こうして誰とも話さず独りでラジオを聞く時間が随分流れると、一体自分は何のためにこうしているのだろうと考えてしまう。暇過ぎるのもいけない。取り留めのないことばかり考える。


自分よりも幸せな人はこの世にごまんといるわけで、そのうちの1人にどうやったらなれるだろうとか、車ごとどこか遠くに行ってしまおうかとか、生まれた時に戻りたいとか、別な人生を歩んでみたいとか。


猫1匹とはいえ、家族がいなくなったことで『また』虚しさに侵食されていく。


目を閉じて悶々としていると、運転席のサイドガラスが何者かに叩かれる。驚いて目を開けると傘をさした若い男が立っていた。急いで窓を開ける。


「すいません、運転お願いします」


「はい、どうぞ」


ドアを開けて男を車内に入れる。ようやく今日初めての客が来た。


「……なんだ、君か」


しかし客はうんざりするくらい見覚えのある人物だった。せっかく仕事モードに入ったというのに、即しらけてしまう。


「会う度に嫌な顔されちゃ気分悪いですよ。ちゃんと客をやるんですから頼みますよ、運転手さん」


「じゃあ、目的地は? どこまで?」


「うーんと、とりあえず走ってもらえますか?」


「またか」


目的地を言わない客は彼以外に存在しない。


「そういうの困るんだよ。目的地が決まってから乗るのがタクシーでしょ。いくら僕と2人きりで話すためとはいえ毎度毎度……」


「もちろん走行した分だけお金は払いますよ。この町は観光名所がいっぱいあるでしょ? 優翔ゆうとさんが案内したいなと思う所に連れて行ってください」


あくまで客。そう割り切って僕は内心嫌々ながらも車を発進させた。


俺はバックミラーで後部座席にいる男、宵ノ口をちらりと見る。


薄茶色の前髪の下に、人当たりの良さそうな顔。びしっと着こなすスーツ姿。膝上にはビジネスバッグ。どこかの若手会社員のような風貌。容姿におかしな所はひとつもない。強いて言えば芸能界にいそうな好青年。時刻は13時。周りからすれば昼休みに会社から抜け出して、自由時間を満喫している若者にしか見えない。


確かな目的地もないまま、言う通りに車を走らせる。


適当に道を走り、しばらく沈黙が続いた後宵ノ口の方から口を開いた。


「最近、どうですか?」


「最近ねぇ……。別にどうってことないね」


「普通ですか」


「可もなく不可もなくって感じ。あ、でも先月は飼っていた猫が死んだよ」


「そうでしたか、猫が……」


「せっかく君が飼うのを勧めてくれたのにね。3年だけだよ一緒に暮らしたの」


「残念ですねぇ」


まるで心のこもっていない感想。


バックミラーを再度見る。膝上に目を落として宵ノ口は何かを書いている様子だった。


「宵ノ口さんはどう?」


「まぁまぁですね。こうして人のための仕事に就けてますし、割と楽しいですし」


「へぇ、そう。俺もやってみようかな」


「優翔さんには向いていないと思います」


「だろうね、他人の世話なんて足になるだけで充分」


どんな仕事でも誇りを持ってやっているなら大したものだ。そう、どんなにおかしな仕事でも。


「タクシードライバーって大変ですよね。ちゃんと食事はとれてるんですか?」


「日によってお客さんの数は違うからね。土日祝日なんかは特に多くて、昼ごはん食べ損ねることもある。これ前にも聞かなかった?」


「酔っぱらいの客の相手もするんでしょう?」


「俺は昼間の勤務だけにしてもらってるからね。当たったことはない。夜の仕事を辞めるよう勧めたのは君だろ」


「強盗とか暴力されるとか、よくタクシー絡みの事件が起きますけど大丈夫ですか?」


「同僚が被害にあったことはあるよ。でもまぁ都会よりは警察沙汰になるのは少ないみたい」


「体がだるくて疲れやすいですか?」


「う、ん……まあ」


「気持ちが沈んだり重くなることはありませんか?」


「最近多いかもね……」


「人生がつまらなく感じませんか?」


「あのねっ……!」


ついに我慢ならず声をあげてしまう。もう心の中を掻き乱されるのは懲り懲りだった。


「さっきから書いてるのって、うつ診断のアンケート用紙だろう? 何回受けたと思ってるんだ。それに、許可なしにさりげなく勝手に始めないでほしいな」


「許可ですか。定期的な訪問とアンケート実施についての許可はとうの昔にいただいているんですが」


宵ノ口は悪びれるどころか開き直ってきた。この男を車に乗せたことを後悔する。一旦感情を落ち着かせよう。交通事故になったらたまったもんじゃない。


「俺は3年前の俺じゃない。わかるだろう? あれから妻ともちゃんと向き合って話したし、この通り仕事もやってる。何かあった時相談するからわざわざ来なくたっていいんだよ」


「何かあった時、ですか。果たしてその時あなたとやり取りできる状態なんでしょうかね」


宵ノ口はアンケートを書くのをやめて、座席にもたれかかり窓の外を眺めた。


「あなたは見栄を張って毎回そうおっしゃいますね。きっと何度催促と助言をしても同じ返事をいただくんでしょう。でもいつまで経っても僕の電話番号、着信拒否にしないでしょ? それは心のどこかでまだ迷っているから。限界を迎える前に、今回は話を受けていただかないと『何かあった時』では手遅れじゃないですか」


赤信号で停車した際、宵ノ口は鞄から見知らぬ中年男性の写真が貼られた書類を出して見せてきた。咄嗟に俺は目を逸らす。


「優翔さんの顔、年齢、体格、性格などの特徴を話したらぜひ会いたいと仰った方です」


「余計なことを.......勝手に話を進めないでくれよ」


「優翔さんが引き継ぐのは、すでにお亡くなりになった方の人生です。この信彦のぶひこさんとの関係性は.......」


「やめてくれ、俺は」


「あ、それとも若い女性の方からの依頼を待ちますか?」


「やめてくれったら!」


俺は宵ノ口と同じ空間にいることからさっさと離れてしまいたかった。


青信号になった瞬間にスピードをあげて望み通り観光名所に連れて行く。ご当地グルメガイドブックにも載っている有名な茶屋の駐車場に車を停めた。


「着いたよ。ここ有名人が来てテレビ放送されてからますます人気店になったんだ。特にきなこアイスが絶品。せっかくなんで食べて。悪いけど帰りは別会社のタクシー呼んでくれ」


親切心の影にはアイスを食って頭を冷やせという嫌味が込められている。店に興味を持ってここで降りてくれれば、あと俺に役目はない。


宵ノ口は呆れたように肩を竦めて短く笑った。


「毎回案内してくれる店に外れはありませんよ。そういえば、優翔さんを訪ねる日はいつも雨ですねぇ」


「そうだな、君が訪ねてくる日はいつも天気が悪い」


ついでに気分も悪くなるが。


フロントガラスに大粒の雨がぶつかり、線を描いて流れ落ちていく。


俺は鏡越しに瞥見するのをやめて、振り返って宵ノ口を睨んだ。


「さっさと降りてくれる? 電話番号は削除しておくから二度と来ないでくれ」


「優翔さん、もう3年の付き合いになりますね。時々こうして様子を見に来ていますが、あなた年々やつれていってますよ。嘘はつけても体は正直。ね、お試しでもいいからこの男性に会うべきですよ。いい加減わだかまりと決着つけましょう」


「だから、俺はこのままでいいって」


「あなたはブラック企業に洗脳されている社畜と同じです。自分は幸せだと暗示をかけて心身の悲鳴を無視してる。2歩進んで1歩下がるだけでも明日は変わるんですよ」


車内で飛び交う、他人が聞けばちんぷんかんぷんな会話の内容は、俺が永遠子と離婚して別の家庭を持つという単純な話ではない。


宵ノ口がしている仕事は、『人生の紹介』なのだ。


これは俺が彼に出会った3年前に遡る。



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