第7話 個々の理解 個々の過去
基本静かな日菜の部屋に、シャーペンを走らせる音が響く。
……はぁ。めんどくさい。
日菜は自分の部屋で学校の宿題である、計算ドリルを解いていた。
簡単すぎて、脳を使うのもだるい。
学校の宿題をする時間ももったいない。
でも、どんなに面倒でも、やった方がいいと思う。成績も下がるし。
はあ、しょうがない。
今日はあと漢字だけやろう。
そう思い、日菜はカバンに手を突っ込んだ。
「……ん?」
出てきたのは漢字ドリルではなく、琴音がくれた紙だった。
……そういえば、こんなのもらったっけ。
歌詞の意味……を考えればいい、んだっけ。
もらったし、紙がもったいないから、やるだけやっておいたほうがいいよな。
日菜は目の前の数学ドリルを机横の棚にしまい込み、琴音にもらった「命ばっかり」の歌詞が印刷された紙に視線を落した。
『命ばっかり
日々を磨り潰していく 貴方との時間は
簡単なことじゃゆるせないくらいに
おかしくなってしまった 安心したいだけの
口先じゃ いや
どこまでも単純だ これまでと語った
座り込んでもう歩けなくなる
最初だけじゃないなら 際眼もないならば
どこへだって行けるはずさ
遠くへ 遠くへ 水の味を覚え
街路に目が眩み夜を超えてしまう
遠くへ 遠くへ 動けない僕のことを忘れて
知らないを知りたかった
知り得ることはなかった
水圧で動けなくなっていく また蝶の夢を見る
好きになりたかったんだ 好きになれなかったんだ
「正しい」を理想としていたら
置いてかれた
追いつけなくなったんだ
当たり前に過ぎてくはずだった時間は
何十年とも感じるほど長く
眠りすぎた頭痛で這い出した僕は
どこにももう行けやしないから
どこまでも純情だ それでしかなかった
飾らないで 分かち合いたいから
貴方の影が眩む 見失ってしまった
また眠れない夜になってく
「どうしたいの」なんて問えば 「どうもしない」なんて返す
貴方はもう何も教えてくれないの
今日食べた食事も 行きたい場所さえもう
何にも どれをとってもわからないだけだ
遠くへ 遠くへ 水の味を覚え
街路に目が眩み夜を超えてしまう
遠くへ 遠くへ 動けない僕のことを忘れて
貴方の横顔を見て引き目を感じてしまった
救われたいとだけ嘆く僕はきっともう我楽多だ
思想犯はもうやめた
「わかれない」をさとっていた
とりとめのない言葉だけでは
薄紙を剥がせない
普通に固執することが
怖くてもう泣きそうだ
自堕落を鏡で見ていたら
薄っぺらだ
薄っぺらな僕だった
ぼくだ
僕だけだったんだ』
ふーん、こんな歌詞なんだ。
日菜は初めから最後までもう一度目を通す。
意外とわかんないものだ。
人間じゃないだけで、よく分からない。人には感情があって、声のトーンとか表情とかで何となくわかる時もあるけど、文字だけがずらずら書いてあっても何を言ってるのかさっぱりだ。
文字だけで意味を考えるとなると、余計めんどくさい。
もういいや。
琴音さんが思ってるようなことを書いておけばなんとか……。
「あ。」
目に止まった、二文。
気づかないうちに、ペンでそこに線を作った。
『普通に固執することが
怖くてもう泣きそうだ』
普通。
普通とは何かを聞かれたら、答えられる人はこの世にいない。
その人にとって普通のことが、他の人からしたら普通じゃないかもしれない。
私だって、前は空気と同じでいない人扱いだった。なんなら、あの施設の人たちの中では人間以下の生き物だったかも。
でも。
ここでは私の相手をしてくれた。
優美さんだって、いろんなことを教えてくれたし、秀さんはずっと喋りかけてくれた。透さんだって、気をかけてくれているように見えた。
あの二人、いや、旭日と明星も。
意外と優しかった。
「……ははっ。」
無情にも笑えてくる。
なんで今まで嫌なヤツだと思ってたんだろう。
考え直せばいい人間じゃないか。
なんで気づかなかったんだろう、バカだなぁ。私。
めんどうだから、宿題なんてどうでもいいや。
日菜はイスから立ち上がり、ベッドに倒れ込んだ。
――
「風斗ー、宿題は終わったのー?」
よっこらせっと重たい防音室のドアを開け、琴音はズカズカと部屋に入ってくる。
今度の録音に向けて、風斗はドラムの練習をしていた。
原曲を止めるためにスマホを取り出して、画面の上に指を滑らす。
宿題というのは学校の宿題じゃなくて、ねーちゃんが出した宿題のことなんだろうな。いや、学校の宿題や終わっていると言えば嘘になるが。
「まだだけど?」
「約束でしょー、やりなさいよー。ハイ、これアンタの分。部屋から持ってきてやったんだからね。」
琴音は「命ばっかり」と印刷された紙を風斗に差し出した。
風斗は横目で見るとスマホに視線を落とした。
「えー、やだよ。めんどいし。ねーちゃんやってよー。」
ぶー、と風斗は口をとがらす。
風斗は英語と音楽以外の勉強全てが敵であり、英語と音楽と運動だけが味方なのだ。
なので、毎年毎年成績が悪くなってきている。
「ふ・う・と?」
ヤバい、これは完全に怒らせてしまったやつだ。
琴音の顔に貼り付けたような笑顔は、無言の圧を怖くさせる材料としかならない。
「あー! やりゃあいいんだろ、やれば!」
もうなんでもやってやる。そんな勢いで風斗は琴音から紙とペンを奪い取り、普段ろくに座りもしない勉強机のイスに座った。
「んで?」
どうすればいいのさ、と風斗は困ったように琴音を見上げた。
「あんたねー……。バカだバカだ思ってたけど、ここまでバカだなんて。」
あぁ、頭を抱えた琴音に、何とでもない顔で風斗は視線を逸らした。
「そーだよ。バカだからできないのー。もーいいじゃん。」
分からない、といわんばかりに、風斗はスティック回しのようにペンをくるくる回す。
「じゃあ、一番いいと思ったところにペンで線を引いて。それなら簡単でしょー。」
私、課題があるから。と言い残し、琴音はそそくさと部屋を出ていった。
「気に入ったところ、か……。」
もう知ってんだよなー、この歌、と小さくつぶやいてみる。
「やっぱり、ここっきゃないよな。」
あれ、心のなかだけで呟いたと思ったんだけど、口に出てたか? なんて余計なことを考えながら、風斗はビーっと黄色いペンで線を引いた。
『普通に固執することが
怖くてもう泣きそうだ』
学校でいじめられていた彼女に面影を重ねながら。
――
「もう寝るね、おやすみ。」
「ああ、おやすみ。水希。」
「学校お疲れ様。無理は禁物よ。」
分かってるよ、と適当にながし、水希は自分の部屋にはいる。いや、片足をいれかけた。
「水希。」
ドアを閉めようとドアノブに手をかけたところで、ママに話しかけられる。
「今日、風斗くんのお家に行ったそうじゃない。音楽、もうやってないよね?」
「!!」
なんで知ってるんだろう。
「うん、大丈夫。」
一拍あけて、返事を返す。
ずっと秘密にしてたのに。
「おやすみ。」
「うん、おやすみなさい。」
「……っふー。」
ぬれた髪を、わしゃわしゃとタオルで髪を撫でるように拭く。
なんだろう、いつもなら寂しいくらい静かだって思うのに、今日は久しぶりな感じがしてなんだかくすぐったい。
今回の課題は前に比べて多かったな。まあ、今日はもういっか。つかれた。
無理は禁物、ここで力が発揮されるなんて。と水希はだらだらと考えた。
ドサッとベットに倒れこむ。
はあ。
今日はほんとに疲れた。
目の前にちょうどよくあったベットのシーツをぐっとにぎる。ベットの上なんだからシーツがあって当然か。そんなことを考える余裕くらいはある。
夜桜星に嫉妬してしまった。
純粋に、あの才能が羨ましかった。
実の母にでさえ、音楽をやるというこんなにも簡単なことを認めてもらえないんだ、僕は。
それに比べてアイツはどうだ。
才能もあって、性格だっていいと思う。人生も、のうのうと生きてきたアイツには、僕の心が到底理解できないはずだ。
ちらりと横を見れば、窓越しにマンションから見えるキレイな夜景。星のようにキラキラと光る建物の光。
アオという名前は、前に父さんに連れて行ってもらった山で見た流れ星を思い出したんだっけ。
ここからだと、周りが明るすぎてあまり見えない星。
理系な顔してる、とよく言われるけど、実は苦手。だけど、星は大好き。
自分の存在を周りに知らせられる星が羨ましい。
そんな姿がいいと思った。
「明星なんて苗字、嫌だわ。キラキラネームみたいじゃない。恥ずかしい。」
よく、お母さんが言った。
なんで、そういうことを言うのかな。
僕の好きなことは否定するのに、なんで自分だけ否定されたくないのかな。
この世の中は、自分中心でできているわけじゃないのに。
「あ、そういえば。」
こんなだらだらとしている場合じゃなかった。
琴音さんに出された宿題をやらないといけないんだっけ。
めんどくさい……と思いつつ、やらなかったらなんかダサいな。明星は寝っ転がったまま、今日持っていたカバンに手を伸ばす。
手当り次第見つけたファイルをおもむろに引っ張り出す。そして、『命ばっかり』と印刷された紙をとりだした。
本当なら、ギターを弾きたいところだけど……。ママたちがいるからできないし、なんせもう夜。
近所迷惑になるよね。
そう思い、水希はアイポットを出し、「命ばっかり」を検索した。
『日々をすり潰してく 貴方との時間は
簡単な事じゃ 許せないくらいに』
水希は最後まで聞ききり、気に入った部分に線を引いた。
『普通に固執する事が
怖くてもう泣きそうだ』
あのとき、病院で「死にたい」と彼女に言ったことを深く後悔しながら。
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