第2話 傷を埋めてくれたのは




「おはよう、日菜(ひな)。」


 やわらかい朝の日が差し込むリビング。


 小さくなったトーストをかじりながら、日菜と呼ばれた女の子の義親である優美(ゆうみ)が日菜に話しかける。


 だらんとしたグレーのルームウェアを着た日菜はふわぁと欠伸をひとした。まだ眠いのか、目をごしごしとこする。


「…おはようございます、優美さん。」


 腰までのばした黒い髪をゆらり、とゆらして、日菜。奈坂日菜は言葉を交わした。


 しっかりと日菜は言ったつもりだったが、優美の耳には小さく聞こえた。


 結構、克服できてきたんだと思うけど。まだ、嫌なのかしら。


 優美は、いつも心配でしょうがなかった。


 不思議そうに日菜がこちらをのぞき込んでくる。


 余計な心配をかけたくない。特にこの子には。


 優美はその一心で、精一杯笑ってみせた。


「パンはトースターの近くにおいてあるわ。」


「…じゃあ、焼いてきますね。」


 それだけを言い、日菜はキッチンに向かっていった。


 その小さな背中を、優美はじっと見ていた。



 日菜は、男の子だった。


 体が男子だったとか、心が男子とか、そういう話じゃない。


 女子と価値観が合わなかったんだ。


 男子と一緒に行動をしていたほうが気が楽で、それに気づいてからは男子の服や髪形を好んだ。


 理由なんて、原動力なんて、単純だ。


 学校の友達にいじめられて、誰もが日菜を手放して、味方なんて誰もいなかった。


 生まれたころからなぜか施設で育ち、味方だと胸を張って言える存在もずっといなかった。


 嫌だった日々。


 生きたくなかった日々。


 自分の存在価値さえもわからなかった日々。


 そんな暗い日々を明るく照らしてくれたのが、優美たち。奈坂(なざか)家だった。



 チン!


 耳に残るような、高い音がした。現実に引き戻される。


 日菜はトースターからこんがり焼けたパンを取り出し、バターをたっぷり塗った。焼いた食パンの香ばしい匂いが日菜の鼻につく。


「おっ、うまそー。俺も朝飯はトーストにしよっかな。」


 ふいに、後ろから声がした。


 そして頭の上に何かが乗った、重い感覚。


 びっくりして、バターを塗る手をとめる。


 この声のトーン。喋り方。


 大丈夫だ、なんともない。知ってる人だから、大丈夫。


 日菜はバターを塗る手を再び動かした。


「……おはようございます。秀さん。」


「おはよぉ〜。」


 彼はふわぁ〜と大きいあくびをする。


「……秀(しゅう)さんの分も、焼きましょうか。」


「じゃー、お願いしよーかなぁ〜。」


 そう言って秀はテレビの前においてあるふっかふかのソファに座った。


 大きなテレビのスピーカーから小さく流れる音を聴き流しながら、ソファの上で秀は首をこくこくとゆらし初めている。


 あんなに高そうなソファとかテレビとかを買えるなんて……。さすがは、医者が二人も、いや、厳密に言えば三人もいた家だ、と日菜はつくづく思ってしまう。



 優美と秀は医者だ。


 もともと優美は東京の大学病院に勤めていた。けれど、夫の健一(けんいち)が事故で亡くなったのをきに、地元で小児科を開いたらしい。健一も医者だった。亡き者と化した健一を除けば、今もなおこの家にいて、生きている医者は優美と秀になる。


 毎日を忙しく送る優美を見ていれば、病院が忙しいのが手にとるようにわかった。


 そんな優美の背中を一番前で見ていた秀も、医者になった。


 日菜はというと、自分の部屋に引きこもる時間が多かった。週に一回の学校以外は勉強をして、優美に頼まれた家事もこなし、最近独学で始めたピアノの練習漬けの日々。


 周りから見れば、つまらないかもしれない。


 でもいい。それでいい。


 どうせ、このままでも、キラキラした私になっても、この小さな手の中に「普通」という大きなものは収まりきらないから。


 日菜はいつもそう思っていた。


 この考えが変わることなんてない、と。


――


「えへへ~、ありがと〜日菜。」


「……いえ、別に。」


 ついでなので、と言いたして、日菜も席に着いた。


 コーヒーの湯気が漂う。パンのおまけにコーヒーもつけると、秀はありがとう。そう言って日菜の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「パンくらい、自分で焼きなさい。」


「日菜が焼いてくれたんだから。サービスの一環だよ、母さん。」


 まったく、と優美は呆れた。


 そんなことも気にせず、日菜はパンを頬張る。


 外はサックサク、中はふわっふわのおいしいトーストを食べる。


 ……おいしい。


 日菜の顔からは小さな笑みがこぼれる。


 黒縁メガネの中で、漆黒の瞳が細くなった。



 あ、今笑った。


 秀は小さなその笑みを見逃さなかった。


 秀だけじゃない。


 朝食を食べ終わった優美も気づいていた。


 初めてここに来たときは、無表情で、表情筋があるのかすらもわからなかったあの日菜が、ここまで。


 ああ、好きなものができると人っていうものはここまで変わるのか。


 すごい。


 やっぱり、人間は知らないことが多い。


 生物っていうのは未知の可能性に溢れていて面白い。


 どこまで成長できるか、楽しみだな。


 秀はふっと笑い、コーヒーがあと一口分くらい残っているマグカップに手を伸ばした。


——ガチャ


 リビングのドアが開く。


 自然と三人の視線はドアに移った。


「行ってくる。」


 そこには制服に身を包んだ秀の弟、透(とおる)が顔をのぞかせていた。


「透。朝ごはんは? いいの?」


「いい。別に腹減ってないから。」


 吐き捨てるように透は言った。


「でも……。」


 優美はもう少し言いたそうだった。


 これも、私のせいなのかな。


 透の表情はいつもと変わらない無表情。鏡の向こうに住んでいるもう一人の日菜とは、ちょっと違う顔。


 何かを隠そうとしている気がする。


 何を隠したいんだろう。


「いいから! 行って、くる。」


「いって、らっしゃい……。」


 バタンッ、とドアを乱暴に閉め、透は逃げるように出ていった。



 なんで。なんでいつもいつも、母さんは心配するんだろう。


 透は手を使わずに靴を履いた。


 なんなんだろう。


 ここのところ、ずっと気分が悪い。


 ぐるぐると腹の奥が気持ち悪い。


 靴のかかとの部分が内側に曲がることも気にしないくらいに、透は悩んでいた。いつもの几帳面で真面目な透なら、めんどくさいなぁとかぶつぶつ言ってちゃんと直すのに。


 わかってる。わかってるよ。


 父さんが原因なのはわかっている。


 何かが透につっかかった。ムカムカして、取るにも取れない。


 ふざけるのもいい加減にして欲しい。


 なんなんだよ、これ。


 母さん。


 助けて欲しい。話したい。


でも、もうちょっとのところで「助けて」の一言が言えないんだ。


 喉のところで引っかかって、こんなときも勇気がない俺は、その言葉を飲み込むんだ。


 口からは本心なんかじゃない言葉が決壊したダムみたいにドバドバ出てくる。毒吐いてるっていう自覚もあるけど、何度試しても、自分をコントロールできない。


 こんな自分に腹が立つ。


 あぁ。


 こんなクズな俺でホントにごめん、母さん。


 喉の奥がツンとしたのを紛らわせるように、家から逃げた。



 優美は乱暴に扱われたドアのことなんか気にしなかった。透がめずしく大きい声を出したことに驚いた。


 ……ごめんね、健一くん。


 私、ちゃんとしているつもりで、なにもできてなかったのかもしれない。


 だらりと力が抜けて、優美は突っ立っていた。


 もっと、心によりそってあげればよかったのかもしれない。


 もっと、もっと、私が、ちゃんとしていれば……。


 女手一つで二人の子を育てていた優美には、いつだって不安が付き纏っていた。


 優美は唇を噛みしめ、うつむいた。自分の力の無さに失望した。



 それをちらりと見ながら、なんとも思わない顔で日菜は残り一口になったトーストを口に運ぶ。


 さっきまでおいしかったそれは、苦い味がした気がした。



 あの時、何もできなくて医者になったんじゃねーのかよ。


 秀はぐっと拳を握る。


 父さんが死んだとき、誰よりも一番、母さんが悲しんでた。


 私の責任だって聞かなかった。


 そんなの、俺たちにも責任はあるのに。



『人を助けるためだもんな。』



 父さんが口癖のように、いつもいつも言っていた。



『いいか、秀。困っている人見つけたら、助けるのが人として当たり前の事だからな。』



 俺に言っていたんじゃなくて、自分に言い聞かせていたのかもしれない。


 結局、父さんは寝不足のまま、信号無視で死んだ。


 その悲報を聞いた時、目の前が見えなくなって、暗くなって、訳わかんなくて。頭が真っ白になった。


 あの時、無理矢理にで止めておけばよかった。

 俺って、なんでこんなこともできないんだろうなぁ……。


 とてつもない劣等感に襲われた秀は、さっさとトーストを食べ、静かにリビングを去って

いった。



 残された日菜と優美の間に、ぎこちない空気が流れる。


 さっき秀がつけたテレビから七時を知らせる音楽が流れた。


 そろそろ行かないと、学校に遅れてしまう。


 日菜はすっと立ち上がる。


 皿を流しですすぎ、そばのカゴに置く。その足で自分の部屋に向かおうとした。


「……ごめんね、私で。」


「!!」


 蚊の鳴くような細い声で、優美が言った。


 そんなことない。


 日菜は振り返ろうともせず、ドアノブに手をかけたまま、動きを止めた。


 私は優美さんに救ってもらえてよかった。


 幸せがやっと、少しずつ分かってきた。


 感動を、優美さんは私に与えてくれた。


 生れたときは真っ白だったはずの紙もいつのまにか黒く染っていて。そんな黒を取り除いて、新しい、色鮮やかな暖かいものを埋め込んでくれたのは、紛れもない優さんですよ。


 今だって、こうやって喋ってるの、私、好きなんですよ?


 ぽっかりと空いた傷に、新しいものを埋め込んでくれたのは、他の誰でもない優美さんたちですよ。


「私にはわからないです。けど、……過ぎたことを悔いても、仕方ないと、私は、思い、ます。」


 これくらいしか言えない。


 もっと心が色であふれていたら、もっといいことを言えたかな。


 もっと普通の色に染まっていたら、なんて言えたんだろう。


 そんなことを考えながら、日菜もリビングを去っていった。



「そう、よね。」


 あんなに暗かった日菜にはげまされてどうするのよ、奈坂優美。


 あの子を引き取ったのはなんで? 「楽しい」ってことを教えてあげるためでしょ。


 私が明るくなくて、三人が明るくなるわけないでしょ。


 もっと、笑顔で。


 みんなで楽しめられる環境を作ってあげるのが私のお役目でしょ。


「よしっ。」


 パンっと自分の頬を一回叩いて、気合いを入れて優美は立ち上がる。


 健一くん。弱いことを言ってごめんね。あの子たちのためにがんばるよ。


 あなたも、空から見守っていてください。


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