第2話

地味で目立たない、壁の花。

そんな影の薄い伯爵令嬢レティシア・アルストラが初めてサディアスを見たのは、大図書館の最上階。

放課後に本を借りに来て、なんとなく最上階まで登ってみたらそこに彼がいた。

窓辺に座って、頬杖をついて退屈そうな顔だったのをよく覚えている。

まさかこんなところに今話題の公爵令息がいるとは思わず驚いたのだが、よくよく見ていれば彼は、何をする訳でもなく窓の外をただ眺めているだけ。

ただ、その手には小さな望遠鏡が握られていた。


(なんて、綺麗な人……)


それからレティシアは、図書館に通い詰めて皆が『冷徹な悪役令息』と噂する彼の素顔をこっそりと見続けてきた。

最初はただの一目惚れだった。

でも、段々と彼の素顔を知るうちにどんどん好きになっていった。

星に詳しくて、小説が好きで、穏やかに優しく笑う人。

レティシアが知っているのはそれくらいのこと。

でも、たったそれくらいのことがレティシアの心を動かした。

学業熱心、成績優秀、常に不機嫌、そしてメルゼシア公爵令嬢の恋路の邪魔をする人。

周囲から聞く様々な評判は、どれも本当のサディアスとはかけ離れていた。


別に、彼に自分のことを知って欲しいわけでもなくて、ただ彼のことを見ていられればそれで良かった。

彼のことを見守るのも、この図書館の中でだけ。

学園では彼について何も知らないという顔をしてきたし、これからもそうするつもりだ。


でも、今だけは己に立てた誓いを破らなくてはならない。

レティシアはサディアスの後を追って、この大図書館に辿り着く。


そして今日、あの日と違って月の見える窓辺で、彼は同じように座っていた。

でも今は、膝を抱えて項垂れたように窓の外は見ようともしていない。

その仕草はまるで親に叱られた幼子のようにも見えた。


「あのっ、サディアス様……!」


ダンスパーティーの日に図書館に来る人なんていなくて静まり返った室内では、思ったよりも声が響いた。


「っ!」


サディアスが、ぱっと顔を上げる。


「君は……」


サディアスが、レティシアを見つめている。


「誰だ?」


「ええっと私はですね、名乗るほどの者でもなくて、えっと、その」


話しかけたのだから当然そうなるのだが、初めて自身の存在を認識されレティシアは慌ててしまう。

一拍置いてから、息を吸って落ち着かせた。


「私はレティシア・アルストラ。ただのしがない伯爵令嬢です」


我ながら酷い自己紹介だと、レティシアは思う。

昔から印象に残らないと言われがちだが、こんな場面では絶対にサディアスの記憶に残るだろうから最低限にとどめるしかなかったのだ。

大好きな人は陰ながら応援したいが、認知されるのはちょっと……、という気難しい乙女心故である。


「では、ただのしがない伯爵令嬢殿は、一体俺に何の用かな……ああ、そうか。俺を笑いに来たのか」


サディアスは相当ショックを受けているようだ。

普段の彼なら絶対にそんなことは言わないだろうし、こんな自嘲気味に笑ったりもしない。


「今まで家名に恥じないよう努力を重ねてきたつもりだったが、まさかこんなところでメルゼシアに婚約解消されるとはな……。メルゼシアにも俺なりに尽くしてきたつもりだったんだが、全て無駄だったようだ。今頃連中は楽しそうに騒いでいるんだろう。ははっ、俺は哀れな奴だな……」


サディアスの切れ長の瞳が、悲しげに揺れている。

それを見ていると、レティシアはもう黙っていられなくなった。


「断じてそんなことはありません!私はただ、貴方を励ましたくて、」


「……励ます?君は何を言っている?」


「そのっ、先程の婚約解消の件ですが、私は本当のサディアス様を知っています!皆さんが言うような人なんかじゃなくて、だから、えっと」


いざサディアスの前に出ると、言いたいことが上手くまとまらなくて混乱してきた。

一人であわあわと慌ててしまい、恥ずかしい限り。

だが、サディアスはそんなレティシアを見て、敵意がないことがわかったのか一転して優しく声をかけた。


「君の話は最後まで聞く。だから、落ち着いて」


そんなことを言われれば、むしろ心臓がドキドキして暴れだしてしまう。

それでも何とか落ち着かせて、彼に励ましの言葉を送ろうとする。


「サディアス様。私はサディアス様のことが好きです」


かなりストレートな告白をしてしまった。

だがもう今更後にはひけない。


「……っ、私はずっと貴方のことを応援してきました。これからも応援するつもりです。ですから、あんな人の言ったことなんて気にしなくていいんです。サディアス様は冷たくなんかなくて、優しい人だって知ってます。サディアス様がどれほど努力をされてきたのか、ちゃんと分かっています」


「君は……」


サディアスの、ガーネットの瞳が静かにレティシアを見つめる。


「メルゼシア様とのことも、きっと大丈夫ですよ。だから、落ち込んだりなんてしなくていいんです」


あなたの味方はたくさんいますよ、ほら、ここにだって。


レティシアは精一杯、自分の伝えたい思いを話した。

その気持ちはサディアスにも伝わったようで、彼はふっと優しく微笑んだ。


「不思議な人だな。俺はついさっき名前を知ったばかりなのに、君は俺の事をとても大切に思ってくれているようだ」


サディアスの手が、レティシアの金髪に伸ばされる。

突然そんなことをされて、一瞬にして身体が硬直した。


(サ、サササディアス様!?サディアス様が私の髪を!?)


まさかまさかの行為に、もう一生髪を洗えないと天にも昇る思い出あったが、サディアスの次の言葉でレティシアは我に返った。


「思い出した。大図書館に住む妖精とは、君のことだったんだな」


「……へ?」


「この図書館にいると、度々俺の周りでは不思議なことが起こる。探していた本が知らない間に机に置いてあったり、いつの間にか誰かからお菓子が差し入れてあったり……」


全部に心当たりがあった。

何もしない、と決めていたのだがどうしても我慢ならずほんのささやかなお手伝いのようなことは何度かしていたのだ。

自分でもまるでストーカーのようなことをしてしまっていることは分かっている。

もちろん、本人に嫌がる素振りがあればすぐにでもやめるつもりだったが、そのどれもをサディアスが好意的に受け取っていてくれる様子だったのでどうにも踏ん切りがつかなかった。


「最初は不思議で仕方がなかったんだ。俺に取り入りたいと考えたどこかの令嬢だろうと結論付けたんだが、それにしては名前どころか一切素性を表さないからな。俺に気に入られたいのなら、こんな回りくどいことをしなくても他の方法があるだろう。気になって司書に聞いたら、この図書館には『金髪の小さな妖精』がいる、と言われたんだが……」


司書とは、以前サディアスを見守っている姿を目撃されて何をしているのかと怪しまれたが、洗いざらい白状したところ恋する乙女の為ならと笑って、黙ってくれることを約束していた。

確かにレティシアのことは隠されているが、妖精だなんてそんなまさか……。


サディアスは穏やかな声で、レティシアの名前を呼ぶ。


「妖精は、君だったんだな。レティシア」


まさか自分がそんなふうに呼ばれていたことなんてつゆ知らず。

サディアスの笑顔が見れた嬉しさと、色々なことに対しての恥ずかしさが混ざり合って、レティシアの頬が赤く染る。

ともあれ、これで少しは彼を励ますことができたのならそれで良いと早々にこの場を去ろうとするが、何故かサディアスはレティシアの手をそっと優しく握った。


「あっ、あの!?サディアス様!?」


「レティシア・アルストラ、か。アルストラ伯爵家の令嬢とあらば、父も許してくれるだろうか」


「えっと……?」


なぜだかものすごく嫌な予感がした。

そしてその予感は見事に的中する。


「婚約、するか。わざわざこのタイミングであんなことを言ったのはそういうつもりもあったのだろう?」


「あれ……?」


「ああ、君の思いはしっかり伝わっているから安心してくれ。目が覚めたようだよ、いつまでも落ち込んではいられない。俺も俺のするべきことをしなければ」


(するべきことって、まさか新しい婚約者探し?嘘でしょう、そんなまさか)


「レティシア嬢。俺と婚約してくれるだろうか」


まさかまさかで、そうだった。

確かに、正式に婚約解消の手続きがなされればサディアスがすべきことは次なる婚約者を探すことだ。

だが、だからといってちょうど良いとばかりにそう言われてもレティシアには応えることが出来ない。


「困ります!」


「……は」


断られるとは思っていなかったであろうサディアスが、唖然としている。


「婚約だなんてそんな!恐れ多すぎますよ!」


「君は、俺のことが好きなんじゃなかったのか」


「好きですけど!婚約したわけじゃないんです!こう、影からこっそり見守らせてもらえればそれで!十分!」


だんだんと本音が溢れ出してきた。

レティシアは、サディアスのことは何よりも好きで愛しているが、彼に愛されたいという思いは無いのだ。


「ぶっちゃけこんな地味眼鏡女の私はサディアス様に相応しくありません!サディアス様のお隣には、サディアス様のような美しくて凛々しい人が立つべきなのです!そう、メルゼシア様よりももっと相応しい人が!」


「その相応しい人が君ではないかと言っているのだか」


「私は影からサディアス様を見ていたいんです!隣に立つのは解釈違いです!」


「本当に君は変わった人だな……」


やれやれ、とサディアスが苦笑する。


「まあ、今日のところは仕方ないだろう。この件について、今一度考えてくれるとありがたい」


どうやら諦めてくれるつもりは無いらしい。

レティシアはもう、怒涛の展開に頭がこんがらがりそうだった。

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