第33話 生きて継ないで
「よかった……無事だったん、だね」
戻った拍子に、青白い顔に微笑みが浮かんだ。吹けば散りそうな儚い笑顔だが、見ていると体の奥底から熱が込み上げる。
「新手が近くまで来てる。行こう、肩を貸すよ」
「このままじゃ、みんな死んじゃうよ」
ミカナに伸ばした腕を止める。
「……死なないかもしれないだろう」
心にもないことを言った。
新手を迎撃する体力はもう残ってない。回収した突撃銃を使っても、せいぜい二、三人と刺し違えるのが関の山だ。何かの奇跡で
「ジンくん。あなたのお兄さんの言葉、覚えてる?」
「え?」
急に何の話を。
俺が告げるより早く、ミカナが肩で呼吸をして言葉を紡ぐ。
「技術でも、何でもいい……後に継なげ。私ね、それ、すごくいいなって思ったの。兵士は人を助ける仕事。そう思って志願したけど、実際は無人兵器を壊すだけの毎日だった。機械の残骸以外には何も残せない。そう思うと、怖くて夜も眠れなかった……でもね」
ミカナがツムギに視線を振る。真剣なまなざしが
「ツムギちゃんが来てくれて、緊張で固まっていた表情がどんどんほぐれるのを見て、私はやっと希望を抱けたの。ツムギちゃんが大きくなって、私達の生きた意味が後世に広がる。それって、とっても素敵なことだと思わない?」
だから。
三文字を発したのを機に、ミカナのまなざしが
「ジンくん……生きて、継ないで。私達の子を、安全な場所まで送り届けて」
嫌だ。
その、たった二文字の言葉が発せない。圧をはらむミカナのまなざしが、俺にかぶりを振らせてくれない。
「行って」
念押しされては、もう駄目だった。
「……分かった」
俺は吐血するように告げてツムギに歩み寄る。小さな肩に手を置いて揺り動かす。
「ツムギ、出発するぞ」
大きな目がぱちぱちする。
「……うん」
小さな体がのっそりと起き上がる。俺は小さな手をそっと握って踏み出す。
数歩歩いて、ツムギが足を止めた。
「ママは?」
俺は口元を引き結ぶ。ツムギに見えない角度で左手を固く握り締める。
「ママは……もうしばらく休んでから来るってさ」
「こわい音したよ? ママ、一人で歩けるの?」
「それは……」
不可能だ、なんて口にするわけにもいかない。
沈黙を
「ママと一緒じゃなきゃ、やっ」
「ツムギ」
「やっ!」
明確に拒絶されて途方に暮れる。
ミカナと交わした会話は五歳の子供には難しい。分かりやすい言葉に置き換えるのは簡単だが、それを言い聞かせられる自信はない。
感情は理屈に勝る。一度はミカナの頼みを跳ね除けた身だ。俺も身に染みて知っている。
「ツムギちゃん。こっちに、来て?」
血色の悪い顔が必死に口角を上げる。
小さな顔がこくっと揺れた。俺の手を振り払ってミカナの元に駆け寄る。
「ツムギちゃん。私ね、疲れちゃったの。悪いけど、パパと先に……行ってくれないかな?」
「やっ」
「ツムギちゃんは、本当のパパとママに会いたいんだよね? ここで怖い人達に捕まったら、会えなくなっちゃうよ?」
「でも……でもっ」
ツムギが目を伏せる。
子供ながらに直感しているのだろう。ミカナを置いていけば二度と会えなくなることを。それでもミカナの言葉が正しく、俺と二人で行くしかないと。感情と正論。ツムギが両者の間で揺れるのが分かる。
その天秤に、新たな言葉がのしかかる。
「ツムギちゃん、覚えておいて。生きていると、嫌なことなんていくらでもあるの。努力だけじゃ、どうにもならないこともある。そういう時はね、逃げるの。色んな物をかなぐり捨てて、いっぱい泣いて、その後で、前を向くの。絶望するのは死んだ後でいい。だから、今は逃げて」
「マ、マ……」
小さな顔がくしゃくしゃになった。決壊寸前な表情を前に、ミカナはふっと息をもらす。
「泣かないの。そんな顔をされたら、私は安心できないよ? 試しに、笑ってみせて。ママを……安心させて?」
細い首が黙々と縦に振られた。涙で濡れる口角が微かに上がる。
ミカナは重くなった腕を上げ、ツムギの頭を優しく撫でる。
「よくできました。ツムギちゃんのおかげで、ママは安心できたよ」
ミカナはジンに視線を送る。
恋人が顔をゆがめて首を縦に振った。娘の手を取って引っ張っていく。
「さようなら……二人とも」
ミカナは頬に力を入れる。二人が振り返っても走り続けられるように、震える口元を弧の形で保持する。
枝葉を背景に大小の背中が小さくなる。不意に、三人で過ごした時間が脳裏をよぎる。
同じテーブルを囲ってご飯を食べた。
手を繋いで談笑した。
遊園地で遊び歩いた。
全て笑顔で満たされた記憶。一緒に思い出を作った二人の背中が、今は遠い。
もうあの中には混ざれない。その現実を、
「待って、私も……」
口走って目を見開く。慌てて口元に両手をかぶせた。幸い声は大きくなかった。二人が戻ることはない。
それでも自覚してしまった。悲しさと寂しさが泉のようにあふれ出し、滴となって頬を伝う。感情を押し殺そうとしても喉の震えを止められない。
「いたぞ!」
落ち着くまで追っ手は待ってくれなかった。ミカナは上着の袖で涙をぬぐい、顔を上げて敵の顔をにらみつける。
何の因果か、レオスとその取り巻きが立っていた。
「お前一人か。解代はどこだ?」
「行ったわ。もう、追いつけないんじゃない? ジンくんに勝ち逃げされちゃったね」
凶悪な顔が
「まだだ! 俺は負けてねェッ! そうさ、逃げたならおびき寄せればいい。お前を泣かせば、嫌でもあのツラがおがめるだろうよ」
この期におよんで飛び出したのは、いっそ清々しいほどの悪意だった。裏切り行為に対する怒りは見られない。ミカナ達をおとしめる。それしか頭にないらしい。
意図せず口角が苦々しく上がる。
レオスが眉をひそめた。
「何故笑う? お前はこれから泣き叫ぶんだぞ? ああ、ちょっと気持ちいい目に遭ってもらうのも悪くねぇな。あいつ、どんな顔するかなぁ」
レオスがニヤッと笑う。取り巻きもニタニタと顔を見合わせる。
思わず口からため息が飛び出た。
「ほんと、あなた達が追っ手でよかった」
「あ? どういう意味だ?」
防寒用マントの下で手榴弾を握る。
死んでも二人を追わせない。覚悟を胸に、グレネードのピンを引き抜いた。
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