第30話 死の臭い


「ミカナッ⁉」


 反射的にドアの取っ手へと腕を伸ばす。


「降りないで!」


 張り上げられた声に体を縫い留められた。

 窓の向こう側でミカナが上体を起こす。おどおどするツムギの腰に両腕を回し、後部座席に飛び込む。


「出して!」


 俺はアクセルペダルを踏みしめる。

 体に慣性が掛かった。サイドガラスに映る景観が後方へと流れる。目的地が指定されているらしい。自動でハンドルが切られ、車体が大きくカーブを描く。


 俺はボタンを押してドアを閉める。前方の安全を確認してから後部座席に意識を向ける。


 ミカナが歯を食いしばっていた。まぶたをぎゅっと閉じて、指先が白くなるほどふくらはぎの辺りを強く握っている。繊細な指の隙間から液体が流れ落ち、灰色の座席を見る見るうちに暗褐色へと染め上げる。


 俺は思わず身を乗り出す。


「弾が当たったのか⁉」

「そう、みたい……っ」


 爆発音が大気を震わせた。

 

 俺は反射的に顔を上げる。爆音の発生源はプランテーションを覆うドーム付近。舞い上がった土ぼこりが前方の景観を濁らせる。


「おいおい、大丈夫なんだろうな……対ショック姿勢!」


 ミカナがツムギの体を抱き寄せる。


 俺は身を引いて運転席に向き直る。背もたれを抱くようにして身を伏せ、あるかもしれない激突の衝撃に備える。


 ドームが無事ならぶつかる頃合い。


 衝撃は……ない。上体を起こしてフロントガラスを視認すると、青々とした草原が広がっていた。奧の方では幾多もの木々が並び立っている。さながら緑のバリケードだ。


 プランテーションからの脱出は成った。

 安堵もつかの間。俺は再び後部座席に意識を戻す。


「ツムギ、ママの脚を治療するから前に来てくれ。前方に何か見えたら教えてほしい。できるか?」

「うん、やってみる」

「ありがとう」


 ツムギが心配そうにミカナを一瞥する。運転席と助手席の間を通って助手席に小さな腰を落とす。

 俺は後部座席の足場に靴裏を付ける。


「ミカナ、傷を見せてくれ」

「う、うん……」


 俺は救急箱からガーゼと包帯を取り出す。赤に濡れた手が患部から離れ、俺は傷の具合を視認する。


 ふくらはぎがえぐれていた。弾は抜けているが傷は浅くない。赤い液体がトクトクと流出して車内に鉄臭さを充満させる。

 

 明確な死の臭い。脳内に一つの光景がフラッシュバックする。兄だったモノが地面に転がり、流れ出るものが土を湿らせた絶望の瞬間。


 全身が総毛立つ。呼吸が一瞬止まり、心臓をわしづかみにされたような感覚に陥った。また大切な人が遠くへ行ってしまう。そんな恐れに頭の中を支配されそうになる。


 俺は全力でかぶりを振る。

 違う、違う! ミカナは生きているんだ。手の施しようがなかったあの時と同じ結果にはならない!


 いつの間にか包帯を握り締めていた。俺は腕から力を抜いて顔に微笑を貼り付ける。


「止血する。痛いだろうけど我慢してくれ」

「うん……お願い」


 ミカナにハンカチを咥えさせる。バッグをミカナの脚の下に挿し込み、流血箇所を心臓より高い位置に固定する。軍用水筒の蓋を開け、ハンカチを添えて水で傷口を軽く洗う。


「……いくぞ」


 ミカナが首を縦に振る。


 包帯を巻くだけで終わりにしたいところだけど、ふくらはぎからの流血が止まる気配はない。出血性ショックを考えると強引にでも止血した方がいい。


 しかし傷を圧迫するということは、幹部に直接ハンカチを押し当てるってことでもある。圧迫された側がどうなるかなんて日の目を見るより明らかだ。


 俺は息を呑み、抉れた患部にハンカチを押し当てる。


「――ッッッ‼」


 くぐもった絶叫が車内を駆け巡った。まぶたがぎゅっと閉じられ、縁からあふれた透明な滴が重力に引かれて頬を伝う。噛む力を受け、くわえられたハンカチがくしゃくしゃになった。ハンカチがなければミカナの歯が欠けていたかもしれない。


 俺は耐え兼ねて目を逸らす。手を離したい衝動と罪悪感をこらえ、血が止まるのをじっと待つ。早く止まれ、早く止まれ。ひたすらに願い続ける。

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