第48話 同僚だったモノ


「向こうから何か聞こえる」


 ささやきに次いで手が口元から離れる。


「はぐれた同僚でしょうか?」

「さあ? ひとまず確認しよう。後ろからついてきてくれ」


 解代さんが足を前に出す。


 わたしも靴音を殺して背中を追う。


 落ち葉のじゅうたんを踏みしめること十数秒。ちょっとした広場が見えた。見覚えのある獣が地面に足跡を付けている。


 昨日食べられかけた時のことがフラッシュバックする。あの個体は解代さんが仕留めたし、別個体と分かってはいるのに身震いが止まらない。


 解代さんがリュックをそっと地面に置く。布を取り出し、左腕を覆うアームガードの上からぐるぐると巻く。


「何してるんですか?」

「外した時の保険だよ」


 限界まで絞った声が返ってきた。解代さんが静かにハンドガンのスライドを引く。四足歩行の獣に銃口を向けてトリガーに指をかける。


 ゴソッとした音が鼓膜を震わせた。


「っ⁉」


 解代さんが反射的に銃口の向きを変える。


 近くの茂みから小さな影が飛び出した。白と茶に彩られた小動物だ。


 可愛い。

 思った刹那。視界の外から足音が迫る。


「くそっ!」


 わたしが振り向くより早く、解代さんが一歩前に出る。


 乾いた音が鳴り響いた。獣の前足から赤黒い液が飛び散る。弾は無人兵器の装甲すら貫く徹甲弾。もう脚は使い物にならない。


 走れないレベルの傷を負っても、勢いのついた獣の体は止まらない。


「危ない!」


 わたしが叫んだ時には、獣が解代さんの左腕に噛み付いていた。


「おわあああああああっ⁉」


 解代さんと獣が坂を転がり落ちる。


「解代さん⁉」


 解代さんの姿が小さくなる。


 見失ったら事だ。追おうとして即座に足を止める。


 坂の角度はかなり急だ。解代さんが負傷する可能性もある。


 その時は、わたしが施設まで引きずるか応援を呼ぶしかない。下手に追った挙句に転んで怪我をしたら共倒れだ。


 辺りを見渡してなだらかな道を探す。


 坂で何かが日光を反射した。


 それは解代さんのデバイスだった。転がる途中で手首から外れたに違いない。離れた木の根元に引っかかっている。気を付けて下れば、手が届かなくもない距離だ。


 解代さんの捜索を優先するか。


 デバイスを回収してから別の道を探すか。


 選択は二つに一つ。わたしは意を決して踏み出す。


 選んだのは前者だ。転がり落ちた解代さんが無事とは限らない。下ではピンピンした獣が待ち伏せているかもしれない。万が一わたしが足を踏み外せば、獣に無防備な姿をさらすことになる。互いに死はまぬがれない。


 あくまで二次被害を防ぐため。自分に言い訳して足を動かす。


 景色は相変わらず樹木が立ち並ぶだけ。解代さんが転がったポイントに近づいているのか、遠ざかっているのか、それすらも自信が持てない。


 一度拠点まで戻った方がいい? 


 でも拠点までは距離がある。途中で獣とばったり出くわしたら終わりだ。わたしが生き残るには、どのみち解代さんと合流するしかない。


 傾斜が緩い道を見つけて下る。変わり映えしない景色の変化を求めて、視線でせわしなく緑の景観を薙ぐ。


 視界内で影が動く。


 口角が上がった。ちょっとした羞恥心に負けて全力疾走は自重する。走り寄ったら心細かったと言わんばかりだ。さっきは呆れられたし、この辺りで少しは落ち着きのあるところを見せ付けたい。


 心細さよりも見栄が勝った。状況が違えば、わたしは涙すら浮かべて両腕を広げたかもしれない。


 だからこれは、きっと運が良かったんだ。


「……え」


 くちびるから戸惑いの言葉がこぼれた。


 のっそりと現れたのは巨体。解代さんでも、ましてや人間でもない。体がもじゃもじゃした毛に覆われて、大きな口にはたくましい牙が生えそろっている。


 クマ。


 鳥肌が立った。一瞬の内に思考が漂白される。散々習った、クマと遭遇した際のマニュアルも思い出せない。


 赤い色に視線を引き付けられる。


 口元だけじゃない。暗い毛色に何かが塗りたくられている。


 ポタ、ポタ、ポタ。 しずくが重力に負けて地面を濡らす。その動きで視線が下に引き寄せられる。


 落ち葉にまぎれて赤い液体が広がっている。その上に、見知った同僚の顔が転がっていた。


「嫌ああああああああああああああああっ⁉」


 悲鳴が口を突いた。同僚の亡骸。胴体のない首。意識したとたんに鼻孔が鉄臭さを感知する。


 眼球がくり抜かれていた。離れた胴体の腹部は食い破られたかのごとく開かれ、中身の赤が枯渇するほどあふれ切っている。


 こういう状況で一番やってはいけないことなのに、喉の震えを止められない。視線を逸らすこともできずに、見たくもない光景を突きつけられる。


 人を襲ったクマは、二度と人を恐れなくなる。もはやそっと逃げることに意味はない。


 ここにいちゃいけない! わたしは本能に従って背を向ける。形見を回収しようだとか、そういった気遣いは浮かばない。この場にいると死が伝染しそうで怖かった。


 左胸の奧にあるバクバクをこらえて手足をブンブン振り回す。


 後方から雄叫びが迫る。生物のそれとは思えない重々しい足音が地面を揺らす。


 走る向きを変える。毛だるまとの間に樹木をかざした。木の幹を盾にして時間を稼ぐ算段だ。


 一抹の望みが、圧倒的暴力の前に粉砕された。幹が小枝のごとく折り砕かれ、木っ端となって降り注ぐ。


「きゃああああああああっ⁉」


 思わず腰を抜かした。お尻が落ち葉のクッションを軋ませる。


 これで詰み。これくらいできると言わんばかりにクマが立ち上がる。丸太のような腕が掲げられて、否応なしに自身の最期を悟った。


 先日命を拾った光景が脳裏をよぎる。


 既視感を覚えた刹那、パァンと乾いた音が鳴り響いた。

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