第5小節

 灯里の家にでは必ず、ピアノの音が鳴り響いている。


 父親も母親もクラシックが好きだったわけではない。


 灯里が小さな頃、ピアノの体験教室に行った時に、灯里がやりたいと言い出した。


 そこから、灯里は毎日ピアノ漬けの生活になっていった。


 父親は「灯里の好きなようにやらせたらいい」と無関心に言い、母親は「将来を考えたら、灯里はピアノをやるべき。その才能があるのだから燻らせては勿体無い」と半ば強引に言う。


 当の本人である灯里は、両親の言う通りにするわけではなく、だからと言って両親を無碍にもしない。


 灯里の中にあるのは、絶対的な音への探究心だった。


 この音が見つからない。


 どこかにあるはずだ。


 どこまでも無垢に探し続ける。


 灯里は家で聴くクラシックは、心を揺さぶられるものなどではなかった。


 この音を参考に準えるのが、この世界での正解だ。


 どれだけ突き進んでも、自分の音を追求する事は、さして意味のない事でもある。


 作曲者の意図を思いその通りに奏る。


 家で流れているのは、参考になる音でしかなかった。


 この日も灯里は、ピアノの独創曲が流れるリビングを抜け、自分専用に作ってもらった防音室に向かう。


 防音室の中に入ると、グランドピアノの前に座る。


 探し続けている音が見つからなかった事に落胆し、ピアノに体を預ける。


「あの音が正解なんだけどなー」


 灯里は、思い馳せる。


 少し前に見つけた、自分の理想に近い音に。


「こうかなー……」


 灯里はピアノに指を乗せる。


 小さく弾けるようにラの音が鳴った。


「違うー。こんな濁った音じゃなかったんだけどなー」


 何度も指に力を込める。


 小さく弾いたり、繊細に触れたり、大きく指を落としたり、大胆に叩いたりする。


 けれど、灯里の求める音は、そこには無かった。


「天音ちゃんも見つけたのかなー」


 灯里はピアノの前で呟いた。


 今日の天音の様子は灯里が見る限りそのように見えた。


 何かを見つけ、自分の音に自信が出てきたように聴こえた。


「もうちょっと、探してみようかな……」


 灯里は、防音室から出ていく。


 リビングを通ると、母親はクラシックを聴きながら、コーヒーを飲んでいた。


「あら、灯里。こんな時間にどこか行くの?」


 灯里は時計を確認する。


「まだ、五時だよ。ちょっと外で気分転換してくるだけ」


「そう。あまり遅くならないようにね」


 母親は、コーヒーの続きを飲み始める。


「うん、わかってる」


 灯里は茶色のダッフルコートを着て、家を出た。


 天音の見つけた音を灯里も探したい、と夕暮れに包まれていく街に、足を向けた。

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