第4小節

 天音と灯里にとって授業は大切なものではなかった。


 何故に数字を足したり割ったり掛けたり引いたりしなければいけないのか。その意味も同義も灯里と天音の中には存在しない。


 言語の必要性はわかる。


 それは世界で生きていくための手段であり、コミュニケーションツールでもあるからに他ない。


 灯里と天音にとって英語以外の勉強は意味を成さない。


 ショパンやラフマニノフの生き様や、その行動への理解、楽譜に落とし込んだ感情の揺れ方、時代背景などには興味は湧くものの、それ以外の偉人の行動は興味がない。


 灯里も天音も、一般的な大学に入り、一般的な職業を目指していない。


 二人に共通しているのは、職業というよりも、自分の音を最高の音色に仕上げるための修練や勉強をするだけだった。


 徳川家康が何をしようが、太宰治が何を書こうが、興味の対象ではなかった。


 授業の合間、二人は想像の中でピアノを弾く。


 時間だけが過ぎていくのはとてももったいのない事だった。


 ならば、と黒板に記される文字を見つめながら、頭の中で右手と左手が動き回る。


 黒鍵から白鍵へ。


 白鍵から黒鍵へ。


 次から次へと飛び回る指はひと所に止まらない。


 楽譜に刻まれたファの意味。


 そこから生まれるラへの移調。


 意味と理解が目まぐるしく飛び回る。


 何故、このタイミングでアレグロが記されいるのか。


 何故、その直後にピアニッシモまで落ち着くのか。


 灯里や天音にとっては、学校の授業よりも、有意義な思考の時間だった。


 けれども、他の生徒は真面目に授業を受けているのは当たり前であった。


 例えば、隣の席の男子生徒は教科書とノートを開き、シャープペンシルで何かを書き込む。


 その向こうの女子生徒は問題がわからないのか、時折「うーん」と唸っている。


 黒板の前の教師は、平坦な音程で念仏を唱えていた。


 やたらと語尾の伸びる演説は灯里の癪に触る。


 書き写すだけならまだしも、カリカリと鳴るドの音と、唸るファの音と、教師の抑揚のないレとミの間を彷徨う声が天音と灯里には不快だった。


 不協和音しかない教室の音は、二人には苦行続きだった。


 灯里の探している音も、天音の探している音も、この教室にはない。


 ただ、それだけでこの教室に求めるものはない事を意味していた。


 午前の授業も午後の授業も退屈を通り越し、苦痛だった。


 早く放課後になってしまえばいいのにと、何度も願っていた。


 そういう気持ちを持っている時ほど、遠く遠くに感じていく。


 昼休みは一時間あるが、音楽室は使えない。


 屋上の階段に腰掛け、そそくさと食事をすると、カバンから楽譜を取り出し、自分と作曲者の二人きりの世界に入り浸った。


 灯里と天音は二人で食事を摂る事はほとんどなかった。


 二人は仲の良い友人ではない。


 お互いが目指すべき音を探す、同志であり戦友であり、ライバルでもあるからだ。


 やっとの思いで放課後を迎えると、二人は別々に音楽室に向かう。


 天音には友人と呼べる人はいない。


 一人の世界に浸る事の多い天音は、普通の友人のように、自分の世界に少しでも入ってくるのを嫌うからだ。


 天音にとって自分の世界は全てだ。そこに他人の考えや邪な解釈をつけたくない。


 あるのは天音の中の絶対的な評価のみだった。


 それが、天音にとっての全てだった。


 一方、灯里には友人はいる。


 いないわけではない、という程度のいる、である。


 元々、灯里は社交的で人懐っこい性格で、他人を自分の中に入れるのもそこまで怪訝にはせずにする。


 芸術家肌の気質はあるものの、ピアノを含めなければ誰とでも仲良くなれるタイプだった。


 けれども、灯里は友人の遊びの誘いに乗った事は一度もない。


 灯里にとってピアノが一番だからだ。


 ピアノがなければ生活が成り立たない。


 それくらい、ピアノは確立した存在だった。


 灯里とは対照的に、他人と上手くコミュニケーションが取れない天音はピアノのみで自分の存在を確立する。同意しなければいけない場面で否定をする。その、ちょっとした気持ちの行き違いも嫌う天音の近くには友人と呼べる人がいない。


 それでも、天音は友人が欲しいと思っていない。


 一人でもピアノがある。


 孤独でもピアノがある。


 誰が否定しようともピアノがある。


 天音の中でもピアノは無くては生きていけない存在だった。


 教室を出ると、部活動へ向かう男子生徒、どこかに寄り道をしようと企む女生徒。


 学校には様々な声が飛び交う。


 それこそ、何百何千通りの音が飛び交っていく。


 この中に、天音の望む音があれば良いのだが、現実にそれはまた難しい話だった。


 天音の探す音は、何百何千などというレベルではなく、何億ものなかにあるたった一つの音だった。


 それは砂漠の中に埋められた宝物を、地図も目印もなく掘り当てるような果てのない作業だった。


 視聴覚室の隣の音楽室には、大抵天音の方が先に着く。


 誰にも遊びに誘われない上に、教室で歓談するような事もない。放課後になると、その足で音楽室に直行する。


 天音は誰もいない音楽室でピアノを弾く。


 しばらくすると、灯里が音楽室のドアを開けてやってくる。


 解り切っている。当たり前。当然。普通。何もかもがルーティンの一つだった。


「今日も天音ちゃんの方が先だったね」


 灯里が笑いながら言う。


「いつも通りだろう」


 天音は返す。


「そうだね。でも、今日の天音ちゃんの音は踊ってるね。何か嬉しい事でもあったの?」


「そうか? いつも通りだろう?」


「ふーん。そっかー。じゃあ残念。でもね! でもね! 天音ちゃん! 私ついに! ついに見つけたんだ!」


 灯里は興奮気味に言う。天音はそれに合わせて、再度尋ねる。


「ど、どうした? 何を見つけたんだ?」


「へへー、ついに、見つけたんだよねー。だけど、天音ちゃんにはまだ内緒!」


 天音には意味が分からないが、天音も灯里に言いたい事があった。


「まあ、私も似たような感じだから、わからないでもない」


「やっぱり、何かあるんじゃない」


「お互い様だろう」


 天音はピアノを弾きながら応える。灯里も天音も、お互いをわかり合っている。


 この空間には二人しかいない。


 感じるものも、考える事も、二人の共通認識のようなものがある。


 この日の二人には不機嫌な音はなく、自然と綻ぶような音が踊っていた。

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