9  サバナの思い出




サバナは晴れていた。

延々と続く綿花畑の片隅にアイリスが生まれた家があった。


そこはもう何年も人が住んでいないのだろう、

窓には板が当てられ、庭は荒れ放題だった。

小さなテラスには上から吊したベンチがあったが、

片側の鎖は切れ頼りなく揺れていた。


そして奴はいた。

その家の入り口の階段の所にドルリアンは座っていた。


「まさかこんな所まで追ってくるとは思わなかったな。」


ドルリアンは薄く笑いながら俺を見た。


「どうやってここまで逃げた?」

「いくらでも逃げ道はあるさ。

だがもう疲れた、俺を警察に連れて行け。」


奴は大きくため息をついた。


「あんたの娘のアイリスが来ている。話がしたいそうだ。」


ドルリアンは俯いたまま返事をしなかった。


「あんた、あの子のこと知らなかったのか。」


俺は奴の隣に座り、たばこを差し出して火を付けてやった。


「知ってるよ。俺が名前を付けたんだ。

だが赤ん坊の時しか知らなかったからびっくりしたよ。

あんなに大きくなって……。」

「あんた、死ぬ気だったんだってな。」

「ああ、ビルから飛び降りた時も死ぬつもりだった。

でもまさかアイリスがいるとは思わなかったから

助けてもらって良かった。」


かさかさと風が草を揺らす音がする。

青い空には高いところに筋雲が羽根のような模様を付けていた。


静かな農場の一軒家で、俺は黙ってドルリアンとたばこを吸っていた。


「お父さん……。」


いつの間にかアイリスが庭の片隅に立っていた。


ドルリアンは彼女に気が付くと思わず何か言おうとしたが、

思い詰めた様な彼女の様子に気圧され何も言えなかった。

しばらくじっと見つめあった後、アイリスは決心したように喋り出した。


「お父さん、お母さんの事だけど。」

「……知ってるよ。

あれほどの有名人だ、どこでもニュースでやっていたよ。」


エレ財閥の総裁の死となれば大ニュースだ。

知っていても不思議なことではない。


「知っていたの?ならどうして来てくれなかったの。」

「もう二十年近くも昔の事だ。今更私が現れても仕方がない。」

「違う!お母さんはずっと忘れていなかったわ。

死ぬ寸前にもお父さんの事、呼んでたのよ!」


彼女はそう叫ぶと激しく泣き出した。

今まで溜っていたものが一気に流れ出るような泣き方だった。


「私には分からないわ、何もかもが!

私がどうして生まれたのか、どうしてお父さんが行ってしまったのか、

お母さんが考えている事は何なのか、誰も教えてくれない!」


アイリスのその悲しみは俺にははっきりとは分からない。

だが、彼女が言っていた豊かでも足らない何かは

もしかすると思い出なのかもかもしれない。


自分が知らない頃の出来事が毎夜母を苦しめ、

その涙が自分自身を悲しませる。

その深いトラウマがきっと彼女を縛っているのだ。


その彼女の知らない出来事、

思い出を知る事が良いのか悪いのか分からない。

だが知らなければアイリスは前に進めない。


だがドルリアンはぼんやりと

たばこを吸っているとしか見えない。


俺は業を煮やして声を掛けようとした。だが、


「アイリス、お前はモーヴェインにそっくりだ。」


出し抜けに奴は喋り出した。


「そんな風に緑の中で立っていると、本当にそのままだ。」


顔を手で覆っていたアイリスはゆっくりと顔を上げた。


「私はモーヴェインとエレから逃げ出した。

だが私はその財閥の名前に負けてしまったのだ。

色々なところを逃げ回りその度に見つけられ、

そしてここに来てお前が生まれてこれからと言う時に

また財閥に見つかってしまった。」

「……お父さん。」

「家に帰ると誰もいなかった。

連れていかれたと思ったが、

その後を追いかけていく気力がなかったのだよ、私には。

もう疲れていた……。」


アイリスは手の甲で目をこすりながら俺達の方に来て階段に座った。


「アイリス、モーヴェインは苦しんで死んでいったのか。」

「ほとんど意識がなかったから分からないわ。

時々夢を見ているのかうわごとを呟くだけで、話も出来なかったの。」


ドルリアンはそっと彼女の頭に手を触れた。


「悪いことをしたな。」


ぼそりと奴は言った。


「お父さんはどこでお母さんと知り合ったの。」

「私はエレ財閥で秘書をしていた。

モーヴェインはそこの令嬢で、

まさか一介の秘書と逃げ出すだなんて誰も思わなかっただろうな。」


すっかりくたびれた様子のドルリアンだが、

かつてはそんな情熱が溢れていた事もあったのだろう。

奴の目は遠い所を見ていた。


「私はこんな男だ。それでも許してくれるか。」


彼女は身を硬くした。二人は身じろぎもしない。


「……アイリスと言う名はこのおっさんが付けたらしいぜ。」


アイリスはひどく驚いた顔で俺を見た。

この重い雰囲気に思わず口を出してしまった。

俺はある意味では部外者だ。その人間が余計な事を喋ってしまった。


だが、次の瞬間彼女の目からは涙が溢れ、

自分の父親であるドルリアンに抱きついた。


ドルリアンは驚いていた。

だが少しためらいがあった後、自分の娘を強く抱いた。


俺はこんなシーンに弱い。

立ち上がりその場を離れた。

ダウザーに連絡しなくてはいけない。

それともパルプに連絡して恩でも売るか。


だがそれでもまだ時間がある。

しばらくは俺の故郷を思い出させるこの景色を見ていよう。





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