第4章(4-1)
僕は、絆に触れた瞬間、別れを告げた日から今日この時までに過ごして来た時間が1本の線で繋がったように感じた。すべてがここへたどり着くまでの伏線だったような、こうなることがあの夜から決まっていたような、不思議な感覚だった。
「あ、鼻血」
絆は僕の手を丁寧に解くと、僕が握っていたほうとは逆の手に持っていたミラーボールのように輝くクラッチバッグからポケットティッシュを取り出した。
路上で転んだときは、一刻も早く彼女を探し出さなければと思って、体のどの部位にどんな傷を負ったのかなんて構っていられなかった。
いま思い出したけれど、僕は鼻をしたたか打ち付けていた。数分前に鼻汁だと思ってすすったものは、実は鼻血だった。今日がハロウィンだったら、そしてここが渋谷だったら、こんな見た目でもただのメイクに見えたかもしれない。
彼女が手にしたポケットティッシュに風俗広告が入っているのを見て、僕はそれをとっさに奪い取った。胸の内がぐちゃぐちゃになるのを感じた。“あの頃の彼女”で止まっている僕は、そんなものは使わないでくれと思った。
僕自身、風俗嬢やセクシー女優に助けられた夜は何度もある。けれど、これは僕のどうしようもないエゴで、特別な人にはそういった世界とは無縁なところで生きていて欲しいと願ってしまう。自分勝手な人間なのだ。
僕はそのポケットティッシュを上着のズボンのポケットに突っ込んでから、鼻血を手の甲でごしごしと拭った。絆は唇を小さく開いたまま、夜だというのに眩しそうな顔をして僕を見つめていた。
「相変わらず腕長いんだね」
例の高級クラブの前で僕は改めて絆と向き合って立った。彼女の瞳は寒さでうるんでいた。鼻の頭も赤く染まっている。
絆は口角をきゅっと持ち上げて自慢げに笑うと、両手を高く掲げて見せた。僕はそんな彼女の様子を見て、死に場所を探しているだなんてきっと大河原の勝手な勘違いだ、と思った。
「今、わたしの腕まで短かったら、橋本くんきっとわたしのこと捕まえられなかったよ」
「それは言えてる」
そう言いながら、僕は羽織っていた上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「ねえ今度、ホットケーキ食べにうちにおいでよ」
約束したようなちゃんとした大人にはなれていなかったけれど、なんとか大人にはなった僕は、少し間を置いてから頷いた。絆は短く、やったと言った。
僕たちの背景では、スーツ姿の男性たちがいかにも偉そうな中年の男性を囲って店に入っていった。絆も、「ここに連絡先あるから」と自身の写真入りの名刺と羽織っていた上着ともども僕の胸に押し付け、また店の中へ戻った。
絆が働いていた高級クラブは、僕が足しげく通っているママの店から歩いてほんの数分の距離にあった。ずっと探しているものほど意外と近くにあったりする。僕はほかにも、何か大切なものに気付かずに過ごしているのかもしれない。
*
絆とLINEでやり取りするのはなんだか新鮮だった。手紙のときの名残で、話の内容に時間差がないのが逆に不思議に思える。それに、あまりにも簡単に会う約束ができてしまうので、何か−たとえば一生のうちで量が決まっている幸福などを、使いすぎているような気分になって、もったいない気さえした。
それならばせめて、会える時間をとんでもなく大切にしようと思った。その夜も数時間だけ出勤するという絆を、僕は夕食に誘った。落ち合うためにかかる時間のロスをできるだけ減らしゆっくりと食事ができるよう、僕が歌舞伎町の店まで彼女を迎えに行くことになった。
約束の時間になっても外に出てこない彼女のことが気になり、僕は何の作戦も立てずに入店した。明らかに今夜は仕事ではなくプライベートでのことだったので、すかさず現れたボーイになんと言ったらいいのか分からなかった。
いよいよ怪訝な顔を向けられ始めたので仕方なく、かわいい系の女の子お願いします、と浅はかな注文をしてしまった。
ラグジュアリーなソファ席に腰を下ろすと、すぐに2人の女の子がやって来て簡単に自己紹介をしてくれた。注文通り、どちらもきれい系というよりは、かわいい系だった。鼻先に差し出された名刺もありがたく頂戴した。
そこへ絆がやって来て、ごめん、と言わんばかりに顔の前で勢いよく両手を合わせた。
「もうちょっとで終わるから」
そして口元がそんなふうに動いていた。僕も声には出さずに、わかった、と伝えた。
女の子たちの好きな食べ物にまつわる話をわりと真剣に聞いていると、絆からLINEが届いた。すでに着替えて外にいるとのことだった。
僕は名残惜しそうにしてくれる女の子たちに控えめに手を振って、実際には30分弱しかいなかったものの、店のシステムの関係で60分コースの料金を支払って店を出た。
きん、と冷たい外へ出ると、様々な色のネオンで染まる歩道に、絆は立っていた。男物にありそうな丈の長いダブルのチェスターコートに身を包んだ彼女は、一瞬誰だか分からなかった。
僕に気付いて近づいて来た絆は、コートの中にもハンサムなセットアップを着ていた。ブラウンのテーラードジャケットにハイウエストのタックインスラックス。私服の彼女はドレス姿とは真逆の雰囲気だった。
何はともあれ、僕は彼女があたたかそうな格好をしてくれていることに安心した。
この近くに深夜まで営業しているカフェがあることは確認済みだった。飲み屋の上の階にある純喫茶で、店へと続く階段の下に設置されたショーケースのレトロな食品サンプルが一周回ってお洒落だと密かに話題になっていた。
「こんな好き勝手に出勤して大丈夫なものなの?」
歩き出してすぐ、僕は実は気になっていたそれについて質問した。
「うん、わたし、これでもけっこう稼ぐ子だからね」
絆は唇をすぼめて自慢そうに答えた。髪をほどいた彼女は、どこか肩の力も抜けているように見えた。
「学級日誌を熱心に書いてた頃からは想像できないね」
「あれがあったから、今もきちんとお仕事こなせてるんだよ」
「ああ、そういうことか」
たとえ雰囲気は違って見えても、絆のやっていることや生き方はあの頃と変わっていないようだった。目の前のことをただまっすぐに、丁寧に、大切にしている彼女のことが、やっぱり好きだと思えた。
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最新話まで読んでいただきありがとうございます。
( & いつもあたたかく見守っていただき感謝です。)
今後の更新予定について。
月・水・金 17:00
上記の日時に固定することにいたしました。何卒。
(火・木は新たな作品を更新していく予定です。ただいま準備をしております)
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