3-3

「最近うちに入った大河原おおかわらくん。君に会いたいって言うから連れてきた」


ここに立っているはずなのに意識だけが過去に引っ張られていた僕は、編集長の言葉に我に返り規則的な呼吸を取り戻した。ふいにタバコか、線香の煙のような細く白い線が目の前を泳いでいった。それから喪服を着ている人たちがいっせいに外へ出てきた。


人の葬式で引き合わせようとするところが編集長らしいなと思いながら、同時に彼女の元彼に会うにはここ以外ふさわしい場所はないように感じた。


「橋本くんの記事は前から読んでたんすけど、この間の地下アイドルのインタビュー記事はとくに感動しました。俺も地球は青いと思います。握手してもらっていいすか」


大河原といった彼は肩に傘を引っ掛けると、長い腕を伸ばして両手を差し出してきた。僕は戸惑って一度編集長を見た。微笑で返され、逃げ場がないことを悟る。雨で湿った手を同じく雨で湿ったズボンで拭い、申し訳なく思いながら宙ぶらりんになっていたその手を握った。


すると途端に頭を残したまま前に引っ張られ、一瞬焦点が定まらなかった。視界の隅で目の前の彼が持っていたはずの傘が地面に落ちていった。耳元で彼が僕にしか聞こえないけれど、とてもはっきりとした声で囁いた。


「あいつ、いま東京で死に場所探してるよ」


変わらず角のない響きではあったものの、耳の奥にこびり付くような感覚があって気分が悪くなった。


大河原が離れていくと僕はでこぼこに敷き詰められた砂利にふらついた。彼は傘を拾い上げると、何も見ていないというように平然と立っている編集長の隣へ並んだ。新宿で見かけた彼女の姿はやはり人違いではなかったようだ。


僕たちを引き合わせる役目を終えた編集長は「またね」と手を挙げ、ゆっくりと振り返ると斎場の出口へ歩いていった。大河原もそれに続いて軽率な会釈をした。けれど、それだけで去ろうとはせず、こう続けた。


「俺は協力しようと思ってるんで」


そう言い残すとようやく、編集長の縦に長い後ろ姿を追いかけていった。死神と付き人のような構図の2人を、僕は引き続き雨に打たれたまま見送った。


横を通り過ぎていく喪服の人々のなかに、タチバナさんの奥さんを見つけた。僕の視線に気づいた奥さんと目が合ってしまい、なんとなくばつが悪くて軽く頭を下げてその場を去った。



不動あさみが恋人のホストを刺した夜。僕はといえば初めてカフェバー・PVC新宿を訪れていた。その日食べた料理もきちんと覚えている。メニュー名は特製カツカレー(フライドポテト食べ放題付き)だった。


どこらへんが特製なのかと和栗さんに聞くと、そう付けたほうが注文したくなるだろうと言われた(つまり普通のカツカレーだ)。物を書く仕事を始めて間もなかった僕は、そんな彼のテキトーな一言さえもメモに書き残していた。


その頃のPVC新宿はオープンしたてにも関わらず、連日多くの客で賑わっていた。僕は和栗さんのことを当然のように年上だと思っていたのだけれど、話の流れで同い年だと知り、自分の人生が途端に情けなくなって朝まで飲み倒したことがあった。


明け方になっていい加減話のネタが尽きると、僕はたまたま目に入った店名の由来について和栗さんに訪ねた。そのときの彼は僕と同じくべろべろに酔っていて、半分以上眠りに落ちていたと思う。


そんな状態でも和栗さんは僕の質問に対して確かに答えてくれた。けれど僕はすでに寝ていたのか他のことを考えていたのか、彼の回答をちっとも覚えていなかった。


メモにももちろん残っていない。あまり用のないことは書き残しておくくせに、肝心なことが抜け落ちていた。あれからなんとなく聞きそびれてしまって、7年経った今も僕は和栗さんの店の名前の由来を知らなかった。


「もしもし、橋本です。お店の前に着きました」


すっかり夜の顔になった歌舞伎町はテーマパークのパレードのように着飾った人たちが連なって歩いていた。相変わらず僕は黒のチャックテイラーを履いていて、新宿のコンクリートの上に頼りなく立っていた。


不動あさみは歌舞伎町にある高級クラブで働いていた。出勤前は何かと忙しいらしく、オープンする頃に僕が店に出向くことになった。


約束の時間になるまで予定のなかった僕は昼間からこの辺一帯をさまよい、彼女―古澤絆の姿を探した。昼から夜に移ろう瞬間もずっと観察していたけれど、彼女は現れなかった。


「入って」


電話越しに不動あさみの声が聞こえた。このときまでCメールでやり取りをしていたもので、声を聞いたのは初めてだった。語尾がやんわりと消える話し方の癖みたいなものが僕には心地よかった。


エロス(情欲的な愛)を持ったまりんの友達である不動あさみの感情は、古代ギリシャの8種類の愛のうちどれに当てはまるのだろう。恋人を滅多刺しにするほどの愛は、そういう思いに駆られない人間からしたら歪んでいる、偏っているといった見方になるのかもしれない。そうなるとマニア(偏執的な愛)が最も近い気がした。


僕は通話をしたまま自分が写り込んでいる重厚感のある扉を引いて店内へ入った。入店するないなや、予想通り完璧な対応をするボーイに出迎えられた。取材で来たことを伝えるより前に不動あさみがやって来てボーイに耳打ちした。彼は一礼すると、一歩後ろへ下がって道を開けてくれた。


「こっち」


彼女は背中が大きく開いた光沢のある紫色のドレスを着ていた。僕はその背中にたまに浮き出る肩甲骨を見たり、客席で盛り上がっている人たちを見たりしながら、彼女について行った。


どうぞ、と座るよう促されたソファの前で並んで立つと、高いヒールを履いている彼女の背丈は僕とあまり変わらないように感じた。


思ったよりも沈み込むソファに内心驚いている僕に、彼女はミネラルウォーターを用意してくれた。近くで見る彼女は、少し異国の血が入っているような華やかさがあった。涙袋がくっきりとしたアーモンド型の目が印象的だった。


幅の狭い、けれど厚みのある唇に見入っていると、彼女はふいにその唇を動かした。


「あたし、あの人に謝りたいの」


そう言った彼女の目には涙の気配があった。

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