第3章(3-1)

たまりんの記事が載っている雑誌の発売日。僕は食欲もなくただ呆然と新宿ゴールデン街を歩いていた。数分前まではどの店にしようかとわくわくしていたのだけれど、そんな目的も失い、仕事帰りの会社員たちの邪魔にしかなっていなかった。


今晩も例の気まぐれなママに会いに行ったものの、いつものパターンでダーリンに彼女(もしくは彼)を奪われ、空腹のままここまで流れ着いたのだ。


大小さまざまな傷を抱えた陽気な人たちが集まるゴールデン街へ足を踏み入れてすぐのこと。上着のポケットに入っていたスマホが短く震えた。機器に明るいうえに人脈が広い編集長から届いたメッセージを見て、僕は立ち止まった。


”タチバナさんが亡くなった”


その一文に続く通夜や葬儀なんかの日程はまるで頭に入ってこなかった。懐かしい人の名前だった。僕が彼を最後に見たのはもう5年も前のことだ。



タチバナさんは、僕がまだ独立していなかった頃に取材した二次元アイドルが好きな40代後半の男性だった。40代前半まで趣味という趣味がなかった彼はけっこうな貯金があったのだが、突然現れた沼にはまり込んであっという間に使い果たした。


その後も毎月の給料を大幅に上回る金額をつぎ込んでは、足りない分はどこからか借りてきて補填するということを繰り返した。


僕が「普通の生活があってこその趣味ですよ」とつまらないことを言うと、彼は「趣味が生活を支えているんだよ」と言って、歯を売ったというスカスカの口元で笑顔を作った。


彼にとってはそのときが人生で最も幸福な時間だったのかもしれない。けれど、そんな生活が長く続くはずもなく、当然のごとく彼は破産した。文字通り何も無くなってしまった彼に会いに行くと、「基地」と呼んでいた公園のベンチに座ってこう言った。


「俺の人生はサイコーだったよ」


何もかもを失った彼は、それまで餌付けしていた鳩たちにすら無視されていた。そのときの彼の口元にはもう5本くらいの歯しかなかった。僕はそれを見て幸いにも一度も虫歯になったことのない健全な歯で唇を噛み締めた。


なんだか堪らなくなって空を見上げると、人が意図的に染め上げたのかと思うくらい隅々まで赤に染まっていた。夕暮れかと勘違いしそうになったけれど、今は朝だった。


なぜ朝焼けを一緒に拝んでしまうほど早朝に落ち合ったのかはもう忘れてしまった。僕はまだ誰も呼吸していないような澄んだ冬の空気をできるだけたくさん吸い込んだ。


「タチバナさんにとって愛ってなんですか」


「全部をかけても惜しくない、むしろそうするのが正解なものだよ」


「だから歯がなくてもそんなに幸せそうなんですね」


「おい、まだあるよ」


そう言って彼が、手に持っていた入手経路不明な缶ビールを飲んだら、また1本抜けた。彼は大袈裟に笑いながら地面に落ちたその歯を拾い上げた。


それが彼との最後の記憶だ。僕は何度も彼を探して基地・・へ足を運んだけれど、彼の姿はなかった。よく通っていた競馬場にもパチンコ屋にもいなかった。ロウソクの火を吹き消したかのように、彼の気配は東京からふっと消失した。



僕はゴールデン街を離れ、カフェバー・PVC新宿が入っているビルの前へとたどり着いた。4階へ向かうエレベーターの中でもう一度メッセージを読み直した。告別式は明後日ということだった。


4階へ到着しエレベーターを降りると、すでに騒がしかった。店のアンティーク調のドアへ手をかける頃には歌声が聞こえた。ツイッターではイベントを開催するなんていう知らせはなかったと思う。


いささか今の気分とのギャップを感じつつも、控えめにドアを開けて中へ入った。リュックがつっかえてもたついた。すぐ近くのカウンター席へぬるっと腰をかけ、改めて店の真ん中で歌っている人物を見た僕は目を丸くした。


「いらっしゃい」


和栗さんが水の入ったコップを差し出してきた。そんな彼の顔はこの状況でやはりたるんでいた。


店の真ん中で歌っていたのは、オアシスとセックスが好きな地下アイドル−たまりんだった。一緒になって盛り上がっている人のなかには、おそらく彼女のことを知らない人も混ざっている。むしろ食事目的で来たのならそういう人のほうが多いはずだ。


「さすがですね、たまりん」


僕は出された水に口を付けながら言った。


「ファンじゃなくても楽しいんだなこれが」


和栗さんは背の低いグラスでウイスキーを飲んでいた。それを見て僕は、同じものを出して欲しいと頼んだ。


「憧れのアイドルが自分の店に来てくれるだけじゃなく歌って踊ってくれるなんて、もう明日なんて来なくてもいいですね」


「それなあ。って、ばかやろ」


和栗さんはせっせと働いていた店員から丸いトレーを取り上げて、僕の頭頂部を強めに叩いた。そして彼は、明日以降のたまりんの姿が拝めないだろうが、と切実な表情で語った。


即席ライブがひと区切りつくと、僕に気付いたたまりんはこちらにやって来て隣の席に座った。わたしも同じやつ、と頼んだところを見ると、20歳は越えているらしかった。


「未成年の飲酒をどう思う?」


僕はさりげなく彼女の年齢を確認するような質問をした。


「そんなに急いで飲もうとしなくてもいいんじゃない? その分大人になったら吐くほど飲めばいいし」


「同感です」


たまりんは意外と大人だった。むしろ正しい大人のふりをしているのは僕のほうで、成人するより前に飲みすぎて救急車で運ばれたことがあった。


和栗さんは僕に出したグラスよりも高級そうな赤い色のグラスにウイスキーを注ぎ、気が向いたときにしか使わないコースターを敷いてスマートに提供した。


たまりんはそれを受け取ると、和栗さんに向けてかんぱーいと言った。彼はそのチャンスを逃すまいと瞬時にグラスを持ち上げ、鼻の下を伸ばしたまま受け止めた。


「ねえ、不動ふどうあさみって知ってる?」


和栗さんが名残惜しそうに厨房へ引っ込むと、たまりんは今度は僕のグラスに自分のグラスをぶつけると同時に話しかけてきた。彼女が口にした人物のことを僕ははっきりと覚えていた。7年前に恋人のホストを滅多刺しにした当時女子高校生だった女性の名前だ。


そこまでのめりこむ愛とはどんなものなのだろうかと、その頃から気になってはいた。けれど、未成年であったこと、心神喪失だと判断されたことなどから、今日まで取材ができないままだった。


「うん、知ってるよ。その子がどうかしたの? 友達とか?」


僕はウイスキーを飲むかたわら何の気なしに口にしただけだったのだけれど、たまりんはうん、としっかり頷いた。眠気に襲われ始めていた僕は覚醒し、思わず彼女の顔を二度見した。

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