2-7

僕たちがライブハウスへ到着するのと同時にたまりんも姿を現した。ステージ用に作り込まれる前のアイドルは、本当にどこにでもいるような女の子だった。肩に付くくらいのハイトーンの髪は不自然なほどストレートで、黒いマスクで顔のほとんどが覆われている。かろうじて見える目には人工的なグレーカラーがはめ込まれていた。


「おはよ」


想像していたより2倍は低い声だった。そう言って彼女が手を振ると、腕や耳に複数個付いていた装飾品が音を立てて揺れた。和栗さんの唾を飲み込む音も聞こえた気がした。


「取材って写真も撮りますよね?」


すでに疲労した表情の天海さんはたまりんの気の抜けた挨拶を無視する。気持ちを切り替えるように息を吸うと、僕の首から下がっていた一眼レフを見つめてマネージャーらしい質問をしてきた。


「撮らせていただけると助かります」


僕が答えると理解したというふうに軽く頷いて、そういうことだから着替えてきてとたまりんに指示を出した。彼女は顔の左右で両手を低く挙げると、はーいとやる気のなさをアピールするかのように返事をした。グレーカラーの瞳に光は見えなかった。


僕は天海さんとたまりんのやり取りを終始落ち着かずに見ていた。ステージ裏の苦労を目の当たりにして思わず、すみませんと謝ってしまった。天海さんはいつものことです、と平然と答えた。


そしてもう1つ僕には気になっていることがあった。それは和栗さんが大人しすぎやしないかということだった。ステージ外のたまりんの真実を知り、人生に関わるほどの衝撃を受けてはいないかと心配だった。


天海さんがステージの様子を見てくるからと離れたタイミングで、半歩後ろに立っていた和栗さんに大丈夫かと聞いた。彼は腕をだらりと降ろし口を開けたままでいた。肩を軽く叩くとようやく我に返り、無言で数回頷いた。


「なるべく早く切り上げて、店に戻ったらたまりんのソロパートを聴きながら飲み直しましょう」


和栗さんは今度は力強く頷いた。僕1人で取材を続行しようかとも思ったが、多くの試練を乗り越えて1人のアイドルのファンを続けている和栗さんの忍耐力を信じることにした。気が狂いそうになったら聞くようにとiPodを貸しておいた。


20分ほどたった頃、すっかりアイドルに仕上がったたまりんが、通路でスタッフの邪魔になっていた僕たちの前にやって来た。溢れんばかりのフリルがあしらわれた丈の短い真っ黒なワンピースに着替え、目で人を殺せそうなほど濃いアイメイクを施していた。これから歌って踊りに行くというよりかは、戦闘へ向かうような迫力があった。


たまりんが着替えたのを確認した天海さんは、遠くから「取材はご自由に」と声を張り上げた。


「ねえ、さっき気づいたんだけど」


僕や和栗さんよりも頭1つ分くらい背の低い彼女は、天海さんに大きく手を振ってから上目遣いで僕たちを見上げてきた。


「ライブ前にすみません。何か気になりましたか?」


「その人」


そう言って、たまりんは和栗さんを指差した。彼はぴくっと肩を動かし、「はい」と返事をするも勢い余って声が裏返っていた。


「よくライブに来てくれてる人だよね」


僕はたまりんの一言になんだか非常に感動した。アイドル活動もそれを追いかけるファンもどうでもいいと思っているような子なのかと勝手に思っていた。僕でさえ感動したのだらか、和栗さんにとってはこの上ない幸福を感じたことだろう。


推しと直接触れ合うのはファンとしては禁忌を犯しているようなものだと、和栗さんはこの取材が決まってから今日まで何度もそう言っていた。けれどそう言いながらも、今日こうしてここへ来ている。それはそれは楽しみにしていたのだと思う。僕は奇跡の初対面に立ち会っていた。


「いつも応援してますっ」


にわかに興味を持ったファンのようなセリフを和栗さんは口にした。僕は知っている。和栗さんがこの日のために「たまりんに伝えたいことノート」を付けていたことを。それだけに、誰にでも言えるようなセリフしか出てこない和栗さんを見て、情けないような切ないような気持ちになった。


人は神格化した存在を前にすると秘めていた熱い想いを通り越し、結局定型文しか出てこなくなるのかもしれない。けれど、限られた時間のなかで気持ちを伝えるとなると、多くの人に使っている定型文が最も効率的に伝えられる言葉のようにも思えた。


和栗さんがもしも後悔したら、たまりんへの愛は最大限に伝わっただろうと言ってあげたい。


「うん、ありがとう」


そうして2人は握手をした。よくあるファンとアイドルのやり取りだった。その光景を見て満足していた僕は取材の件をようやく思い出した。


「ライブまでもうすぐだと思うので、手短に取材させていただいていいですか」


はーいと例によって彼女はやる気のない返事をした。僕は写真を撮らせてもらう許可を得て、全く力の入っていないピースになりかけのピースをかましたたまりんをカメラにおさめた。


宝玉さんは、と僕が言いかけると、「たまりんて呼んで、そんで敬語もやめて」と彼女は無表情で制してきた。


「たまりんは、その、ファンにも知られてる趣味があると思うんだけど」


「うん。セックスを愛してる」


「そう、それ。僕は人が何かを激しく愛するときって何を思ってそうしているんだろうっていうことを取材してて。たまりんの思いも聞かせて欲しいんだ」


録音してもいいかと付け足すと、たまりんはグレーカラーの瞳で僕をじっと見てから、いいよと言った。そして、今日までのことを振り返るように目を閉じ、しばらく考えてから口を開いた。


「ああしてるときがいちばん自然でいられるからかな。別に誰とするかはどうでもいいの。体と本能だけがあればよくて、複雑なことはひとつもなくて。地球があって、空があって、山があって、海があって、ぜんぶがわたしに繋がってる感じがする。宇宙飛行士になれなくても感じられるお手軽な宇宙みたいな。いちばん気持ちいいときね、わたし、『やっぱり地球は青いんだな』ってよく思うの」


「壮大なんだね」


「うん。ちゃんとわたしはここにいるなって、ほっとする」


隣で鼻をすする音がして見ると、和栗さんが涙目になっていた。僕はぎょっとして、iPodを聞くようにとイヤホンを耳に入れる動きをしてサインを送った。和栗さんは一瞬何のことだか分からなそうな顔をしたが、すぐに「ああ」と思い出し、取り落としそうになりながら片耳だけにイヤホンを差し込んだ。


そろそろ出番くるよ、と走り回っていたスタッフがたまりんに声をかけてきた。


「ああ、ごめん。あと1つだけ。たまりんにとって愛ってなんだと思う?」


「シンプルで自然であること、だね」


彼女は即答した。そしてステージのほうへ歩き出すと、ワンピースの裾が魚のヒレみたいにふわふわと動いた。やっぱり丈短すぎるよなあ、と僕は思った。


「あ」


ふいにたまりんが僕たちを振り返った。僕が会釈をすると、低いけれどよく通る声で言った。


「わたし、いつもステージからあなたのこと探してるよ」


それは紛れもなく和栗さんへの言葉だった。彼女はピースを作って頬にくっ付けると、人差し指と中指の第一関節をくいくいっと動かした。僕にはそれが悪魔のツノに見えた。和栗さんはやや放心状態だったけれど、笑う膝になんとか力を入れて大きく手を振った。


「やっぱり地球は青かった」


和栗さんは清々しい様子で言った。


「ですね」


間違ってあんな子に出会っていたら、僕も同じように一生をかけて応援していたかもしれない。目の前で昇天してしまいそうな和栗さんを見ていると、二次元アイドルにはまりすぎて破産し東京から忽然と姿を消した人のことを思い出した。


天海さんの計らいで、僕と和栗さんはステージの袖でたまりんの歌を聞いた。話しているときと歌っているときの声はまるで違った。アグレッシブな趣味や外見からは想像もできないような優しい声が会場を包んでいた。和栗さんはまた静かに落涙した。

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