2-5

僕は彼女から顔を背け、また空を見上げた。駐車場の街灯の明かりが届かない木々のてっぺんは空との境目が曖昧でどこまで続いているのかわからなかった。


彼女のことを拒んでおきながら、一方では体が震えるくらい求めていた。薄着なことやますます空気が冷え込んできたせいでもあるだろうけど。


「わたし、けっこう本気だよ」


彼女は僕の背中越しに覗き込んできて言った。夜遅くにホットケーキを食べたくなったのならまだしも、作りたくなったという彼女の本気がどういう類の本気なのか僕には読めなかった。


「腕が長い人にはこれからいろいろな可能性があるよ。スポーツ選手、モデル、ネタになるという意味では芸人にもなれる。そのままでいいと思うよ。僕のことなんか気にせず、楽しく生きていてよ」


僕は駐車場へ新たにやって来た大型トラックのヘッドライトを見つめながら、彼女の足枷になりそうな本音のうえに、彼女の自由を尊重するもう1つの本音をかぶせて話した。彼女には、僕が母親とどんな関係にあって、度々コミュニケーションに失敗していることは打ち明けたことがなかったけれど、薄々勘付いているようだった。


「芸人になるなら、相方は橋本くん以外いないと思うの。そうしたら、腕の長いほう腕の短いほうって呼ばれるんだよ」


冗談みたいなことを言いながら、あくまで彼女の声音は真剣だった。


僕は唇の端を噛んで適切な答えを探した。自分の人生は僕にとっては幸せに感じるけれど、他人からしたら不幸だということは、サンタクロースの正体を知るのと同時期に理解した。


そんな太陽に背を向けるような人生に彼女を巻き込みたくはなかった。彼女は陽のもとがよく似合う人だった。当たり前の日々が当たり前ではなかったと気づくような衝撃的な出来事に出会うこともなく、ただ普通に過ごしていて欲しかった。


「僕はピン芸人になりたいからごめん」


極寒の夜にそれしか思いつけない僕には、やはり芸人になるセンスはなかった。


「やっぱり橋本くんおもしろい」


僕のナンセンスに笑ってくれるのは世界中探しても彼女だけかもしれない。僕は鼻からため息を吐き、諦めるように肩の力を抜いた。


彼女のほうを見ると、当たり前のように僕を見つめていた。目の前にいる存在がどこかへ行ってしまうかもしれないなんていう可能性を微塵も考えていない様子だった。それは、これまでの彼女の人生は何一つ欠けたものがなくて素晴らしいものだったことを物語っていた。


僕は伏し目がちに彼女に顔を寄せた。真正面から見つめたまま近付くには彼女の人生はきれい過ぎた。彼女が顎を引いたところで、僕はゆっくりと口づけをした。ほんの数秒そうしてからまた離れて、彼女の首元に借りていたマフラーを返した。


「さようなら」


彼女の唇を見つめまま別れの挨拶をし、僕は駐車場を後にした。彼女の体温が隣になくなると、すぐにまた寒さで歯がガタガタと音を立て出した。


マンションの2階の1番奥の部屋に明かりが点いていないのを見て母親が出かけたことを確認し、錆びついた階段を上がった。鍵も持たずに追い出されたので閉まっていたらどうしようもないなと思ったけれど、ドアは開いていた。僕を部屋に残して出かけるときはいつも鍵を閉めて行くのに何か変だな、と思いながら部屋へ入った。


そっと靴を脱ぎ床へ上がると、玄関を入ってすぐに見渡せる居間には人の気配はなかった。寝ているのだろうかと思い、僕と母親とで寝室に使っている奥の和室へ向かった。


眠るとき以外は開け放たれている和室の引き戸は閉まっていて、そこに母親がいるのが分かった。取手に手をかけると中からふいに声がした。誰かと話しているというより、もっと一方的なつぶやきのようなものが途切れ途切れに聞こえた。


僕は引き戸をわずかに開けて中の様子をうかがった。暗がりで2つの塊が動いている。母親の声がした。「愛してる」と。僕が見ていることに気付かないまま何度も絞り出すように言った。僕はそれを聞くたび、肋骨よりも奥にある物体にひびが入って、とうとう砕けたのを感じた。


「母さん」


声の大きさに配慮していない僕の声は暗い部屋にはっきりと響いいた。途端に早口で何かを言いながら黒い塊にしか見えない母親が近づいて来た。僕は裏切られたような気持ちと恐ろしさがごちゃ混ぜになって、そうするのが自然かのようにキッチンへ行って包丁を手に持った。


追いかけてきた母親は僕が手にしているものの正体に気付いているのかいないのか、悲鳴みたいな声で喋り続けながら向かって来る。


「愛してる」


そう言った僕の声はひどく震えていて、人の言葉ではないみたいだった。母親と同じように僕も化け物みたいに訳の分からない存在に成り果てていた。


母親に手を掴まれた直後、鉄のようなにおいがして、首の付け根から痺れが広がってきた。僕はその場に倒れ込んだ。目を開けて何か言わなければいけない気がするというのに、まぶたは重く口も動かなかった。ただ僕は母親の手だけは握ったまま離さなかった。


ふと、コンビニで彼女に口づけしたときの感触を思い出した。すでに別れの挨拶をしておいたことで僕はほっとした。体中が床に沈んで溶けて行くような感覚のなかでゆっくりと目を閉じた。



あれから僕は児童養護施設に引き取られた。母親は本当にたまに手紙を送ってきた。その内容は飯がまずいだとか少ないとか多いとか、労働に関する愚痴なんかだった。ほとんどが自分のことで、僕を案ずるような言葉は1つも書かれていなかった。


僕は時々届くその手紙を読んで笑ったりした。呆れているような、あの人らしいなというような、諦めのような、嘲笑のような、わずかな愛のような、そんな気持ちからこみ上げてきた笑いだった。


施設へ入ることになり、通っていた中学から別の中学へ転校した。彼女ともあのコンビニの夜以来会うことはなかった。けれど、母親の手紙と一緒になって、差出人に心当たりのない手紙が届くことがあった。僕は暇なときや眠れない夜なんかにその差出人不明の手紙へ返事を書いた。


「わたしの友達、すごく腕が長くて生きづらそうです」

「短いよりいいじゃないですか」

「短いほうがかわいいです。短く産んで欲しかったって親に言ったこともあります」

「友達がそう言ってたんですか?」

「そうです、友達が。それより昨晩、わたしはチョコレートケーキが突然作りたくなってスーパーに行ったんです。着いたのはちょうど日付が変わったところでした。最近、近所に24時間営業のスーパーができたんですよ。この手紙も深夜3時のスーパーのイートインコーナーで書いています」

「チョコレートケーキ作るだけじゃなくて、ちゃんと食べてくださいね」

「わたしチョコレートケーキ好きじゃないんです。今度食べにきてください」

「わかりました。もう少し大人になって、ちゃんと生きられるようになったら食べに行きます」


ほんの数行しか書いていないメールのような文通は、僕が18歳になるまで続いた。文面からして彼女からの手紙で間違いないと思っていたけれど、そこには触れないまま手紙は途絶え、いつからか僕はちゃんと生きられていない大人になってしまった。

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