2-4
夜明け前。母親は今日もどこかへ出かけた。ドアが閉まる音で目が覚めた僕は布団を這い出し、まだ暗い部屋の中を手探りで壁を伝いながら歩いて玄関へ向かった。
すでに母親の姿はなかったが、ムスクのような残り香はあった。僕にとって母親のにおいは柔軟剤なんかの優しいにおいではなく、そういったむせ込みそうになるものだった。狭い玄関の横にあるキッチンの窓が青白くなってきている。
あたたかかった足は真冬の寒さが広がる床にすっかり冷え切っていた。背伸びしてようやく流しの蛇口に手が届くくらいの背丈の頃の記憶だ。僕はまだ地元の静岡にいて、風が強い日にはガタガタという音が一晩中響くような古いマンションに住んでいた。
僕と母親にとって、顔を合わせず気配だけを感じ取りながら過ごすのが最も穏やかでいられる暮らし方だった。言葉を交わそうとするとうまくいかなかった。だからだろうか、僕は母親の声をほとんど覚えていない。いや、そんな都合のいい話ではなく、あえて記憶から削除したのかもしれない。
ビデオデッキに表示されているデジタル時計はまだ朝の5時半くらいだったけれど、母親がいなくなってしまうと僕は寝る気になれず、こたつの電源を入れて足を突っ込みテレビをつけた。
番組内容はとくに何でもよかった。誰かの声が聞きたかった。隙間風があちこちから吹き込んでいて室内だというのに息が白い。僕は背中を丸めてこたつにできるだけ上半身をねじ込んだ。
そうしてキッチンの青白い窓の光景を何度も繰り返し眺めながら過ごしているうちに僕は中学へ上がった。母親とは相変わらず会話がうまくできずにいた。
僕は母親を前にすると声が極端に小さくなってそのうえ震えてしまい、思うように話せなかった。母親はそんな僕の様子にしばしば腹を立てた。頬が腫れ上がるくらい叩かれたとき、心配した中学校の担任が理由を聞いてきたことがあった。僕はそのときとくに顔色を変えることもなく言った。
「ただの虫歯です」と。
腫れ上がった頬は話す度に痛むし、食事だってまともに食べられなかったけれど、それについてはとくに感情も沸かなければ悲しいだとか辛いだとかの感想もなかった。
人に本当のことを話さないのは母親のためではなく自分のためだった。例え会話が成り立たなくとも、母親の気配を感じながら過ごす毎日がそのときの僕とってはかけがえのない幸せだった。
母親とずっと一緒にいるにはどうするべきか。そのことだけを考えて過ごした。僕の思考のほとんどを埋め尽くす彼女に出会うまでは。
「橋本くん、その傷、どうしたの?」
皆があえて触れないようにしている僕の傷について彼女は毎回突っ掛かってきた。母親と違い彼女は優しくて懐かしいにおいがした。そして僕とも違って、腕が長かった。詰襟の袖が例によって長くて学生服に着られている感が否めない僕に対して、彼女は常に7部丈くらいのところで袖が終わっていた。そのためか彼女といると片割れのような仲間のような気持ちになった。そして、昔から知っているような人、といった感覚にもなった。
*
母親にひどくやられた夜。2月のことだった。風呂上がりだった僕はパーカーと薄手のズボンを着ているだけで、裸足で外へ追い出された。かろうじて突っ掛けてきたのは靴ではなく、宅配なんかが来た時に履く壊れかけのサンダルだった。
もちろん財布なんて持っていなかったけれど、寒さを凌ぐため近くのコンビニへ向かった。駐車場にたどり着いたときには寒さで歯がガタガタ震えて止まらなかった。フードを深くかぶり直し、パーカーのポケットを中から巻き取るようにして手を包んだ。
コンビニの外には灰皿の隣でタバコを吸っている男が1人いた。栃木ナンバーの大型トラックの横を通って縁石をまたぐと、袋を手に提げた彼女が店内から出てきたところに遭遇した。
彼女は通学時に着ているネイビーのコートとタータンチェックのマフラーを巻いていた。僕には気付かず白い息を吐きながら空を見上げて少しの間立ち止まった。それを見た僕も同じように空を見た。いくつか星はあったけれど月の気配は雲の裏にもなかった。
「橋本くん」
月を探していた僕を見つけた彼女が駆け寄ってくる。僕はフードを後ろへ払った。
「よくわかったね、僕だって」
「はっきりとはわからなかったけど、たぶんそうかなって」
「僕じゃなくて変なヤツだったらどうしたの?」
「そうしたら中に戻って牛乳をもう1個買う」
彼女は牛乳を買ったらしい。こんな時間に1人で買い物なんて危ないよと言うと、彼女は丸い瞳をさらに丸くしてこう答えた。
「突然ホットケーキが作りたくなって。今日じゃないとダメだったの。そういう気分のときあるでしょ?」
僕は困ってこめかみを掻いてから「ないかな」と言った。
それからいくつかどうでもいいことを話したり、1つか2つお互いのアイデンティティに関わる大切な話をしたりもした。途中、彼女が僕の薄着に気付いてコートを脱ごうとするので断ると、これだけは巻いてとマフラーを貸してくれた。
いま思いつく限りのことを話し終えるとふいに沈黙が降りた。すると彼女は、それまで珍しく突っ掛かって来ずにいた僕の口元の傷に指を添えてきた。
「わたしの腕をちょっとだけ切って橋本くんにくっ付けたら、お互いちょうどいい長さになるのにね」
コンビニの人工的な光を受け入れた彼女の瞳は、どこか遠くの国の夜明け前の湖のように静かに輝いていた。
そのとき僕には、普段見えることのない愛が確かに目に見えた。それは欲しいと手を伸ばさなくてもそこにあった。何かを差し出さなくても、言葉を交わさなくてもただそこに。
けれど、僕の信じてきた愛はそんなに容易く手に入るものではなかった。混乱した僕は彼女の手を振り払った。
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