2-3

「あれだよ」


和栗さんは咳払いをした。


「お星さまになった」


そして人差し指で天井を差すと、オアシスの曲にのせて言った。3つ分の席を隔てて座っている2人組の女子は変わらずに何かの話題で盛り上がっている。僕は、そうですかとだけ言ってハイボールを飲んだ。


彼女の考えが僕と同じでも違っていても結果としてはそうなってしまった。アルコールのうまさはその日がどんな1日だったか、どんな話をしながら食事をしたかで決まると思う。今夜はただ頭がぼうっとしただけで、うまいとは言えなかった。


「和栗さんはたまみんのどこが好きなんですか?」


僕はとくに質問自体に意味のないことを聞いた。勝手に人の心の内を想像して勝手に残念に思ったことを知られまいとして、ふっと生まれてしまった間を何かしらで埋めたかった。質問の内容は何でもよかった。あえて何も言わないでいる人の優しさが苦手だったこともあった。


「そうだなあ」と彼は腕組みをした。そして口の髭を骨ばった手でいじり、突然思いついたといった顔をした。


「健康的なところと、セックスが趣味なところがいいね」


あまりにも張り切って言うものだから、空の食器を運んできた店員が振り返った。僕は目を見開いたまま、そりゃあ大変だと言った。オアシスとセックスが好きな地下アイドルってどんな女の子なのだろう。僕は取材対象として興味を持った。


和栗さんは今度は声をひそめて、うちに男の店員しかいない理由が分かるかと聞いてきた。僕が一拍置いても答えられずにいると、「こういう話が堂々とできるからだよ」と意外とつぶらな瞳を細めて八重歯を見せながら笑った。


彼は僕より年上に見えるときもあれば、年下に見えることもあるのだった。僕はジェンダーレスな時代に際どい発言は控えたほうがいいですよ、とそのときは年下に見えた彼に注意した。



その朝、スマートフォンの目覚ましは鳴らなかった。新しい型に変えてからこれで3度目のことだ。これと言って用事のない1日だったので支障はないけれど、翌朝になってみないと鳴るのか鳴らないのかが分からないのは困る。


僕はベッドに仰向けになったまま起き抜けのはっきりしない頭をどうにか働かせて時計のアプリの設定を確認した。とくに問題はないように見えたので対処のしようがなく、さらに困ってしまった。機器類に明るいクライアント先の編集長にでも今度聞いてみようかと思った。


僕は体を起こしてベッドから降りると、階段を数段上がったところにあるキッチンへ向かった。ベッドがあるリビングの位置はほぼ半地下だが、バルコニーに接している壁一面が窓なので意外と明るかった。おまけに平均2500mm前後の天井高がこの部屋は3700mmもあって、ワンルームのわりには非常に広々としていた。


お湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れた。空腹を覚えて冷蔵庫の扉を開けると物色するまでもなくがらんとしていて、どこかでもらったミネラルウォーターが2本だけ入っていた。


諦めて扉を閉め、ふうと息を吐いた。それからもう一度半地下へ降りて部屋着からパーカー(これもまた袖が長い)とスラックスに着替え、窓際の机の上にあったノートPCをリュックに詰め込んだ。食事のついでに、ここ数日本屋へ行きたいと思いながら行けていなかったので、僕はとりあえず新宿へ出かけることにした。



和栗さんの店は夜だけでなく昼も営業していた。けれど、残念ながら今日は定休日だった。メニュー内容と同様に気分で休むので、ツイッターのチェックは欠かせない。京王線内で投稿を目にした僕は新宿へ到着すると、目的地を変更して駅から少し離れたところにある中華屋を目指した。


行列こそないものの店内は常に満席という摩訶不思議な店だった。例によってこの日のこの時間帯もその現象が起きていた。僕が入店したタイミングで1組の客が会計を済ませて出て行った。テーブルが片付くのをほんの少しの時間だけ待ってから、席へ案内された。


メニューを見てまず目についたカニチャーハンと小籠包を頼んで、おしぼりで手を拭いて一息ついた。料理を待っているあいだ、僕は興味のある本のタイトルをとりあえず打ち込んでおいたメモアプリを見直していた。


そうこうしているうちに運ばれてきた小籠包は熱々で、食べるのに思ったよりも時間がかかってしまった。これは勝手なイメージだけれど、カフェの食事というのはドリアなんか以外はわりとぬるいように思う。それに比べて中華料理は辛味のせいか熱い。舌先が痛むくらい熱い。腕が短いうえに猫舌な僕には食べづらいジャンルだということを思い知った。


僕が会計を済ませて店を出ようとするとき、また新たな客が入店してきた。


胃のあたりまで熱い感覚を抱えたまま、大型書店へやって来た。いざ並んでいる大量の本を目の前にするとメモに記されていない本にも興味が湧いてしまい、なかなか目的のタイトルへたどり着かなかった。


そんなことをしながら10階はあるフロアを上がったり下がったりしていると、あっという間に日が傾いてきた。マンガやライトノベルの新作をひと通りチェックしてからスタンダールの小説を立ち読みしている頃、窓から赤く燃えるような陽が射していることに気が付いた。母親と手を繋いで歩いた買い物からの帰り道を思い出した。


夕日は僕が顔を背けても頬に張り付いたまま離れない。この時間帯、僕は不安定になることがあった。幼かった僕は愛さないなくてもいい人を愛してしまって、体よりも心よりも深い部分がひどく傷ついていた。僕はそんな思考を振り払うように深呼吸をし、結局何も購入せずに本屋を後にした。


なぜだかよくないことが起こる予感がした。


駅のほうへ向かっている途中、横断報道で信号待ちをしていると、ある華やかな女性に目が止まった。この辺りではとくに珍しくもない水商売をしているような雰囲気の人だった。彼女の隣にはスーツを着た中年の男がいて、2人は腕を組んで楽しそうに雑談をしながら歌舞伎町方面へ歩いていた。


僕は彼女のことを人違いだと思いたかった。彼女はそんなにチープに笑ったりしない人だった。僕の彼女にまつわる記憶は非常に正確だ。なぜなら彼女は僕が昔死ぬほど好きだった人で、当時の悩みの大半を占めていた母親との問題よりも優先して、彼女の言動の1つ1つの意味を探ったりしていたからだ。


僕は信号が青になっても横断報道の手前で立ち尽くしたまま2人の後ろ姿を見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る