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毎日気分でメニューを決める店なので(前日に余った食材を使って作る料理も多い)、一度食べ損ねた料理は二度と食べられないと思ったほうがいい。アメリカの学者が計算した運命の人に出会える確率が0.0000034%だとすると、偏食の僕にとって好ましいメニューに出会える確率はそれ以下だった。


本日のメニューは牛ハラミのステーキカレー(フライドポテト食べ放題付き)。僕はメニュー名と併せて投稿された写真を食い入るように見つめた。そして、僕の大好物ですとリプライを送った。するとすぐに「0.0000001。この料理を食べられる確率」と返信が来たので、これは急がねばと思って背負っていたリュックの肩ベルトを両手でしっかりと握って走った。走りながら僕はこの日初めてママの気まぐれに感謝した。


雑居ビルの4階にあるその店は「カフェバー・PVC新宿」といった。ビルの出入り口はこじんまりとしたマンションのエントランスみたいで、到底カフェへ繋がるとは思えなかった。おまけに路上にある立て看板も色褪せているので、初めて来る人なんかは素通りしてしまうことも多い。現に僕がそうだった。今ではすっかり慣れて、音楽を聞いていても仕事でミスをしても寝不足でも出入り口を見落とすことはなかった。


ビルの奥には大人2人がやっと乗れるくらいの狭いエレベーターが設置されていた。息を整えて壁の呼びボタンを押そうとするも、手の半分以上が袖に隠れていてうまく触れなかった。僕の身長は177cmで服のサイズとしてはLサイズがぴったりなのだけれど、身長に対して腕が短いようでだいたいの服を手が隠れたまま着ていた。


袖をたくし上げて呼びボタンを押し直すと、エレベーターは思ったよりも早くやって来た。4階に着くまで僕は何も考えずにただ上の方を見ていた。ところどころで年季の入ったエレベーターは小刻みに軋んだ。そのうちに動きが止まって扉が開いた。


無事フロアへ降りると、数歩も歩かないうちに左手にまた色あせた立て看板が置いてあった。その向こうには雑居ビルにまったく馴染んでいないアンティーク調のドアがあって、それが店への唯一の出入り口だった。僕はドアにはめ込まれたガラスを覗き込んだ。店内は時間が時間なだけになかなか混み合っていた。


ドアに吊された鐘を鳴らして入店すると、おしぼりや水をトレーに乗せた店員が目の前を通り過ぎながら、いらっしゃいませと声をかけてくれた。お好きな席へどうぞとも言われたので、僕は出入り口から1番近いカウンター席を選んだ。


店内にはオアシスの『Talk Tonight』が流れていた。天井からいくつかぶら下がっている裸電球と不規則に置かれた間接照明の明かりだけで人の顔はおおよそ見えなかった。下手をすると夜中の新宿の街よりも暗かった。


僕は待ちきれなくなって3人の店員に目を配りながら手を上げた。この席から見る限り、働いているのは男ばかりだった。そのうちの1人が来たので、メニューも見ずにハラミのステーキカレー(フライドポテト食べ放題付き)を頼んだ。けれど、それはすでに終わってしまったと言われた。頭が真っ白になってとりあえずハイボールで、と頼み直した。


すかさず店員が運んできてくれたハイボールのグラスを傾け、時々わずかに揺れる裸電球を僕は呆然と眺めていた。そうしているうちに1杯目を飲み干してしまうと、新鮮な油のにおいが湧き上がるフライドポテトの山が届いた。


視線を下げるとカウンター越しに立っていたオーナー兼マスターと目が合った。唇の山がはっきりとした口と細い顎に薄く髭を生やし、くせ毛かパーマでうねった長い前髪は目にかかっていた。僕はそれを見るといつもより頻回に瞬きをしたくなった。


「それなら死ぬほど出せるよ。もう1杯どう」


彼はやや投げやりな話し方をする人だけれど、こう見えて心底優しいし、無類の地下アイドル好きでもあった。そして、これもとてもそうには見えないのだけど、僕と同じ年齢だった。僕はもう1杯いただきますと言って、溶け残った氷だけのグラスを向かいへ押した。


和栗わぐりさん、オアシス好きでしたっけ?」と僕は音楽の出所を探るように天井を見渡して言った。


「ああ、これね。これはさ、たまみんが好きって言ってたからかけてんの」


ハイボールを慣れた手つきで作りながら彼は言った。僕が出会ったときから彼はたまみんという地下アイドルを推していた。


「最近、この辺りは物騒で、たまみんのことが心配で夜も眠れないよ」


「わりと昔から物騒な気がしてます」


僕は地方出身だから新宿の歴史についてそこまで深く知りはしなかったけれど、少なくとも20歳で上京したときにはすでに怪しい空気が流れていた。


「いや、そうなんだけど、積極的に物騒というか、死にたがりと殺したがりの動きが活発というか。とても子どもを1人でなんて外出させられないよ。子ども、いないけど」


「一瞬、びっくりしました。子どもいるのかと」


「いないいない」


コースター付きで出された2杯目のハイボールに僕は口をつけた。ついでにポテトも数本つまんだ。


「ツイッターで死にたいとかつぶやいてない?」


「今のところは」


「よかった。そういう投稿をした女の子が接触してきた男と実際に会って事件になったんだよ」


僕はそう言われて、数日前に渋谷の大型ビジョンでそれに似た見出しのニュースが流れていたことを思い出した。取材の約束をしていた人とちょうど落ち合ったところで、どんな内容なのかまでは見ていなかった。


「その子、生きているんですか?」


死にたがっていた女の子の生存を問うのはなんだかおかしいことのようだった。誰かの生死に関わる話を目にしたり耳にしたりしたとき、僕は必ず生きていて欲しいと願った。


その感情がどこから来るのかといえば、優しさや同情なんかのほかに、生きているか死んでいるかで人を別けたときに僕がただ生きている人間だからだと思う。もし死んだら死んでいるのかどうかを先に気にするようになるという単純なことだった。


そして、自分が存在しないあの世もしくはこの世は、僕にとっては未知で恐ろしいものだった。そんな遠いのか近いのかも分からない場所へ旅立ってしまった人の行く末もまた未知だった。その女の子は男と対面したとき、僕と同じようなことを思ったのではないかと勝手に想像した。だとしたら彼女は生きているかもしれない。

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