第3話

「先輩。私困ってることがあって」


 夕暮れがどうのと後輩が言い出した日から二日後。放課後部室でいつものように本を読んでいると、扉を開けて早々彼女はそう言った。

 俺は視線を本に向けたまま応える。


「今日はやけに早いな」

「なんですかその反応は。そんなこと言ってる場合じゃないんですよ」

「とりあえずそこ座ったら?」

「先輩が立ってください」

「いやなんで?」


 後輩は俺の反応が気に入らないのか、そのまま数歩進んで俺の目の前で立ち止まる。紺色のスカートが目に映り、そのまま視線を上げると不満そうな彼女と目が合った。


「これは今朝のことです」

「そのまま話すつもりか」

「私の家はお父さんもお母さんも朝早くから仕事に行くので、朝ごはんは妹と二人で食べてます」

「…………」


 そのまま話し始める後輩。俺は椅子を少し引いて立ち上がり、その辺の椅子を彼女のそばに置いてやる。ようやく座ってくれた。なんなんだこいつは。


「いつもは妹と別々に、好きなものを自分たちで用意して食べるんですが、今日の私は違いました」

「待て。それは今必要な話なんだろうな?」

「黙って聞きやがれです」

「何様なんだこの後輩」

「えっへん。さて。今日の私はすっきりと目が覚めたので、仕方ないなあ妹の分も目玉焼きを作ってやろうかと思ったわけです」

「たかが目玉焼きでなんて偉そうなんだ……すみません何も言ってませんいいお姉ちゃんだなあ」


 後輩が時々見せる迫力を感じる微笑に、俺は思わず謝罪と賛辞を贈る。


「軽快にたまごを取り出した私は、フライパンを火にかけようとして……事件は起こりました。はい先輩。何が起こったでしょーか」


 マイクを向けるような仕草とともに、首を可愛らしく傾げる後輩。あざとい。しかしこのタイミングで質問をしている余裕があるなら、そんなに困ってないだろおまえと言いたくなる。


 少し考える。

 この後輩は見た目通りおっちょこちょいである。ならば、導き出される答えは。


「先輩。今失礼なこと考えてませんか?」

「んんっ。何を馬鹿なことを。答えは簡単だ。たまごを床に落としたとかそんなところだろう」

「ぶぶー。ジュースおごりー」

「さて、そろそろ日も暮れてきたな。帰るか」

「なに立ち上がって誤魔化そうとしてるんですか。何も暮れてません。早く座ってください」


 ちくしょう。このパターンで俺がジュースを奢らずに済んだことは過去一度もないのだ。


「で、何があったんだよ」

「気になりますか?」


 えへへ〜、と声が聞こえてきそうなほどにニヤニヤとする後輩。ここで言い返すと長引くのは分かっている。


「ああ気になる気になる。早く言えよ」

「仕方ないなぁ先輩は。実はですね、コンロの火が着かなかったのです!」

「は?」

「だからですね。コンロのつまみを回しても、ちっちっちっちっ言うだけで着かないんですよ。時々着くんですけど、すぐ消えちゃって」

「ガスの元栓閉めてたとかは?」

「確かめましたよ。開いてましたし、すぐ消えますけど一瞬着くこともあったので」


 ああなるほど。それなら――。


「だから私の朝ごはんは卵かけご飯になりまして。どうやったら火が着くのか分からないので、先輩一回見てもらえな」

「――それ、電池切れてるだけだろ」


 訪れる静寂。

 なぜか固まった後輩は、少ししてから動き出す。


「…………デン、チ?」

「なんでカタコトなんだよ。電池だよ電池。コンロの火を着ける時は電気使うからな。電池が切れてるから着かないんだろ、多分」

「………………」


 後輩は黙ったまま席から立ち上がると、机の上に置いていた鞄を肩に掛ける。


「てか、そんなのスマホで調べたらすぐ出るだろ? なんでわざわざ卵かけごはんに……」


 後輩は踵を返して俺に背を向けると、何も言わずに部室の入り口へ向かう。


「困ったことって、まさかそれか?」

「……先輩」

「ん?」


 背中越しに声が飛ぶ。


「知ってましたから」

「なにを」

「電池のことです」

「おい。なら、なんでこんな」

「た、試したんですよ。先輩は私が困っているのにかこつけて、可愛い後輩の家に上がり込もうとするんじゃないかと」

「いやどんなピンポイントな試し方!?」

「ま、まあ合格ですね。不本意ではあれど、同じ部活の先輩がそんないやらしい人だと私も不安で眠れませんから。安心しましたよ」


 どんなイメージなんだ俺。

 相変わらずの後輩からの評価の低さに悲しさを覚えつつも、困りごとが大したことなくて少し安堵する。


「じゃ、私帰るんで。忙しいんで」

「……おお。お疲れ。また明日……じゃないな。また、気が向いた時に」

「もう二度と来ませんから!」


 そう吐き捨てて振り返った後輩は、夕陽に照らされて朱く染まっていて。

 扉から走って出ていった彼女を見送った俺は、違和感を感じて窓の方へと振り返る。


「まだ何も、暮れてないんだったよな?」


 ……相当、お怒りだったのだろうか。

 それが何になのかは、きっと俺には分からない。


 

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