第2話
「夕暮れ時にどうしようもなく寂しくなる?」
俺は後輩の言葉を繰り返す。
目の前に座る彼女は居住まいを正すと、なぜか嬉しそうにこくりと頷いた。
「そうです。日が暮れる前の、あの朱色と藍色が混じったみたいな空や街の色とか、少し冷たくなった風とか。通り過ぎる車の音までどこか寂しげに聞こえたり……しませんか?」
この後輩は毎回、こんなことを俺に聞いてくるのだ。好きか嫌いかみたいな単純なものから、今日みたいなものまで様々だ。
そして満足するまでは帰らないのだから、タチが悪い。俺は少し考えてから口を開く。
「たしか、日の光を浴びると出るホルモンが無かったか? 精神的に安定する、みたいな。夕方は日が落ちてくるから、それに伴って……」
「セロトニンですか? 先輩。私はそういう話がしたいわけじゃないんですよ」
「知ってるのかよ……。まさか、答えも知ってるんじゃないだろうな」
「あの感情をただのホルモンの働きだと言われて『はいそうですか』なんて、私はそんなの納得いきませんっ」
ふいっと顔を背ける後輩。
……毎回これである。どうやら彼女は正しい答えが知りたいわけではなく、彼女が納得する答えが欲しいのだと最近ようやく気づいた。
「そもそも俺は夕暮れ時に寂しいと思ったことはない」
「ほんと寂しい人ですね」
「なんで俺が哀れな感じになってんだよ」
「先輩みたいな死んだ魚の目をした魚でも、少しくらいは思うところあるでしょう」
「おい。それだとただの死んだ魚だろうが。どんな言い間違い?」
「夕暮れ時の帰り道、昔のことを思い出したり、好きな音楽を聴いたり、好きな人にフラれたことがフラッシュバックした切ないような寂しいような、そんな気持ちですよ」
何事もなかったかのようにスルーされた。
まあいい。もうこの扱いには慣れている。
「なんとなく、分かるな」
俺は適当に頷いておく。
「嘘つかないでください」
「すみませんでした」
「はあ、これだから先輩は」
後輩はやれやれと言わんばかりに肩を落とす。
さよさよと揺れたカーテンと共に、彼女の少し伸びた髪の毛も揺れる。
「……でもあれだな。夏の終わりとか、そんな感じするよな」
「! わかります! お祭りの日の夜とか、夏休み最後の日とかですよね!」
「おお……えらい食いつくな」
席から乗り出してきた彼女にそう言うと、後輩は少しだけ恥ずかしそうに咳払いをした。
「んっ。……まあ、先輩にも人の感情があったんだなと目頭が熱くなっただけです」
「余計なお世話だ」
「でもそんな感じです。寂しいような、切ないような。いい線いってるんじゃないですかね」
なぜか偉そうな後輩を横目に、俺は考えてみる。夕暮れ、夏の終わり、お祭りの後。
……なるほど。大体見えてきた。
「ひとつ、確認したいんだが」
壁掛け時計に視線を送ってから、俺は後輩にそう言った。彼女はというと、何故だかわからないがそわそわとスカートの端を整え始めた。
「なにか、分かったんですか?」
期待の入り混じったような、少しだけやわらかい口調。俺は続ける。
「夕暮れ時と言ったな。例えばその帰り道は、ひとりなのか?」
「ひとりです」
よし。今日の答えはどうやら出た。
俺はそれを示すように椅子を後輩の方へと向ける。
「切ないと感じるのも、寂しいと感じるのも夕暮れ時のせいじゃない。ひとりだから、寂しいんだ。夏の終わりもそう、祭りの後もそう。誰かといないひとりの時だから、誰かといた時を思い出してそう感じるんだ」
言い終えて、少しばかりの静寂。
後輩はというと、何を考えているのかよく分からない顔で俺を見つめたあと。
「なるほど。そこまで言うなら試してみましょうか。先輩、今日は一緒に帰ってもらえますか? 試してみたいので」
「……ん? ちょっと待て。なんで俺が」
「先輩が言い出したことです。なんですか? 自信がないんですか? 私がひとりで帰るから寂しい感情になると言うのなら、不本意ながら私が先輩と帰ればそう感じないはずです。まあ、先輩と帰るということにある種の悲しさは感じるかもしれませんが」
後輩は早口でそう言うと文庫本を鞄の中に放り込み、チャックを閉めて肩にかける。なんて速さだ。
「よし。帰りましょうか先輩」
そして彼女は俺の制服を掴む。
俺も慌てて自らの鞄を引っ掴む。
「ま、待て。そもそも帰り道逆……」
ずんずん進んでいく小さな後輩の背中と、揺れる黒髪を見ながら若干の抵抗をしてみるが、彼女の足は止まらず制服の袖は掴まれたまま。どんな表情を浮かべているのかさえわからない。
「まったく、ほんと先輩は仕方ないですね。私と帰りたいからってこんなこと言い出したんじゃないでしょうね。まったく」
夕暮れ時。ほんのりと朱に染まる廊下。
俺のため息と共にこちらを振り返った後輩は、呆れたような、けれどどうしてか、嬉しそうな表情を浮かべていた。
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