第6話
○それぞれの日々
「まだ痛むのか」
「ええ、少し」
何しろ、殺傷の深い傷と崖から飛び降りた際にできた擦り傷が全身にあり、足の打撲は重症で、左腕が折れていたのだから、尋常ではない痛みが続いていた。
「この洞窟の中ではろくな薬がない。最低限持ち込んでいるだけだから仕方がないことだが」
と言いながら、援助を頼む伝書鳩を飛ばしてくれた。
時は遡り、2年近く前のことだ。
その地には、断崖の岩場に自然にできた横穴をさらに掘って住居にし、その辺りの岩に仏像を彫りながら、修行をしている僧侶がいた。
その僧侶が、岩場の松の木の上に落ちて引っかかっていたミーナを見つけて助けたのだ。
断崖から落ちるが、途中木々の間を滑り,迫り出していた松の大木の枝に引っかかっていたのだ。
谷底まで落ちると、勿論、命はない。
大怪我はしたが、松の木に引っかかったのは幸運としか言いようがない。まさに奇跡だ。
毒気の抜けたつるりとした細身の僧侶だった。
名前は、山法師と名乗った。
ミーナは、家族で乗っていた馬車が襲われ逃げて追い詰められ飛び降りたと話し、名前はとっさにサラと母の名前を名乗り、身分も何も話さなかった。
だが、山法師は、詳しい話などには興味がないようで、ゆっくり休みなさいと、洞窟に寝かせ、できる限りの治療を施してくれた。
修行のため、ほぼ放置状態だったが、その方がありがたかった。
ただ食料の問題などがあり、しばらくして、山法師は、伝書鳩を飛ばした。
「もうすぐ、里から使いの者たちがくるので、一緒に降りることができればよいのだが」
と話す。
定期的に、食糧や衣類、水など必要な物を運んでくるらしい。
しかし、到底無理な話だった。
一度目、二度目と、まだ降りることは無理だと諦めた。
山法師が修行に明け暮れる間、ノロノロと食事の支度をして、あとは、ずっと本を読み、養生をしているうちに、1年近くが過ぎ、夏が終わり、谷間は,秋の景色に変わり始めていた。
その頃、ミーナの娘たち、イリアとユーリは、母親の悲劇的な死を受け止め、互いをいたわり合いながら乗り越えようとしていた。
しかし、実際は、まだ母は生きているに違いないという思いを捨ててはいなかった。
その頃、イリアには、すでに結婚の話が舞い込むようになっていた。
まだ少女だというのに、まわりが騒がしかった。
それというのも、イリアは10歳を過ぎた頃から、体臭が変化し始めて、12歳になる頃には、甘く濃厚な芳香、まるで百合の花のような体臭に変わっていたのだ。
近寄るだけで、芳しい香りに包まれると噂が広がり、そこまで強い香りではないのだが、まさに、花に吸い寄せられる蜜蜂のように、男たちが妄想を膨らませイリアに近づいてきた。
一眼見たいと待ち伏せされたり、外出時に連れ去られそうになったり、部屋を覗き見する、さらには部屋にこっそり侵入して隠れているなど、乱暴な不届きな男たちに困らされていた。
元々、内向的な性格で、部屋で静かに本を読み、刺繍などして,あまり外には出ない娘だから、さらに部屋に篭りっきりになり、人と会うのを嫌がるようになっていた。
母親代わりにユーリの面倒をみることが心の支えだったが、それもままならず、不自由な生活に気落ちしていた。
姉が大好きで姉思いのユーリは、イリアに付き添い、部屋でともに本を読んで過ごしたり、刺繍を習うようになる。
剣術の練習、馬で駆け回るお転婆ぶりそのままに、動と静、外と内の使い分けで、成長する姿にまわりを驚かせる。
女らしさことは、まったくしていなかったので、当初、針を持つ手もおぼつかない様子だったが、それでも忍耐力はあるようで、少しずつ上達していった。
早速、父タジルに、刺繍の匂い袋を渡し
「1番に作ったものはお父さまに差しあげますわ」
とニコニコしていた。
「これはなんだ、何を刺繍したのかな」
と聞かれ
「それは見たまま、馬です。馬の顔に見えるはず」
きっぱり言い切っていたが、馬なのか、牛なのか、なんとも言えない模様だったため、タジルの笑いを誘う。
ミーナは、ずっと苦しい夢を見てうなされていた。
やがて、体が癒えるにつれて、懐かしい風景が夢に現れ、タスクルが恋しくなる。
タジルに会いたい、カシムに、イリアに、ユーリはどうしているのかと涙にくれる日もあった。
山法師には、感謝してもしきれない恩を受けたと、何か手助けをしたかったが、今は何もできない。
とにかく早く体を治すのが、先だった。
そうしているうちに、ミーナが助けられて、すでに.一年が経とうとしていた。
「もうすぐ、また使いの者が来る。今度来るのは私の遠縁の信頼がおける男だから、一緒に降りなさい」
山法師に言われ、ミーナも今度こそ降りようと決めた。
左腕は折れていたため、今もまだ動かすことが不自由だが、足は大丈夫だ。
全身に擦り傷などがあったが、山法師の傷薬で不思議にきれいに治っていた。
治るまで、時間はかかったけれど、今はしっかりと動けることが嬉しかった。
山法師も、これなら降りれるだろうと話して、荷物というほどのものはないが仕分けて,ミーナの物を荷造りしてくれた。
何から何まで面倒を見てもらった。
だが、余計なことは言わず、聞かず、ただひたすらに仏像を彫り修行をする日々の僧侶だった。
まさに、ストイックな修行僧だと、ミーナは手を合わせる。
だが、降りてからのことはまだ何も考えていなかった。
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