第8話 優しい婚約者①
次の日急な先触れを我が家に寄越し、アイザック様がお見舞いにやってきた。
その知らせを聞いた時、私は彼に会いたくない気持ちの方が強い反面、それでも直接会って正直な気持ちを聞きたいと言う気持ちになった。
ただ自分の気持ちに折り合いが付いていない今の状態でお会いして、以前のような何も知らなかった時のように接する事が出来るのか不安が募った。
「……ノーラ、今日はゆっくり支度をしてくれるかしら」
「かしこまりました」
鏡台の前の椅子に腰掛け、ノーラにそうお願いする。
何も出来ない自分が出来る精一杯の抵抗だった。
そしてぼんやりと鏡に映る自分を眺めながら自問自答を繰り返す。
(これからアイザック様とお会いして、何を話すと言うの?)
(エミリーが手紙でしたように彼女との関係を仄めかされるのかしら)
あの二人の事を考え始めるとどんどん思考が暗くなっていく私は、これ以上気持ちが沈む事が耐えられなくて、まだ手元にある例の本へ無理矢理思考を逸らした。
アイザック様の先触れが届いたのが本を返すより早かった為、まだ手元にある例の本。
漆黒の背表紙に金色の文字で書かれた誰にも言えない秘密の存在。
もしあの本が本物ならば、もしかしたら私の願いが叶うかもしれない。
そしたら私は——、
「お嬢様、お支度整いましたよ」
「っ!?あ、ノーラ……素敵に仕上げてくれてありがとう」
「お嬢様は元が良いのでやりがいがあります!!」
こうして明るいノーラと話していると、この暗い思考もこれ以上踏み込んではいけないあの本の事も、全部忘れられそうな気がするのだ。彼女の笑顔や気遣いにはもう何度も助けられている。
「ノーラ、ありがとう」
「お嬢様は世界で一番美しい、私の自慢のお嬢様ですよ!!」
「……そんな事を言ってくれるのは貴女だけよ」
「それは光栄な事です!私でよければ何度でもお嬢様に伝えます。ですから……」
「ノーラ?」
「い、いえ、何でもありません。さぁ、お嬢様。アイザック様がお待ちですよ」
「え、ええ。そうしましょう」
そのまま慌ただしく自室を後にしてしまった私は、この時一体ノーラが何を言いかけたのか聞く事が出来なかった。
長い廊下をゆっくりと進み、アイザック様の待つ応接室へ一歩一歩着実に向かって行く。
まるで私を更に追い詰めていく地獄の時間のようにも感じた。
正直自分でも時間稼ぎをしている自覚はあった。もしかしたら支度が遅いから、いつまでも応接室に来ないからと諦めて帰って欲しいと希望を抱いても、やはり現実はそんなに甘くない。
私のささやかな抵抗はあっという間に終わりを迎え目の前には彼が待つ応接室の扉がある。
普段は感じる事のない苦しい程の威圧感を放っていた。
(いっそ後ろを振り返って逃げ出せたら良いのに……)
そんな事を考えつつも私は深呼吸をしてから控えていた侍女に合図をし、応接室の扉を開けてもらった。
中で待っていたアイザック様はこちらに気付き、わざわざ席を立ってこちらに向かって笑顔で歩み寄って来てくれた。
「アリア!もう歩いても平気なのかい?」
そう言いながら私に手を差し出しソファーにエスコートするアイザック様は、やっぱりいつもと変わらない誠実な婚約者そのものだった。
間隔を開けて一緒のソファーに座り事実だが、言い訳でもある言葉を彼に向けて紡いでいく。
「アイザック様、連絡もせず申し訳ありませんでした。体調がなかなか回復せず、手紙の返事が出せませんでした」
「いいんだ。気にしないでくれアリア。私の方こそ突然押しかけてしまってすまない。アリアからの連絡がないなんてこんな事初めてで不安になって動揺してしまった」
「本当に申し訳ありませんでした。あの日アイザック様と会えるのをとても楽しみにしていたので、前日上手く眠れなかたのが祟ったみたいで……」
「ははっ、アリアは本当に昔からそういう少し抜けた所があって可愛らしいよね。ただ私だってアリアに負けないくらいとても楽しみにしていたんだよ」
そう言って彼は優しい笑顔で私の顔を覗き込む。
(アイザック様はこんなにも演技がお上手だったのね。これじゃまるで本気で私を愛してるみたいだわ)
(この演技を信じていた私は、きっと側から見て相当滑稽だったでしょうね)
長年婚約者として共に歩んで来たのにそんな事実にも気が付かず、ずっと愛されていると思っていた。
私には愛してもいない女に優しい態度を取り続けるアイザック様が、まるで知らない人の様に思えた。
そんな彼だから私は聞きたい事が一つあった。
「アイザック様。私お聞きしたい事があるのです」
「なんだい?」
「……あの日、急なお仕事で対応に追われていたと仰っていましたが誰かとお会いしていたのですか?」
「あ、えっとそれは」
「あの日応接室へ向かう途中窓から庭園の方へ向かうアイザック様らしき人物を目撃したのです。もしかしてアイザック様だったのではないかとずっと気になっていたものですから」
「あ、ああそうだったんだね」
落ち着かなそうに目線を泳がせているアイザックに私は本当の事を話してほしいと願った。
あの日エミリーといた事実だけでもいい。ただ彼の口から直接知りたかった。
だけど現実はどこまでも残酷だった。
「……ア、アリアの気にする相手ではないんだよ。それより‼︎体調が良くなったらあの日をやり直す訳じゃないけれど、一緒にどこかに出掛けないか?」
(——エミリーとの事は私には関係ないと仰るのね)
「……ええ是非」
自分でも驚く程冷たい声で返事をしてしまった事に驚いたけれど、それよりももう何もかもが限界だった。
突然笑顔のまま黙り込んだ私を見て、何故か彼はオロオロとし始めた。
「アリア、顔色が悪い。やはりまだ本調子じゃないんだろう?それなのに突然押しかけて相手をさせてしまい本当にすまないっ」
「アイザック様お気になさらないでください。でもやはり今日はもう部屋に戻りたいと思います。来てくださりありがとうございました」
「アリア、今日は会えて良かったよ。体調が良くなったら必ず連絡して。待ってるから」
「はい、約束します」
そしてアイザック様は侍女に、私を部屋まで戻すように指示を出していた。
挨拶をし応接室の扉の前まで来た私は、最後にアイザック様の方を振り返った。
「……ねぇ、アイザック様」
「どうしたのアリア」
「私、初めてお会いした時からずっとアイザック様を愛しています」
これは紛れもない私の本心。
「私も初めて会った時からアリアを愛してるよ。でも、突然どうしたの?」
「……いえ、何も。ただ、アイザック様に私の想いを伝えたくなってしまって」
そう言って微笑むとアイザック様は安心したような、でも少しだけ悲しそうな表情で微笑んだ。
「早く良くなってアリア。君が元気でないと私は不安なんだ」
「……そうですね……早く元気な私に戻れるようにしますね」
そう言って微笑んだ私は、綺麗に笑えていたかしら?
最後に貴方の瞳に映る私は、いつも通りの私だった?
アイザック様、本当にありがとうございました。
愛してもいない私に、愛してると返してくれて。
ただ婚約者という座に居座っているだけの私に、優しくしてくれて。
8歳で婚約してから10年間、本当に幸せでした。
貴方を愛しているからこそ、本当に愛する人と幸せになってほしい。
これは紛れもない私の本心。
だから私は、アイザック様を解放してあげようと思う。
邪魔な私さえいなければ、アイザック様は愛するエミリーと幸せになれるのだから。
今日彼と話して、私がこれから取るべき行動を頭の中で速やかに組み立てていく。
誰も幸せじゃないこの状態から、みんなが幸せになれる道を。
アイザック様達の為だけじゃない。私自身の幸せの為に……。
私は禁忌に手を出す事にした。
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