黄金の雨

第2話

 雲ひとつ無い青空なのを良いことに、太陽光が幅を利かせている昼下がり。

 直射日光を浴びながら必死に走っている少年がいる。


 少年の名前は紫藤 浄。彼の通う御社高校ではその名を知らぬものは居ない有名人である。その存在は教師たちも一目置くほどだ。しかし殆んどの生徒が彼の容姿を知らない。そんな彼の容姿は、どこにでも居るどこかぼんやりとした印象を周囲に与える少年である。いや、実際彼は見かけどおりよく考え事をしている。そして今も考え事に熱中するあまり、時間を忘れバスに乗り遅れそうになっているのである。


 彼の運が良かったのか、バス停にはまだバスが停車しており、乗客を青空の住宅街へとはきだしている。


 バスが下車する人を全て降ろした時に、浄がバスの中に居なければ置いて行かれるだろう。


 そう解っている浄は、さらにアスファルトの大地を強く蹴り、己を加速させる。


「間に合え!」


 気合と共に、バスへと飛び乗る。それは御社高校の女生徒が最後にバスを降りるのと同時だった。


 冷房が効いている車内は、ひんやりと心地よく、外の暑さとは隔絶されているかのようだった。

 

 はぁ。はぁと肩で息を整えながら、浄は辺りを見渡し座れる席を探す。

 乗客の数は少なくまばらという印象を受ける。

 が、どの席も人が居たり荷物が置かれていたりで座れる余裕はないようだ。


「あの、もしよろしければ私の隣、空いていますよ」


 聖歌隊のような澄んだ声音で浄に声をかけてきたのは、肩まで伸びた綺麗な黒髪の女性だった。彼女は控えめなデザインの白いワンピースを着ている。一言で言えば清楚な美人だった。俗世とは全く無縁の世界で生活してきた箱入りのお嬢様の様だ。それゆえに着飾らない純白のワンピースが良く似合っている。年齢は二十歳位だろうか。


 微笑を浮かべながら女性は、浄を見つめている。


「え? あ……じゃ、じゃあ失礼します」

 どきりとした。綺麗な女性に声を掛けられえたこともだが、その女性の隣に座れるのだから。こんな美味しい展開で胸が高鳴らない男子は異常者か、はたまたギャルゲーの主人公くらいだろう。とどうでもいいことを頭の片隅で考えているが、無駄なことを考えないと変に意識しちゃって、ダメになりそうだ。


 カチコチに緊張しながら浄は、女性の隣へと腰を下ろす。


 女性に対して免疫が無い浄は、失敗したかもと思いつつ表情を強張らせ我なら前のみを凝視している。


「女子高生の次は、男子高校生かぁ。それよりも君、凄い汗だね。もしかしてここまで走ってきたの?」


 女性の言う通り、浄の額からは滝の如く汗が流れ落ちている。しかし、この汗の大半は女性が物凄く近くに居るという認識から来る冷や汗だったりする。


「……そうです。ちょっと考え事をしていたら遅れてしまって」


 前半部分は、独白に近いが後半部分は明らかに浄に向けられた言葉だった。そのため、一瞬誰に声が掛けられたか解らなかった浄は、答えを返すのが遅れたことを悔やみながらも返答する。


 しかし、浄が遅れたのは考え事をしていたからではない。家を出たときに靴ヒモが切れたり、道路が工事中だったりとまるで浄がバスに乗ることを神様が妨害しているかのような出来事があったのだ。


「元気なんだね」

「ええ、まあ」


 何と答えていいのか解らない浄は、歯切れ悪く当たり障りの無い返事を返す。


「その制服は、御社高校のだよね?」


 女性は、浄が着ている胸に校章が刺繍されている白いワイシャツと深い灰色をしたスラックスを見ながら言った。


「ええ、そうです」

「実はね。ついさっきまでは、そこに御社高校のかわいい女の子が座っていたのよ」


 いいながら、浄が座っている座席を指差してくる。

「そうなんですか? 誰だろ。友達かな」

 そうは言っても、女子の友達なんて居ないんだけどな……


 決して知り合いが居ないわけではない。親友が異常にモテまくるせいで、女子の知り合いなら多い。


「ツインテールで、中学生みたいな女の子だったわ。もしかして、あなたの彼女?」

「え? ええっち、違いますよ。まったくもって違います」


 なぜ、こんなにも慌てなければならないんだ? 

 浄の冷静な部分がそう告げているが、女性の一言でこの冷静な部分も陥落する。


「なら、私が貰っちゃおうかな。き・み・を」

 最後の三文字を強調するような一言一言区切られた甘美なささやき。


「えっ?」


 さらりと放たれた言葉。それは思考力を奪うには十分すぎるほどの威力を秘めていた。 世の男子をその気にさせる言の葉。


 それによって、浄も世の男子の例に漏れずに、誤解し混乱する。

 いや、浄は高速で思考していく。

 ここは、大人っぽく言ったほうがいいのだろうか。それとも子供ぽっく言った方が印象は良くないだろうか。

 一体どんな返事をすれば好印象を与えるかを自らの語彙を総動員して考えていく。

 そんな、必死に答えを探しながら右往左往する浄をやさしく見つめている女性の口から出た言葉は、


「うふふっ。初心なのね」


 悪戯が成功した子供の様に、どこか楽しげな印象を与える言葉が浄に投げかけられる。

 実際、女性の顔には弟にちょっかいを出した姉のような笑顔が浮かんでいる。


「あっ」


 その一言で、浄の高速思考は一気にフリーズする。

 からかわれたのだ。


「やっぱり…………少し期待したんですよ?」

 少し拗ねた様に言う浄。

「ごめんなさい。つい、出来心なの。許して、ね?」


 冗談ぽく謝ってくる女性。子猫のような愛らしい笑顔。こんな笑顔をされたら、どんなことをされてもつい許したくなる。そんな魅力的な笑顔がそこにはあった。それを見た浄は勿論、

「ううっ。解りましたよ。まったく、少年心を玩ぶなんて」


 浄も軽口をいうように、さも気にしていません的な口調で言いいあっさりと許した。


「ありがと。男の子と話すのなんて、久々だったから、ついからかって見たくなったの。もしかして、気分を悪くした?」


 今度は、真剣な面持ちで謝罪してくる女性。


「いえ、いいですよ。まんまと引っかかった俺にも責任がありますから」

「やさしいのね――」

 女性の声を遮り、止まるバス停の名前が呼ばれる。


「じゃあ、私はここで降りるから。楽しいひと時をありがとう。じゃあね」


 そういうと、女性はハンドバッグを下げてバスを降りていった。

 その姿を惚けたように見つめる浄。

 その姿を見るものは、誰もがしまりのない顔だと思うだろう。


 綺麗な人だったなー。

 汗が引いてきたのかバスの冷房が寒すぎる。そう感じた浄だが、上着など持っていないので、バスが目的地に着くまで寒さの一人我慢大会を決行する羽目になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る