第45話 暁-2

そんな風に新婚夫婦らしい朝の時間を過ごしたせいで、未弥はシャワーだけ浴びて朝陽の車に乗り込んで遅刻ギリギリに図書館に駆け込む羽目になった。


思いつく限りの文句をぶつけた未弥に、朝陽はごめんごめんと眦を緩めて謝罪を口にして、未弥がシャワーを浴びている間に用意していたロールパンサンドの朝ご飯を差し出してくれたので、ひとまず溜飲は下がったけれど。


あの朝ご飯がなかったらきっと今日の夜は口を聞かなかったに違いない。


読み終えた返却用の本を入れた手提げカバンにスマホだけ放り込んで助手席に滑り込んだ未弥に、朝陽は忘れ物ない?と尋ねた。


最重要アイテムであるスマホと、次に磯上が読みたいと待機している返却本が手元にある事で安心しきった未弥は、ない、と答えたのだ。


どうしてあの時ちゃんと手元を確かめなかったのか。




長年通い慣れているリナリアだし、幸い図書館は目と鼻の先なので、一旦戻って磯上にランチ代を借りてすぐに戻ってくればいい。


「ちょっと同僚に借りて・・・」


きます、と言おうとした未弥の隣から若い女性の声が上がった。



「あの、私が二人分お支払いします」


「え!?あ・・・・・・」


声の方を振り向けば、朝陽との結婚前にリナリアで西園寺が連れて来ていた若い女性が立っていた。


名前までは分からないが、何度か図書館に来ているのを見たこともある利用者の一人だ。


「いえ!とんでもないです!そんなことさせられません、お気持ちだけ・・・」


朝陽の上司でもある西園寺の縁者にご飯を奢って貰うなんて申し訳なさすぎる。


けれど、彼女は迷うことなく二人分のランチ代をトレーに乗せてしまった。


「遠山さんの、奥様ですよね?」


「あ、は、はい。遠山未弥です」


こうして改めて自分から新しい苗字を名乗るのは初めての事だった。


出来ればもっと別の形で名乗りたかったところだ。


自分のうっかりさを改めて呪う。


照れたように自己紹介をした未弥を見つめて、彼女が大人びた笑顔を浮かべた。


「西園寺からよく話を聞いています。私、瑞嶋瑠璃と申します。ご結婚おめでとうございます」


「あ、ありがとうございますっっ・・・」


「いつかご挨拶出来ればと思っていたんです。以前こちらでお見かけしたんですけど結局今日になってしまいました」


育ちの良さを感じさせる丁寧な言葉遣いと綺麗な立ち姿は、彼女の整った面差しを数倍魅力的に見せていた。


「いえ・・・そんな、こちらこそ・・・遠山がいつもお世話になっております」


朝陽の妻として挨拶するのもこれが初めてのことだ。


ここに来て初めて人妻感が出て来た。


結婚してから今日まで一度も朝陽の会社の人間に出会ったことは無いし、結婚した事情が事情なだけに、これまでは二人で向き合うことにばかり気を取られていた。


けれど、名実ともに完全な夫婦になったのだから、これからはこういう機会はもっと増えて行くのだ。


自分よりも明らかに若い瑠璃の半分でもいいから、落ち着いた雰囲気を漂わせたいものだ。


「ここでお会いしたのも何かのご縁ですから、結婚祝いということで、ご馳走させてくださいね。お会計お願いします」


「え、でも・・・」


「未弥ちゃん、いいじゃない、瑠璃ちゃんがせっかくこう言ってくれてるんだから」


レジを打ち始めた夫に、そうよそうよと妻が頷く。


「じゃあ・・・有難くご馳走になります・・・ありがとうございます・・・あの・・・・・・もし、次にここでお会いしたら、その時は私にご馳走させてくださいね」


何とも奇妙なきっかけではあるが、お互い自己紹介も済んだし無関係の人間ではないので、この次の約束をしたっておかしくはないはずだ。


これっきりにはさせまいと切り出した未弥に瞠目をした瑠璃が、目を伏せて小さく頷く。


「・・・はい」


「私も、お祝いさせていただきたいです」


瑠璃の左手の薬指に輝く大粒のダイヤモンドリングを視線で示せば、パッと彼女が頬を赤らめた。


大人びた雰囲気が一変して、年相応の可愛らしい女性の一面が見えて、なんだか嬉しくなる。


西園寺の婚約者というのは、おそらく彼女のことなのだろう。


ジュエリーに詳しくない未弥の目から見ても、数百万円は下らないと予想がつく婚約指輪を贈れる男なんて早々いない。


瑠璃と二人でリナリアを出て、階段を降りたところで別れる。


アートギャラリーに不定期で出勤している言った瑠璃に、図書館で司書をしていると告げればお見かけしたことがありますと穏やかな返事が返って来た。


不思議と、近いうちにまた彼女に会う予感がしていた。

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