第17話 朝明け-2

この辺りの住民御用達の昔ながらの個人経営の小さなスーパーは、高齢者や、大上家のような二人暮らし世帯にはちょうど良い買い物スポットだ。


食べ盛りの子供がいる家庭は、車で数キロ先の大型スーパーに向かうのが普通だが、三十路過ぎの娘と五十路過ぎの母親の二人では、大した量を食べないので徒歩圏内のウエノマートがちょうどよい。


「なんでそんなびっくりすんのよ・・・朝陽も行くでしょう、ウエノマート。根岸さん独り暮らしなんだって。不摂生は良くないから美味しいお惣菜お勧めしちゃったよ。ほら、最近あんたも好きなきんぴらレンコンね」


「まさか家とか教えてないだろうな」


「あのね・・・住所なんか言うわけないでしょ・・・言わなくても図書館まで徒歩通勤なことも知ってたわよ。ここのスタッフ大抵が自転車か徒歩だし」


「・・・・・・・・・あのな未弥」


「根岸さんの話聞いてたら、朝陽の食生活も心配になったわ。こっち戻ってきたらちょくちょくご飯食べにおいでね?」


未弥よりも独り暮らしが長い朝陽のほうが家事も料理もこなせることは分かっているのだが、それでも言わずにはおられない。


これくらいのお節介ならば許されるだろう。


こっちに戻って来ると聞いた時には、てっきり今度こそ結婚するのだと思ったのに、未弥の予想は見事に外れて、朝陽はいまも独身のままだ。


数年前に結婚するかも、と言われた時には自分のことのように喜んだのに、その後音沙汰がないなと思っていたら、いつの間にか彼女と別れていて、それ以降恋バナが彼の口から語られたことは一度もない。


三十路過ぎ且つこのまま独身主義を貫くつもりの自分はともかく、知識豊富な将来を期待されるエンジニアで、西園寺グループからヘッドハンティングまで受けた朝陽は見た目も決して悪くない。


高校三年間の間に一気に伸びた身長は未弥より10センチ以上大きいし、メタルフレームのスクエア眼鏡は知的な印象を与えて切れ長の目のインパクトを和らげている。


根っからの文系の未弥にとっては物足りないばかりの理系特有の端的な物言いも、愛想のなさも、恋愛相手としては不十分でも結婚相手としては申し分無いはずだ。


「一人百面相すんなよ」


ぐるぐると思考を巡らせて届いたきり手つかずのランチを前にした朝陽が、溜息交じりに割り箸を割って差し出してくれる。


頭の中であれこれ考えることが癖になってからは、よくこうして他の事が疎かになるのだ。


「あ、割ってくれたんだ、ありがと」


「口の中血みどろにされたくないから」


「あはは・・・たしかにね」


ぼんやりしたまま適当に割った割り箸を口の中に突っ込んだ途端、尖った木の先が頬裏に突き刺さって流血沙汰になったのは何年前のことだっただろうか。


あれ以来、朝陽は率先して未弥の割り箸を割ってくれるようになった。


「あの根岸さんって、三田化学の人だって言ってただろ?」


「うん、そう。最初に質問された時に微生物学の本探してたから」


「ちょっと来る回数多すぎないか?」


「図書館好きなんだよ。あんたと一緒だね。いっつも二階の人がいない書架の前で陣取ってるもんね、朝陽は」


「・・・・・・俺のは仕事で」


「公民館時代とは比べ物にならないくらい人が来るもんね、いまの図書館。ほんと西園寺グループ様々よ。朝陽もこっちに戻って来られたし」


素直な気持ちを口にすれば、朝陽がひょいと眉を持ち上げた。


「・・・・・・俺がこっち戻って来てそんな嬉しいか」


「そりゃあ嬉しいよ。おばあちゃんがきっと一番喜んでるね。これからはもっとマメにお墓参り行きなよ」


「・・・・・・分かってるよ。コロッケ割っとけよ、熱いから」


白味噌の味噌汁を啜る未弥の手元を指さして、朝陽が指摘する。


猫舌の未弥への的確な指示を彼が忘れた事は一度もなかった。


カサブランカが常連になってから、未弥に運ばれてくる味噌汁の蓋は毎回ついていない。


ふうふう息を吹きかけていつまでも味噌汁を飲めないでいる未弥を気の毒に思った朝陽が店主夫妻にお願いしたからだ。


「そうする」


「そういやおばさん元気?最近そっち行ってないけど」


「あんた戻って来るたび図書館と研究所ラボにしか行ってないもんね。お母さん寂しがってたよ」


「もうちょっと落ち着いたら時間作るから」


「うんそうして。あ、でもそうなったらお母さんがいなくなってるかも」


「え?なんで」


「人工島のがん治療センターの横に新しく西園寺の老人ホーム出来るのよ」


「ああ、知ってる」


「あそこの立ち上げスタッフの主任になったから、しばらく向こう泊まり込み」


未弥の母親は、朝陽の祖母が長く利用していた西園寺が経営する老人ホームのケアマネジャーだった。


その縁で、朝陽も子供の頃から母親によく懐いていた。


小学校の授業が終わると教室に朝陽を迎えに行って、一緒に老人ホームに向かうのが当時の日課だったのだ。


経験豊富で自身の両親の介護経験もある逞しい女性である。


勤続年数も伸びて、後進も十分育ったと自負している母親にとって、久しぶりの新しい挑戦は胸を躍らせるものだろう。


というわけで、当分は独り暮らし満喫の予定の未弥である。


けれど、目の前の男はどういうわけか渋面を深くして尋ねて来た。


「・・・泊まり込みって・・・え、それいつから?」


「んーと、たぶん来月?」


「・・・・・・・・・来月」


何かを考えるように朝陽が小さく復唱した。

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