第2話 早暁(そうぎょう)-2

これからは今までのようにしょっちゅう顔を合わせることも無くなるし、今までのように一方的に色んな心配をしてやることもできない。


だから最後くらいちゃんと笑顔で見送ってあげたいと思っていたのに、この調子だとやっぱりいつもの憎まれ口で別れることになりそうだ。


「ちゃんと愛想よくして、しっかりご飯食べて、勉強は・・・・・・心配してないけど・・・友達いっぱい作ってね」


昔から頭の良かった彼の成績は地元の中学でもトップクラスで、県外の全寮制の進学校に奨学金で越境入学が決まったと言われた時には、驚いたけれど納得もした。


教師たちが将来どんな優秀な人間になるんだろうと期待を持たずにいられないくらい、頭脳明晰だったからだ。


どんなに頑張っても中の中を彷徨っている未弥には雲の上の頭の持ち主は、年齢よりは大人びていて、ちょっと年上風を吹かせればすぐにやり込められるけれど、やっぱり15歳の少年だったのだ。


未弥の言葉に一瞬だけ視線を爪先に落とした彼の寂しそうな横顔に、一気に胸が締め付けられた。


名残を惜しむように薄曇りの空から小粒の雨が降り出して、よけいしんみりした気分になる。


「それもう何十回も聞いた」


「それでも言っときたいの。心配してるんだよ」


「・・・・・・それももう聞き飽きた」


この数か月の間に目まぐるしく変化した彼の身辺は、思春期真っただ中の男の子の心に静かだけれど深い影を落としていた。


そして、そのことを彼はとうとう今日まで一度も口にすることは無かった。


ほんのちょっとでいいから、頼ってくれればいいのに。


泣き言言ってくれればいいのに。


どうせ向こう半年は会えそうにないのだから、いっそのこと昔みたいにぎゅうぎゅう抱きしめてしまおうか。


たぶん、それが一番手っ取り早い。


迷う未弥の耳に、新幹線の到着アナウンスが聞こえて来る。


「忘れ物は無いよ。あ、でも、もしばあちゃんの荷物が後から出て来たら保管しといてっておばさんに言っといて。こっち戻った時取りに寄るから」


一瞬だけ見えた心細げな表情を隠して、彼が足元のスポーツバッグを肩から下げる。


「車で来たんだろ?通勤ラッシュまでに家帰ってよ。変な抜け道も通んないで」


「あのね、あれ以来迷ってません、カーナビに従って生きてます」


「・・・・・・うん、そうして」


ひとつ息を吐いた彼が未弥に向き直る。


引っ越しやら入寮準備やらでここ数週間会えていなかったのだが、ほんの少しだけ彼の目線が高くなっていた。


それが、彼が未来に向かって歩みを進めている証に思えて途方もなく嬉しい。


ようやく少しだけ笑う事が出来た。


「ねえ、朝陽あさひ・・・・・・もしさぁ、すんごいしんどくて、すんごい辛くなったら、こっちに帰っておいでよ。あんた一人くらいなら喜んで面倒見るよ、お母さんもそう言ってる」


「・・・・・・・・・」


彼が独りになった時、母親と最初に相談したことだ。


子供の頃からの朝陽をよく知る母親は、そうねぇと笑って、朝陽くんがいいよって言ったらねと請け負ってくれて、けれどその提案は口にして三秒ですげなく却下されてしまった。


今更なことを再び口にした未弥に、朝陽が僅かに苦い顔になった。


どうしてか、この話をするとき、彼はいつもこういう表情になる。


「独りじゃないからね。私がいるよ。私が家族になってあげる」


朝陽の心を深くて暗い場所に置き去りにすることだけはしたくなくて、必死に思いを届けたくて、選んだ言葉だった。


それは、自分が差し出せる最善で最良のはずだった。


「・・・・・・・・・・・・未弥、お前それどのレベルで言ってんの?」


心底呆れたような苛立った声が耳に届いた直後、新幹線がホームに滑り込んできた。


あっさりとこちらに背を向けた朝陽は、迷うことなく乗車口へ歩き出して、一度もこちらを振り向かないまま新幹線は動き始めた。




”ありがとう”とか”嬉しいよ”が返って来なかったとしても、もっとべつの温かいなにかがあると思っていたのに。


新幹線が見えなくなったホームの端でひとりポツンと佇んで、水色の柔らかい空を見上げながら、自分が泣いていることに気づいた。


あれは優しさなんかじゃなかった。


彼にとっては思いやりでもなんでもなくて、ただの偽善で同情だったのだ。


家族を持っている未弥から、朝陽に向けた施し。


だから、彼は怒った。


考えなしで自分勝手で自己満足なだけの励ましと慰め。


いま朝陽が一番欲しくなかったものを、よりによってこの町から出る直前に、届けてしまったのだ。






あの日から未弥は、言葉を発する前に熟考するようになった。


本当に届けて良い言葉かを慎重に確かめる。


大量の文字に押しつぶされそうな生活を選んだことも、その一つだ。


本は人を拒まないし、弾かない。


無機質な文字の羅列に潜む温度や色や匂い。


誰かと向き合って心を探り合うよりも、未弥にとってはずっと穏やかで幸せな時間を過ごすことが出来る。


だから、この生活が永遠に続くことこそが一番の望みで、それ以外の何かなんて必要では無かった。






そしていま、十数年前の自分の無責任な発言を死ぬほど後悔している。




「昔言ってくれたあの台詞ってまだ有効?だったら俺と結婚してよ」




すっかり高くなった目線をこちらに下ろしながら、大人になった朝陽は未弥の心の傷をぐさりと抉った。


鮮烈に、真っすぐに。



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