第53話 雨上がり
時計の針が21時を回って、母親からまだしばらく戻れないわ、という電話が入った。
架かって来る前から分かっていたことだ。
悪天候の夜は、万一に備えてありとあらゆる準備を行って、入居者さんの様子を見て回ってみんなが落ち着いていることを確かめてからでないと、母親は帰路につこうとはしない。
それは、未弥がちゃんと家を守ってくれていると信じているからで、その信頼は未弥を大人にした。
そして何より今夜は、朝陽が側に居る。
中2にもなって今更お泊りの必要は無い、と何度も言い返した朝陽を、万一停電になると心配だから、お願いよ、と言って説き伏せたのは未弥の母親だった。
地域を守る巡査が近所の川の様子を確かめて来て、増水が心配だと零したことでいよいよ老人ホームに緊張が走って、すぐに未弥と朝陽は自宅に戻るように言われた。
朝陽の着替えは一式家に置いてあったし、泊りに来るのは久しぶりだけれど、初めてというわけではない。
それなのに、お風呂上がりの朝陽は、これまでのように未弥の側に来て漫画を読むことはせずに、警報が表示されるバラエティー番組を離れた場所からぼんやりと眺めている。
微妙な距離が気になって、漫画読めば?と尋ねても、朝陽は要らねえよ、といつもの素っ気ない返事をして、一度もこちらを振り向こうとしない。
気まずいままでおやすみを言いたくないし、万一停電になったら困るから、今日は居間のテーブルを移動させてここで二人で眠るように言われているので、尚更仲良くしておきたい。
難しい年ごろだということはわかるけれど、もうちょっと柔軟になれないものかと畳の上を膝歩きでにじり寄る。
「好きなテレビ見て良いから、なに怒ってんのか知らないけど、機嫌直しなさいよ」
「おおおおお怒ってねぇわ!なんでこっち来んだよ!?」
「なんでって・・・二人しかいないんだから、仲良くしなきゃでしょ。ほら、布団敷くから手伝ってよ」
未弥の言葉に逃げるように立ち上がった朝陽は耳まで真っ赤になっていた。
・・・・・・・・・・
今ならわかる。
あの夜の彼はひたすらに動揺していたのだと。
それが今では朝陽が率先して未弥を守る立場に居るのだから、月日の流れは恐ろしいものだ。
まさか出会ってから20年経っても一緒にいるなんて思わなかったけれど、だからこそこういう時側に居てくれないのは、実はちょっと寂しい。
ここ数か月どれくらい朝陽とべったりくっついて過ごしていたのか嫌というほど思い知らされた。
この心細さは、安心を得た反動だ。
心が緩んで満たされてしまったから、それが翳ると過敏に反応して怯えてしまうのだ。
そんな細やかな神経は持ち合わせていないはずなのに。
虚無に飲み込まれてはいけない。
小さい頃に読んだ果てしない物語を思い出す。
思考が現実を引き寄せるから、心は常に明るく前向きでいなくてはならないのだ。
それは、大人も子供も関係ない。
弱さを知ることは、強さを知ることでもある。
これも経験の一つだと、下がりかけた気分を引っ張り上げる。
二口三口と齧ったサンドイッチも何だか味気なくて、途中でローテーブルに戻してしまう。
布団を取りに戻るのすら億劫で、カウチソファーの上に置かれているふかふかのダマスクス柄のブランケットを引き寄せた。
婚約指輪は要らないと言った未弥に、それなら実用品をと朝陽が贈ってくれたものだ。
未弥が肌触り重視だとよく知る彼が選んだそれは、有名ブランドの人気商品だった。
大きな箱が自分宛てに届けられた時には驚いたものだ。
素知らぬ顔で届いた荷物を開封する妻を見守っていた朝陽は、嬉しい悲鳴を上げてブランケットに頬ずりする未弥を楽しげに眺めていた。
膝を抱えて丸くなってクッションを枕にブランケットを頭まで被って横になる。
もうすでにドラマは見ていなかったけれど、再び無音の世界に置き去りにされるのが怖くてそのままにしておいた。
眠れるならそうした方がいいのだろうが、目を閉じるとより一層雨音と雷鳴が近くに聞こえて来る。
瞼を下ろしては持ち上げて、微睡んでは目を覚ましてを数回繰り返しているうちに、薄曇りだった空はすっかり暗くなっていた。
結婚前も結婚後も、スマホを必要としない生活に慣れていた未弥は、朝陽との電話の後、ダイニングテーブルの上にそれを置いたままだった。
二人の間には現在物凄い距離が発生しているのだから、唯一の連絡手段であるスマホは肌身離さず持っていなくてはならないのに。
呼ばなくても会える距離に慣れ過ぎた弊害がこんなところで出てしまっている。
仕方なく重たい身体を起こそうとした矢先、カーテン越しにくっきりと稲光が映し出されて、その数十秒後に大きな雷鳴が響いた。
被っていたブランケットをさらにぎゅっと引き寄せて目を閉じて身体を縮こませる。
その後も暫くゴロゴロと重たい雷鳴が続いて、なかなかソファーの上から動く事が出来ない。
部屋の明かりが万一チカチカし始めたらどうしよう。
恐怖心に駆られ始めた未弥の耳に、次の瞬間別の音が聞こえて来た。
ガチャガチャと玄関先で物音がする。
誰かがドアを開けようとしているのだ。
朝陽はいま東京だし、母親は仕事中。
こんな悪天候の夜に遠山家を尋ねて来る知り合いに心当たりなんてない。
強盗、殺人、拉致誘拐。
恐ろしい単語が次々頭の中に浮かんでくる。
どうしてスマホを持っておかなかったのかと涙目になって後悔する未弥耳に、ドアが開けられる音が聞こえて来た。
恐怖で足がすくんで逃げることなんて出来ない。
この大雨と雷雨では悲鳴を上げたって誰も助けになんか来てくれない。
もう終わりだと顔を強張らせて、ブランケットに潜り込んだ次の瞬間、名前を呼ばれた。
「未弥!」
「・・・・・・・・・・・・!?」
朝陽の声が聞こえた気がしたが、幻聴かもしれないとそのまま固まっていると、足音が近づいてきて、やがてカウチソファーの前で止まった。
「未弥」
ブランケットを頭からずらして出て来た未弥の顔を確かめた朝陽が、相好を崩した。
「なんで泣いてんだよ」
「だ・・・ぇ・・・な・・・なに・・・夢・・・?」
どうしてここに朝陽が居るのか分からずにぐるぐると視界を巡らせる。
「スマホやっぱ見てなかったな。既読になんないから寝てるのかと思ったんだけど・・・・・・帰って来て正解だった」
伸びて来た手のひらが頬を包み込んで、親指が目尻の涙を拭っていく。
「会議のあと新幹線で京都まで戻ったんだよ。そっからタクシー」
「・・・・・・・・・たっか」
この大雨のなか京都からここまで戻って来ようと思ったら軽く数万円は掛かるはずだ。
「でも、戻って来て良かっただろ?雷酷くなってるし」
ゴロゴロと唸る雷鳴から庇うように未弥の両耳を手のひらで包み込んだ朝陽がしゃがんで視線を合わせて来る。
「・・・・・・心細かった?」
そんなこと一目瞭然だろうに目を細める朝陽が憎らしくて、愛しくて堪らない。
悔し紛れに彼の肩に縋りつく。
「・・・・・・・・・雷、聴こえなくして」
勢い任せに言葉を紡げば、甘ったるいキスの後、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます