第52話 秋時雨
どんどん強くなっていく雨脚に、僅かに開いていたカーテンをぴっちりと閉じて、未弥はぐるりと室内を見回した。
今朝から降り出した雨は、時間が経つごとに激しさを増していき、各地で警報が発表され、公共交通機関は軒並みストップした。
図書館も夕方前に臨時休館が決まって、大雨対策の後、雨合羽と傘で必死に雨を避けながら帰宅した午後16時すぎ、今朝の新幹線で東京に出張している朝陽から連絡が入った。
関東地方は嘘のような晴天らしく、ニュースで被害報告が出ていることを気にして電話を架けてくれたのだ。
お互い職場が近いし、超近距離且つ交際ゼロ日婚を決めた二人なので、当然ラブコールの経験なんて無し。
朝陽は電話は好きではないようで、未弥への連絡事項は大抵単語のメッセージ、もしくは直接図書館まで会いにやって来る。
そんな彼が電話をくれたことが新鮮で嬉しくて、何やら照れ臭い。
ここ数年で一番の大雨予報が出ていたので、さすがに心配になったのだろう。
それは未弥も同じことで、いつも窓かドアが開けっ放しのことが多い実家と母親の事が気になって確認の連絡を入れたら、停電を心配した母親は万一に備えて老人ホームですでに待機していて、開いてるのはお風呂の窓くらいよと笑う母親の豪快さに呆れたり頼もしくなったりした。
思えば未弥が独身の頃から、母親は台風や大雪予報の前は仕事場で待機していることが多かった。
交通機関が動かずに出勤できないスタッフが居ては、入居者のサポートが不十分になるからだ。
”大上さんが居てくれるから安心だ”と入居者や利用者、スタッフからの信頼が厚い母親のことは誇りに思うけれど、そろそろいい歳なので自分の身体も労わって欲しいところではある。
朝陽にとっても未弥にとっても、”お母さん”と呼べる唯一の人なのだから。
『未弥、どこ?もう家?』
『うん。さっき帰って来た。雨がね、もうすっごいよ、雨合羽に傘さしても足元びしょ濡れ。天気次第で明日の出勤決めることになったわ』
『そっか。おばさんは?』
『連絡したらもうホームにいた。お風呂場の窓はいつも通り開けっ放しみたいだけど、まあ他は多分大丈夫でしょ。他の地区から泥棒が来られるような天気でも無いし』
『そりゃそうだ。うちは?俺の部屋は出る時全部施錠してるけど』
『和室も荷物部屋も見たみた。大丈夫よ、でも明日以降のベランダ掃除が大変そう。あ、朝陽の灰皿!』
『今朝部屋に入れた。サンダルもな』
どこまでも抜かりのない管理に頭が下がる。
昨日の時点で停電した場合に備えて菓子パンやサンドイッチを買い込んできたのも朝陽だった。
本当に遠山家のすべては朝陽の両肩にどっしり掛かっている。
『さすがだわ』
『もっと有難がれよ』
『帰ってきたら存分に労う』
『・・・・・・期待してるからな。あと、俺多分今日は帰れないから。運転状況見ただろ?』
『見た。戻って来れても途中までになるなら、そっちで一泊すれば?その方が安心だし』
無理に帰って来て危ない目に遭うよりは、天気の回復を待って帰宅してくれる方がずっと安心出来る。
悪天候でのお留守番は何度経験しても慣れないけれど、大上家のように窓も多くないし、マンション自体が大きいので昔よりはほんの少しだけ安心感もある。
『んー・・・ちょっと考える。あ、もう戻るから。戸締りちゃんとしろよ。早めに風呂入って身体冷やさないようにな。また連絡する』
必要な注意事項を最後に並べてあっさりと通話が終わった。
戸締りと言われても、玄関はオートロックだし、リビング含めすべての部屋の窓はしっかり施錠確認を終えた。
食べる物も飲むものもある。
必要なチェックが終わると一気に手持ち無沙汰になって、同時にシンと静かな室内の空気が冷たく感じられる。
窓の外には叩きつけるように降る雨が見えて、何だか独りぼっちで取り残されてしまったような気持ちになった。
そう思ってみれば、これまで図書館の休刊日や未弥の休暇の時には、必ず数時間は朝陽が家に居た。
リモートワークだったり、半休やフレックスを使って一日のうちのどこかで未弥と過ごす時間を作ってくれていたのだ。
だから、未弥が家に居てテレビをつけることはほとんどなかった。
会話は無く読書に集中している時でも、静かな空間に心細さなんて感じなかったのに、いまは無音の空間が物凄く心許ない。
リモコンを操作してテレビをつけるとどのチャンネルでも発令中の警報の表示が見えて余計に気が滅入ってしまった。
仕方なくネット配信に切り替えて二人で見ていたシリーズ物の北欧ファンタジードラマを再生する。
いつもはその先の展開を予想しながらわくわくしてテレビに向かうのに、表示される字幕だけがぼんやりと視界に入って来るだけでちっとも集中できない。
どうせ一人だしと、ストックのお菓子や菓子パンやサンドイッチをローテーブルに並べておやつとも夕飯とも言えない中途半端な食事を食べながら時間が過ぎていくのをただ待つ。
そのうち雨の音に混じってお腹に響くような雷鳴が聞こえて来て、未弥はびくりと肩を震わせた。
大雨はまだいい。ノアの箱舟の物語のように、神様が大洪水でも起こさない限りどこかに流されてしまうことはないから。
けれど、雷だけは駄目だ。
頭に響く天罰を思わせる大きな音と鋭い稲光は、否が応でも恐怖心を植え付けて来る。
ここが室内でそう簡単に人の真上に雷が落ちないことは分かっていても、もしかして、という不安に駆られてしまうのだ。
母親と二人暮らしだった頃は、母親の布団に潜りこんだり、大きくなって一人で留守番を任されるようになってからは、家じゅうの戸締りを終えたあとで頭まで布団を被って、懐中電灯の明かりを抱き込んで眠ったりした。
その昔、朝陽の祖母が老人ホームにショートステイしている間、いつも朝陽は大上家で寝泊まりしていたので、母親が遅番の時も怖くなかったのだ。
母親からは、くれぐれも朝陽の面倒をしっかり見て、戸締りして二人で仲良く眠っておくようにと言われていたけれど、朝陽が側に居てくれて心強いのは、実は未弥のほうだった。
もちろん、小さな幼馴染を任された責任感でしっかりしなきゃとは思ったけれど、悪天候の夜に、いつまでも帰らない母親を一人で待つ心細さはどうにも耐え難い。
あちこちガタが来ている古い家は、雨風を受けるたびにギシギシと音を立てるので眠れなくなるのだ。
けれど、そんな朝陽が側に居てくれるとそれだけで心細さが消えていった。
この子を守らなくてはと思えば思うだけ、未弥は強くなれたのだ。
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