第39話 旱梅雨

あの日以来、未弥は朝陽が触れても一瞬驚いたような顔をした後は、素直に身体を預けてくれる。


彼女のなかで自分への信頼の数値が各段に増えてきている事が分かって嬉しい。


朝陽が思い描いていた夫婦生活は、未弥から全幅の信頼を得ること、そして、彼女がずっとここに居たいと思い続けられるような心地よい家を作って過ごすこと。


少しずつ、おぼろげに思い描いていた夢が現実になりつつある。


それでも、未だに未弥からキスのその先のおねだりはして貰えなくて、中途半端に手を出して、せっかく一緒になった寝室を追い出されることも避けたくて、結局は寝顔を見て我慢する日々が続いている。


離れて暮らしていた頃に比べれば、それさえも幸せな悩みだけれど。


未弥が時折猫のように擦り寄って来ることと、朝陽が望んでいるものは、まだ確かにずれているのだ。


それを伝えれば、彼女は譲歩しようとするだろうけれど、そうではない方法で近くに行きたかった。


叶うなら、未弥が酔っぱらってキスをくれたあの夜のように、彼女の気持ちで朝陽を欲しがって欲しい。


だから、その先は、未弥がもう少し慣れたら。


こみ上げてくる色んな欲求をそう言って納得させて強引にねじ伏せて、ひたすら寝顔だけを堪能すること40分。


いよいよ限界がやって来た。


もう一度スマホで時間を確かめて、静かに未弥の側を離れる。


今日は遅番シフトの彼女は、昨夜日付が変わってからもしばらくずっと布団のなかで本を読んでいた。


これが、未弥の定番の夜の過ごし方だ。


小学校の頃、祖母が老人ホームにショートステイするたび、大上家に泊りに行っていた時から、ずっと変わらない。


お風呂上りに今日の夜読む本を選ぶ未弥は至極楽しそうで、朝陽にもお勧めの漫画を貸してくれた。


読み始めた本が面白過ぎて、母親が様子を見に来るまで夜更かしを続けるのもいつもの事だった。


あの頃の未弥を知らなかったら、すぐに本を読み始める彼女に拒絶されていると感じていたかもしれない。


だから、決してあの時間は無駄ではなかったのだ。


これまでの休前日なら、明け方までデスク前に張り付いてネットゲームをしていたのに、未弥と一緒に眠るようになってからの朝陽は、自宅で仕事以外はほとんどパソコンに触らなくなった。


入浴を済ませたあとは、スマホを手にいそいそと和室に向かって、頭まで布団を被って読書中の未弥をそろりと腕の中に囲い込んで、ほどよい場所に彼女が収まったあとでスマホを掴む。


最近はもっぱらレシピ検索ばかりしている。


今更ながら、祖母が口を酸っぱくして言っていた人間は食べるもので出来ている、の意味を痛感したせいだ。


これまでの手軽でワンプレートのがっつり系男飯はやめて、野菜とタンパク質多めのメニューに切り替えてから未弥はますます朝陽の料理を褒めてくれるようになったので、一石二鳥でもあった。


妻を喜ばせて健康にできるならこんなに嬉しいことは無い。


心配されたり気にかけられることが多かったせいか、未弥から手放しで褒められるとそれだけで自尊心が満たされるのだ。


未弥が遅番シフトの時は帰宅が21時近くになるので、ブランチはしっかりめに食べさせて、休憩時間に食べられるようにおにぎりかサンドイッチを持たせている。


最初に未弥サイズに作った小さなおにぎりを差し出した時は仰天されたけれど、二回目からは具材のリクエストが出て来るようになった。


結婚して良かったと思われたい欲も入っているけれど、相手が未弥でなければこんな風に甲斐甲斐しく世話を焼けない。


未弥といると、つくづく自分は単純な人間だと思い知らされる。


けれど、そんな自分が嫌いじゃないのだ。


ブランチと軽食の準備を済ませてからまた和室に戻れれば良いが、今朝は残念ながらそうはいかない。


仕事とは別の重要任務があるのだ。


根岸の一件と、社宅と婚姻届の件で西園寺に多大な借りを作った朝陽は、諸々が落ち着いた後で彼から一つの頼み事をされた。


最初に交わした取り決めは、当然朝陽に有利なだけでは無かった。


同じように西園寺から個人的な助力を乞われた場合は、力になる約束をしてあったのだ。


朝陽にとって西園寺は、間違いなくこの土地で生きていく上で最強の後ろ盾になる。


そして、西園寺にとっての朝陽は、家のしがらみにとらわれない場所で自由に使える便利な部下でもあるのだ。


今回、西園寺が頼まれた任務は、少し前カサブランカで挨拶をした女性、現在は正式な婚約者となった彼女の幼少期からの写真を全てデータ化して欲しいということだった。


これまでの人生で間違いなく一番大きな借りになったと自負している朝陽に拒否権なんてあるはずもなく、この先もあれこれ使われるんだろうなと思いながら了承の返事を返せば、想像の三倍近くのアルバムが研究所ラボに届けられた。


小学生の頃の初恋を拗らせるくらいだから、相当自分は面倒臭いタイプだと自負している朝陽だが、西園寺も同じ位面倒臭い男なのかもしれない。


”なるはやで頼むわな”


にっこり笑った上司が、温厚なだけではないことは重々承知している朝陽なので、未弥が遅番シフトのこの一日で大半を片付けてしまおうと思っていた。


シフト勤務未弥と基本月金勤務の朝陽は、月の半分も休日が合わない。


朝陽が一人の休日は、未弥の様子を見に行きがてら図書館で時間をつぶしたり、同僚の窪塚の地元に草野球をしに出掛けたり、家事をしつつネットゲームに勤しんだりするのだが、上司からの課題が終わらないことには自由時間は始まらない。


最重要機密扱いでと真顔で言われたそれをまさか自宅に持ち帰るわけにもいかないので、今日は一日研究所ラボに籠る事になるだろう。


他人の婚約者の写真に興味なんて皆無だが、やらない訳にも行かない。


スマホを手に和室を出ようとして、そこでふと思い出した。


そういえば、未弥の写真を撮ったことは一度もなかったのだ。


一緒に写真を撮るような間柄では無かったし、未弥の母親もカメラ好きではなかったので、老人ホームのイベントに来ている子供たちを写真に残すことはあっても、それ以外でカメラを向けられた記憶は無い。


それくらい忙しかったのもまた事実だった。


だから、未弥が自宅で補完しているアルバムの数倍の量の写真を西園寺が持って来た時、婚約者の生い立ちが何となく理解できた。

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