第38話 真夜中
一足飛びに夫婦になれるだなんて思っていない。
交際期間ゼロ日で婚姻届を押し付けた手前、こちらの譲歩は必須。
未弥が神妙な面持ちで差し出した結婚指輪を左手の薬指に嵌めてくれただけで僥倖。
もう二人の隙間に誰かが入り込む余地は無いのだから、今度こそ焦らずに、ゆっくりと。
頭では分かっていたし、二人暮らしのシミュレーションだって何度も行って来た。
母親不在の大上家の休日の食事と言えば、読書しながら片手で食べられるもの一択。
未弥は元々食べることにさして興味がない。
空腹が適度に満たされてくれればそれで良いという考え方なので、朝食はコーヒー、昼食は菓子パン、夕食は菓子パンの残り、という食生活でもなんら困らないのだ。
母親が家に居る時はさすがに二人で食卓を囲んでいたが、並ぶのはウエノマートの総菜がメインでそこに一品増えれば豪華という内容だった。
はなから未弥の料理は当てにしていないし、一通りの家事は在宅時間が長いこちらが担当するつもりでいた。
この家に未弥が帰って来てくれることだけを願っていたので、最初はそれで十分だったのだ。
けれど、一つ心が満たされれば次の欲が芽生えて来るもので、一緒に家で過ごす時間が増えれば増えるほど未弥は無防備になっていき、それに煽られるように指を伸ばしかけては躊躇って引っ込める回数が増えて行った。
健全な成人男性なので少なからず欲はあるし、念願叶って結婚できた相手が間近でふわふわしていればその気にもなる。
それでも未弥の気持ちを慮って和室を明け渡してからひと月弱。
このままでは未弥の根城は完全に和室になってしまって永遠に彼女と同じ部屋で寝起きするのは不可能なのでは無いかと思い始めた。
和室に荷物が増えて、未弥の居心地が良くなるのはもちろん嬉しい。
けれど、それはあくまで彼女のプライベートスペースのみで、リビングまでは絶対に浸食してこない。
なんの不可侵条約だと嘆きたくなった。
いよいよ埒が明かなくなって、未弥のプライベートスペースに入れて欲しいと訴えた数日後、今日こそはと勇んだ朝陽は彼女からの申告で再び一人根を余儀なくされることになった。
未弥側の事情は物凄く理解出来たし、初めて見る青白い顔の彼女に亡くなる直前の祖母の面影が重なって居ても立っても居られなくなった。
慣れた様子で鎮痛剤を飲んで丸くなる彼女の側でそれ以上どうにもしてやることも出来ずに、手持ち無沙汰で触ったタブレットで、生理中にお勧めの食材を検索してキッチンに籠った。
これまでの未弥の食生活は、図書館の昼休憩で食べるリナリアのランチが主軸になっていたことを思い出して、それからひたすら栄養バランスの良いレシピを探しては保存を繰り返した。
側に居るのに痛みや苦しみを取り除いてやれないことが一番悔しい。
北風が吹き始めると膝を撫でる回数の増えた祖母は、けれど朝陽の前では一度も痛いと訴えることは無かった。
入院生活を始めてからもずっとだ。
同じ我慢を未弥にはさせたくない。
自分に出来ることがあると分かれば、いくらか不安は紛れるもので、がくんと落ちた未弥の食事量が戻って来て、出した料理を綺麗に食べきって、頬が赤みを取り戻していって、ようやく安心することが出来た。
彼女の言う通り、これが向こう十年以上ずっと続くのなら、より一層傾向と対策を立てなくてはならない。
食べやすいものをと、早速ドライマンゴーを大量に買って帰ったら、最初は怪訝な顔をしていた未弥も、読書の最中に勝手に口に放り込んでやれば美味しいと言って進んで食べるようになった。
自分さえしっかりしていれば何があっても大丈夫だと思っていたけれど、自分以上に気掛かりな相手が元気でいてくれなくては何も手につかなくなるのだと思い知らされた。
だから、より一層慎重に未弥が戸惑わないように距離を詰めようと思ったのに。
「・・・・・・・・・んん・・・」
身体を冷やしたくなくてしっかり肩まで覆っていた上掛けが暑かったのか、未弥が邪魔な上掛けを腕で下げてごろんと寝返りを打った。
目を覚ましたのだろうかと覗き込むも、瞼は閉じたままだ。
隣に並べた布団を見て思い切り表情を強張らせていた初日が嘘のように、朝陽の布団の上に身体の半分を忍び込ませたまま、未弥は熟睡していた。
寝息が深いままであることを確かめて、さっきよりも若干下まで上掛けを引き上げる。
枕からずれ落ちそうな頭を戻してやって、髪を撫でてから枕元のスマホを確かめた。
朝6時。
休日の朝にしては随分と早起きだ。
残念ながら、添い寝の順応性は未弥のほうが高かったらしい。
朝陽が自分の布団を和室に運んだ最初の夜。
まずは同じ部屋で寝起きするところから始めようと、寝入りばなに昔話を初めてから小一時間。
ウトウトし始めた未弥はそこから十数分で夢の国に旅立って行った。
日付が変わってから眠るほうが多い朝陽のほうが、この夜はずっと緊張していた。
いつまでも未弥が眠らないのではないかと思っていたのだ。
ところが、すうっと穏やかな寝息を立て始めた彼女はその後一度も目を覚ますことなく朝を迎えた。
しかも、明け方眠りについた朝陽がしっかり被せた上掛けを蹴飛ばして、隣の陣地に侵入して来たのだ。
仮眠程度の睡眠の後の寝起きでさすがに頭の回らない朝陽は、これは夢かと腕に擦り寄って来る柔らかい身体を抱きしめて、上掛けの中にしっかりと引き摺り込んだ。
彼女の好きな金木犀の香りがふわりと鼻先を掠めて、ああこっちが現実だとようやく思考を覚醒させる。
それでも未弥を手放す気にはなれなくて、彼女が目を覚ますまで待つ事にした。
悲鳴を上げて逃げ出すかな、という朝陽の予想は、数十秒後に見事に裏切られた。
「・・・・・・おはよ」
ふわあと欠伸をした未弥は、動じることなくそう言ってもう一度目を閉じたのだ。
ガツンと頭を殴られたような衝撃とこみ上げてくる生理現象のやり場に困って、先に和室から逃げ出した。
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