第32話 入梅

自宅で母親とたまにする晩酌も楽しかったけれど、朝陽と一緒に飲むのも楽しい。


老人ホームのイベントで入居者に交じって梅酒を漬けてから、毎年母親お手製の梅酒が大上家の食卓に出されるようになって数年。


お嫁に行くなら持って行きなさいよ、と言って母親が持たせてくれた大きな瓶に入った梅酒は、ある意味母から娘への最大級の餞だった。


ああ、これからお母さんは、あの家で一人で梅酒飲むのかぁ、としんみりして、ちょっと気になって連絡を入れてみれば、独り暮らしになった母親は、仲の良い同僚を自宅に招いて飲み会の真っ最中で、ああなんだ、全然元気そうじゃないのと肩透かしを食らったせいか、いつもよりも飲む量が増えた。


とはいえ、もう駄目だと思う前に朝陽ストップがかかったけれど。


炭酸水の入ったグラスを未弥のほうに押しやって、代わりに梅酒のソーダ割を引き受けた朝陽がそれを煽った途端、眉間にしわを寄せた。


「これ、濃くないか?」


「え、濃いのが美味しいんでしょ」


「量飲むんならもうちょっと薄めにしろよ」


「・・・・・・はいはーい・・・・・・・・・お母さん元気そうだったね」


「おばさんが元気じゃないとこ見た事無いけどな」


「・・・・・・ふふっ・・・・・・あんた、たぶん一生呼び方そのままだね」


一応義理の母親になったのだから、誰にはばかることなく義母さんと呼んでよいはずなのに、朝陽は相変わらずおばさん呼びを続けている。


照れくささもあるのだろう。


だってこの20年ずっとそう呼び続けて来たのだから。


「あー・・・いや、呼ばなきゃ、とは思ってんだけど」


「別に呼び方とかどうでもいんじゃない?家族なことに変わりはないしさぁ・・・・・・」


おばさん、であれ、お母さん、であれ、存在する絆に違いは無い。


朝陽に何かあれば、未弥の母親は我が子同然に心配するし、また逆も然りだ。


未弥の言葉に困ったように笑った朝陽が、家族写真を振り返った。


「あー・・・うん・・・まあそうなんだけど・・・お母さんて呼んでた記憶がもうほとんど残ってないからさ、なんか違和感しかなくて」


「・・・・・・・・・ごめん」


お酒が回ったせいで、思い切り余計なことを口にした気がする。


「なんで謝るんだよ」


「無神経なこと言ったから」


「そんなこと」


「あるよ。あんたのお母さんは、朝陽を生んでくれた人、一人だけだし、それを上書きする必要は無い。だから無理して呼ばなくていいし、えっと・・・・・・勿論、呼んでもいい・・・・・・私も、お母さんも、朝陽が傷つかないならそれでいいんだよ」


だから、あの日軽々しく家族になってあげる、なんて言ってはいけなかったのだ。


瞬きをしたら酔いと相まって涙が頬を伝って落ちて行った。


ぎょっとなった朝陽が身を乗り出して来る。


「なんでそこで泣くんだよ!?」


「・・・・・・・・・だって・・・・・・私さぁ、すごい無神経だし、ほんと考えなしだし・・・・・・あの頃のあんたに本気で謝りたいよ・・・・・・」


「は?なに言って・・・」


「あのね、朝陽・・・・・・私、あんたを傷つけるつもりなんてこれっぽちも無かったの。ほんとに。ただ、朝陽が一人じゃないことを分かって欲しくて・・・・・・それであんな言い方して・・・・・・」


回らない頭で、あの春の日の記憶を手繰り寄せる未弥に気づいた朝陽が、大きな手のひらで後ろ頭を撫でながら、分かった分かったと頷いた。


「あの台詞に傷ついたのは、俺の気持ちをお前がちっとも分かってなかったから。あと、どうしようもない歳とか背とか色んなことひっくるめて腹立ったから」


「す、好きな相手にあんな無神経なこと言われたら・・・そりゃあ・・・傷つくよねぇ・・・私最低でほんとごめんね・・・」


「・・・・・・・・・もういいって。そのおかげで結婚できたし」


怒ってないし、傷ついてない、と言い返す朝陽の肩を感謝の気持ちと共に叩く。


いい具合に酔っぱらっているので、この力加減が合っているのかもよく分からない。


けれど、朝陽が怒っていない事実が何よりも嬉しい。


夫婦仲が壊れなかったことが素直に嬉しい。


形から始まった新婚生活なのに、すっかり未弥は朝陽と夫婦であることに慣れ切っていた。


いまこの結婚生活を解消しろと言われたら、間違いなく泣く。


「・・・・・・・・・うう・・・・・・朝陽ぃ・・・・・・・・・あんたはほんと優しいよ」


彼が未弥に甘いのをいいことに、惚れた弱みに付け込んで、ろくに嫁らしいことをしないまま今日まで来てしまったけれど、それに対する不満の声は一つも聞こえてこない。


「私、なんにもしてないのに・・・・・・怒んないし・・・」


「家事は出来る方が出来ることやるって決めただろ?」


「・・・・・・それもだけど、お、奥さんらしいこと・・・・・・してない」


結婚してから妻からのスキンシップはほとんど皆無。


朝陽が未弥の反応を見ながら仕掛けてくるのに応えることで精一杯。


彼は健全なアラサー男子で、それなりに色んなものを抱えてるはずなのに、いまだ二人の寝室は別々のまま。


勿論、子供の頃のお泊り会とは違うので、勢い任せに一緒に寝ましょうなんて言えるわけもないのだけれど。


視線を揺らした未弥に気づいた朝陽が、梅酒のグラスを置いて、身体ごと未弥に向きなおった。


「なに、奥さんらしいことしたいの?」


伸びて来た腕が、そろりと背中を抱き寄せてくる。


積極的にしたいかと言われれば、答えに窮するけれど、興味がないわけじゃない。


だって朝陽とするキスは心地よいから。


「・・・・・・まあ・・・・・・ちょっとは」


こういう赤裸々な話をするのは、初めてかもしれない。


お酒の力を借りなければ絶対に言えなかったはずだ。


夫婦飲む夜も、たまには必要かもしれない。


腰を撫でた手のひらが背中を這いあがってくる。


初めてされる触れ方に、吐き出した呼気が震えた。


「・・・・・・・・・・・・・・・ちょっとって、どれくらい?」


「・・・・・・・・・」


どれくらい?なんていう質問は、経験者に向けてするものだ。


本の虫で生きて来た32歳が持っている知識なんて、小説と漫画で詰め込んだあやふやなものばかり。


なにがちょっとでなにがちょっとじゃないのかすら分からない。


それでも、回らない思考は、素直に目の前の唇に触れたいと指令を送ってくる。


そうっと目を伏せながら、朝陽に近づいて、どうやってキスってするんだっけと首を傾げたら、ちょうどいい具合にそれが重なった。


予想外に上手く行った事に驚いて、軽く唇を啄んですぐに離れる。


無意識に重ね合わせた唇をぺろりと舐めたら、同じ梅酒の味がした。


「甘い・・・」


呟いた途端、後ろ頭を引き寄せられて本格的なキスが降って来た。

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