第14話 白雨

今の勤務先に不満なんて無かったし、就活が始まってすぐに自分の理想に一番近い企業だと思って選んだ会社だった。


当然理想と現実の違いを突き付けられる場面も数多くあったけれど、技術研究者としての第一歩を踏み出して、足場固めをさせて貰う修業の場としては最高の環境だった。


それでも、会社に未練は少しも無かった。


引き留めに掛かってくれた上司に謝罪と感謝と共に退職の意思が変わらないことを伝えて、今のプロジェクトが軌道に乗るまでの約半年間の在籍を約束して、退職申請を行い、それと並行して西園寺と一緒に研究所ラボのエンジニア集めに東奔西走した。


すでに西園寺のほうでピックアップしてあった医療介護ロボット開発の第一人者はもちろんのこと、専門分野外でも気になるエンジニアには片っ端から接触を図った。


ようやく理想のメンバーが決まって、研究所ラボの始動時期が見えて来た段階で、やっと少し時間が取れて、久しぶりに地元に戻った。


朝陽が地元を離れてすぐに、実家は処分してしまっているので、帰れる家と言われれば思い浮かぶのはやっぱり大上家だ。


本当はもう少し後でちゃんと時間を作って戻るつもりにしていたのだが、予定していたスケジュールがリスケになって、気付いたら新幹線のチケットを予約していた。


いつものように日帰りだし、明日の朝は現行プロジェクトの大切な打ち合わせがあるので、早めに戻らなくてはならない。


往復の移動時間が滞在時間よりも長いことはわかりきっているのに、迷わずこちらに戻ってくることを選んでしまった自分に苦笑いが零れた。


未弥には今回も帰省連絡を入れていなかったし、彼女のシフトも聞いていない。


が、図書館を覗いていなければ実家に行けば会える自信があった。


こういう時彼女の行動範囲が狭くて本当に助かる。


「未弥」


貸出カウンターで端末の前に座っている未弥を見つけて声を掛ける。


朝陽の顔を見た未弥は、やっぱり喜びよりも驚きと安堵を露わにした。


メディカルセンターは開設に向けての準備が着々と進んでいるし、すでに西園寺不動産の物件で社宅申請も行っている。


こっちに戻ってくる手筈は整いつつあるのに、相変わらずなのは未弥のことだけだ。


たぶん、どんな難しい開発業務よりも、未弥の心を手に入れることのほうが難解なミッションなんだろう。


もうこの先の人生全部掛けて取り組むつもりなので、何年掛かってもいいのだけれど。


「朝陽!ちっとも連絡してこないから元気にしてるか心配してたのよ」


「ちょっと忙しくてさ。昼これからだろ?ちょっと話あるんだけど」


ランチを終えて未弥を図書館まで送ったら、今日はそのままとんぼ返りになる。


朝陽に気づいた磯上が、壁掛け時計を確かめて朝陽に向かって笑顔を向ける。


「あら、朝陽くんじゃない。いいわよいいわよ。未弥ちゃん、私カウンター変わるからもう休憩入っちゃって。ゆみちゃん、こっちの返却本もお願いできる?」


磯上が持っていた返却本を受け取った水谷が、軽く朝陽に会釈をしてからフロアへ出ていった。


「いいんですか?すみません-」


「助かります。未弥、カサブランカでいいだろ?」


「というか他に選択肢ないよね。ちょっと待って、お財布」


「いいよ。奢る」


未弥をロッカーに行かせる時間すら惜しくて、立ち上がった彼女の手を引いて、地元でお馴染みの喫茶店カサブランカに向かった。






・・・・・・・・・・






「え?なんて?」


ランチセットのハヤシライスを口に運びかけた未弥が、朝陽の言葉に手を止めた。


「だから、転職してこっち戻ってくる」


さっき簡潔に述べた言葉をもう一度口にすれば、未弥がスプーンを皿に戻して身を乗り出して来た。


これでふーん、とかいう低温対応だったら、さすがにちょっと凹んだかもしれない。


「っは?え、いつ?転職ってどこに!?」


「公民館の跡地、いま工事してるだろ」


「ああ、なんか西園寺のおっきい施設が建つって聞いたけど、え、そこで働くの?なにすんのよ」


「仕事は今まで通り、ロボット開発」


「え・・・・・・すご・・・じゃあなに、ヘッドハンティングされたってこと!?」


初めて未弥から尊敬の眼差しを向けられた気がする。


いつも彼女から向けられる視線は、心配と気遣いに溢れていたから。


見る間に自尊心が満たされて行って、自分のチョロさに嫌になる。


それでも胸の高揚感のほうがずっと大きいのだけれど。


「んー・・・そう。西園寺さんが今の会社まで会いに来てくれて、そこで色々話聞いて、決めた。いずれはこっち戻りたいと思ってたし。仕事内容も俺がやりたい開発だし、今より格段に雇用条件も良くなるし・・・お前もほら、俺がこっち戻って来たほうが色々安心だろ?」


最後の一言には願望と期待を込めた。


「そりゃ安心だよ!おばあちゃんも喜ぶね。お母さんにも報告しなきゃ!そっかー朝陽、こっち戻ってくるのかー・・・・・・帰って来るにしてももっと年取ってからだと思ってたから」


「・・・・・・嬉しい?」


「嬉しくないわけある?ほら、嬉しいからゆで卵半分あげるわ」


一個半もゆで卵はいらんと言いそうになったけれど、あまりにも未弥が嬉しそうだから黙って貰うことにした。


この調子だと、こっちに戻って来た途端一気に太る事になりそうだ。


嬉しそうに食事を再開した未弥が、そっかそっかと何度も頷く。


「じゃあ今日はその報告で帰って来たの?おばあちゃんのお墓行った?」


「いや。墓参りの時間ねぇから、今日はこの後すぐに向こう戻るよ。引継ぎの準備もあるし」


「えー、先に私に報告に来てくれたの?」


「・・・・・・・・・最初に言う人は未弥って決めてたから」


「あんたってそういうところあるよね。義理堅いというか・・・・・・」


しみじみと呟いた未弥が誇らしげに笑う。


義理云々ではなくて、別の感情から未弥に最初に言いたかったのだけれど、そのあたりのことはさっぱり彼女には伝わっていない。


つくづく姉弟のように過ごした子供時代が恨めしい。


「だから、これから頻繁にこっちと向こう行き来するから」


「うん。安心して戻っておいで。待ってる。でも、部屋どうするの?」


「あー・・・・・・社宅申請したから平気」


うっかりこの先の予定を暴露しそうになって、慌ててハヤシライスを頬張る。


急いては事を仕損じる、だ。


「そっか。西園寺不動産あるもんね。でもさぁ、こんなすぐに戻って来れるなら、家処分しなきゃよかったねぇ・・・・・・私とお母さんでお墓も家も面倒見たのに」


15歳まで暮らした朝陽の家は、未弥と未弥の母親にとっても思い出深い場所なのだ。


同じようにあの家を覚えてくれていることが何よりも嬉しい。


「相当古かったから、住むってなったら手入れが必要だったし、大事なもんは残ってるからいいよ、別に」


「そう・・・・・・まあ、そうね。思い出は嫌になるほどあるしね!社宅、すぐに入れないならしばらく家に来てもいいわよ?客間余ってるし」


「え・・・・・・」


まさか未弥がそんな提案をしてくれるとは夢にも思っていなかった。


「なんでそんなびっくりすんのよ。台風の時とか泊まってたでしょ」


「たしかに・・・」


住むところだけは先に確保せねばと真っ先に新居を決めてしまったことを、今更ながら後悔した。

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