第7話 慈雨

老人ホームに顔を出した直後は見えていた青空が、1時間ほどの間に急に陰りを帯びて来て、エントランスを出る頃には重たく淀んだ雨雲が空を覆いつくしていた。


今日の夜の新幹線で向こうに戻るつもりにしているので、当然傘なんて持っていないし、天気すら確かめることなくここまで来た。


この後はいつものように図書館に未弥の顔を見に行くだけなので、降られたらその時だなと思いながら施設の外に足を踏み出せば、天気に気づいた未弥の母親が駆け足で追いかけて来た。


手にしているのはビニール傘で、それが1本だけだったらば、遠慮しようと思っていたのだ。






・・・・・・





『未弥も傘持って行ってないのよ!あの子この前の台風で置き傘壊したところだから、これ頼める?どうせ施設で余ってるものだから、使い終わったそのまま持って帰っていいし』


自分一人なら喜んで雨の中駅まで走って帰るが、彼女に同じことをさせるわけにはいかない。


未弥の場合、自分の運動神経のなさを重々承知しているので、走る事すら諦めてびしょ濡れで帰宅する可能性が大である。


図書館にも施設で管理している置き傘くらいあるだろうが、彼女の性格を考えると、同僚たちに譲って最後に残っていたら差して帰ろうかな、くらいに思っている可能性が高い。


だから、ビニール傘を届けないという選択肢は無い。


この時間なら、ちょうど日勤の仕事が終わる頃合いなので、未弥が外に出る前に捕まえることが出来るだろう。


タイミングが合った時は、気を遣って駅まで見送ってくれる彼女なのだが、今日は雨だし図書館の前で別れるほうが賢明だ。


片田舎の地方都市は、これといった凶悪犯罪もなく、至って平和なのだが、人が少ない分街灯の数も建物の数も少ないので、陽が落ちると一気に町全体が闇に沈む。


夏場の明るい時期ならともかく、今日みたいな悪天候の時は真っ直ぐ帰宅して貰いたい。


こんな日にウエノマートに買い物とか言われたらいやだなと思いながら、図書館まで辿り着くと、天気のせいか、仕事帰りの利用者はいつもの半分ほどだった。


図書室を覗くと、すでにフロアに未弥の姿は無く、同僚の水谷が朝陽に気づいて小走りに駆け寄って来た。


小柄な彼女がちょこまかと走る姿はどこかリスっぽい。


「お疲れ様です。水谷さん。未弥ってもう上がってます?」


「あ、お、お疲れ様です。はい。さっき荷物取りに行ったので・・・すぐ・・・・・・」


職員たちのロッカーがあるカウンターの奥を振り返った水谷が、小さく未弥に向かって手を振る。


同じようににこやかに手を振り返して、未弥が隣に立つ長身の朝陽に気づいて目を丸くした。


「あれ?朝陽?帰って来てたの?」


最近何かと理由を付けて帰省しまくっているので、いつ帰るという連絡を未弥には入れていなかった。


もともとスマホをそれほど有効活用するタイプではない彼女なので、連絡を頻繁に取っているわけでもない。


だから、朝陽を見つけた時の未弥の反応は大抵こんな感じだ。


いつか満面の笑みで朝陽に会いたかったとか言われてみたい。


が、この調子だと夢のまた夢で終わりそうだ。


万一未弥からそんなことを言われたら、彼女の体調を心配しそうな自分もいるので、幼馴染と恋をするというのは結構色んなハードルを乗り越えなくてはならないらしい。


もうその塩対応には慣れましたよと心の中で呟きながら、こちらもお馴染みの低温気味の対応で返す。


「ちょっと時間出来たから。これから戻る。んで、おばさんから傘預かった。お前置き傘壊れたんだろ?」


「ああ、そうなの。って、え、外雨?さっきまで晴れてなかった?」


案の定、新しい置き傘は用意されていなかったらしい。


持ってきたビニール傘が役に立ちそうでホッとする。


「ちょっと前に降り出したんだよ。ほら、傘」


「ありがと・・・・・・」


何の変哲もないビニール傘を受け取った未弥が、傘の柄を握ってからぐりんと隣を振り返った。


そして、受け取ったばかりのビニール傘を同僚へと差し出す。


「ゆみちゃんもこないだの台風で置き傘駄目になっちゃったよね?はい、コレ使ってね」


「え!?で、でも、未弥さんが」


目を白黒させる後輩にビニール傘を押し付けると、未弥はあっけらかんと笑って朝陽の腕を掴んだ。


「いいのいいの!朝陽居るから」


「・・・・・・・・・あ、ああ、まあ・・・たしかに」


朝陽の分のビニール傘はあるのだから、これに入って帰れば問題は無い。


幼馴染との相合傘で今更落ち着かなくなるような柔な心臓を抱えていないはずなのに、予期せぬ出来事に一瞬思考が固まってしまった。


一気に熱くなった指先に、嘘だろ、と頭を抱えたくなる。


呆然とする朝陽の腕を引っ張って未弥がビニール傘を自分の手に移動させた。


「じゃあお先です。お疲れ様。ほら、朝陽、帰るよ」


「ありがとうございます・・・っお疲れ様でした!」


水谷の声に見送られて図書室を出て、ロビーを抜けてエントランスへと向かう。


相変わらず掴まれたままの腕に意識が向いてしまって、他の事が考えられない朝陽に、未弥が自動ドアの向こうの重たい空を見つめて言った。


「うわー・・・本降りだ・・・・・・来てくれて助かったわ・・・・・・新幹線の時間大丈夫なの?」


「え?ああ、うん、平気」


「良かった。駅まであんたのこと見送るから、で、そのままコレ、私が差して帰るね」


予定していた事と違う回答が聞こえて来て、朝陽は慌てて口を開いた。


「・・・・・・は?いや、家まで送るからいいよ。んでそのままコレ差して帰る」


「なんでよ。駅のほうが近いんだから、私が朝陽を送る方がいいでしょ。あっちの天気も分かんないし」


「この時間に送って貰うの嫌なんだよ。もう外暗いし」


田舎町には歩道なんてもの存在しないし、そこかしこに農業用の大きな用水路がある。


その昔、さらに街灯が少なかった頃、未弥が誤って用水路に落ちたことがあった。


あれ以来、朝陽は未弥に夜道を一人歩かせるのがちょっと心配なのだ。


そんな幼馴染の憂い顔を見上げて、未弥が片手を上げて宣誓した。


「朝陽、聞いて。私はもう、走らないから、転ばない」


「・・・・・・・・・そういう心配じゃねえよ」


相合傘の照れくささと甘酸っぱさが、一気に吹き飛んだ瞬間だった。

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