第5話 翠雨

彼女の視線の行く先を追いかけるようになったのは、未弥が中学生に上がった頃から。


一足早く大人になったことを自慢するかのようにセーラー服姿で小学校まで迎えにきた彼女の姿を見た瞬間、自分たちの間にある越られない大きな隔たりに気づいた。


恐らくこの隔たりは、この先何年、いや何十年も二人の間に横たわり続けて、色んな感情の邪魔をして来るだろうとすぐに悟った。


その初恋は、敗北感と共に、朝陽の頭上に降って来た。


どうせ自覚するのなら、もっと甘いのが良かった。


そうしたら、こんなに引きずることもなかったのに。


年上の彼女は、朝陽のことを爪の先程度も意識していない。


毎日の食事の心配をして、体調を崩せば看病をして、宿題の進捗を窺って、友人たちと過ごす学校生活に問題がないかと何かにつけて気にかけてくる。


それはもう母親のように。


”私が家族になってあげる”


だからそんな台詞が出て来るのだ。


それは、朝陽が一番望んでいない形だった。


無邪気に笑って保護者ぶって、一番欲しかったものを平然と差し出して来た彼女の優しさがどうしようもなく痛かった。


はあ?家族、なんだそれ。


どういうつもりでそういう無神経な台詞吐くわけ?


本気で家族になれたら良いと思ってるんだろう。


それでいつか、家族として、あの家を出ていく自分を見送ってくれたらとか思ってるんだろう。


死んだってしてやるかそんなこと。


この先半年は会えなくなるし、うっかり涙目になったらカッコ悪いので、こっそりと出立するつもりだった朝陽の予定は未弥の出現によって変更を余儀なくされ、せめてこれ以上お節介を焼かれずにすむように、安心させて側を離れようと思っていたのに、まさかのクリティカルヒットを食らって、散々な故郷からの旅立ちになった。


吐き捨てるように投げた言葉に、びくっと肩を震わせた未弥は、それ以上何も言わなくて、絶対連絡を寄越してこない確信があったのに、狙ったかのように学生寮に到着したタイミングで、メッセージが届いた。


怒りよりも、心配が勝ったのだろう。


彼女の中にある感情の8割は、年下の弟に対する庇護意識で、残り2割は、幼馴染としての責任感。


普通最後の最後であんなやり取りをして別れたら、2、3日は連絡をして来ないのが普通だろうに。


平然と何事もなかったかのように、こちらを気遣う文面が届いて、本気で泣きそうになった。


朝陽が死ぬ気で投げたあの言葉は、彼女にとっては思春期の弟のちょっとした反抗程度にしか受け取られていなかったのだろう。


”もう寮着いたかな?元気でね”


ごめんと謝って欲しかったわけじゃない。


でも、無かったことにされるくらいなら、上っ面だとしても謝られたほうがましだった。


もしこれが、彼女の意図だとしたら、何もかも思惑通りだ。


あの最低最悪な別れのおかげで、朝陽は否応なしに未弥のことを忘れられなくなった。


あれから何度も何度も彼女のことを思い出した。


誰かに惹かれるたび。


誰かに焦がれられるたび。


あの春の日の冷たい駅のホームの空気まで思い出した。


子供にとっての3歳差は途轍もなく大きくて、時折祖母の墓参りのために帰省して、お世話になっていた老人ホームに顔を見せれば、彼女の母親から聞かされる女子大生になった未弥の様子にじくじくと胸を痛めた。


どうせこのまま距離はさらに離れて行って、会う機会のほうが少なくなるのだから、いつまでも初恋に縛られているなんて馬鹿みたいだと思うたび、いい思い出ばかりが甦って、朝陽の胸を苛んで来るのだ。


特別美人というわけではなく、目立つなにかがあるわけでもない。


身長こそ平均以上だが、栄養がそっちに回ったせいか肉付きは決して良くなくて、少年誌のグラビアアイドルの半分ほどの色気もない。


何年経っても口を開けば真っ先にこちらの心配をしてくるところも相変わらず。


そんな彼女のどこに惹かれてここまで初恋を拗らせているのか、自分でもよくわからない。


それでも、朝陽にとって未弥は、やっぱりどれだけ時間が経っても大切なままだ。


自分の人生に、初めていて欲しいと思った相手が、彼女だったからかもしれない。


彼女と離れてから、初めてその先の別の未来を思い描いた瞬間、まるで夢から醒めるように自分の中の恋情が死んでいくのを感じて、これはもう未弥以外はたぶん誰も選べないんだろうなと思い知った。


そして色々と覚悟を決めた。


この先どうやって生きていくのかを。






・・・・・・・・・






最近地元こっちに戻ってくる機会増えたねぇ。あ、こっちの大きい唐揚げ、あんた食べなさい。私は小さいのでいいから」


大上家で食卓を囲むのは今に始まったことではない。


朝陽が全寮制の高校に入ってから数年間はそれもなかったけれど、大学を卒業してから帰省のたびに顔を出すようにしているので、未だに朝陽の用の茶碗も箸もそのまま残されている。


帰省回数を増やしたのは暇だからでは決してない。


未弥が変わらずいることを確かめたいのだと言えば、心底不可解な顔をされるだろうことは分かっていた。


「これまでが戻って来なさすぎだったから・・・おばさんのは?」


「お母さんホームで食べてくるって。あそこのご飯美味しいからさぁ。ウエノマートのお惣菜より栄養バランスも行き届いてるし。ほら、こっちのほうれん草の白和えも食べな」


「ふーん・・・っつか、そんないっぺんに食えねぇよ・・・・・・お前俺の事未だに育ち盛りだと思ってるだろ・・・・・・」


「いやそれは・・・あんまり思ってないけど、男の子どんくらい食べるのか分かんないから。ほら、親戚のおばちゃんがお腹いっぱい食べさせたがるあれだよ、あれ!」


力いっぱい言われてもちっとも頷けない。


彼女はどこまで自分の身内を気取るつもりなのか。


せめて他人で、年上の幼馴染のままで居てくれと心底祈る。


「図書館、もうすぐ蔵書点検だろ?」


「あ、よく覚えてるね。そうよ。暫く残業だわ」 


図書館の年間スケジュールをおおよそ把握しているから、未弥が多忙になる前に帰省するようにしているのだが、たぶん鈍感な彼女はそのあたりの事もさっぱり気づいていない。


気づいて悟って避けられるほうが怖いからいいけれど。


「大変だな」


「あんたの難しい仕事ほどじゃないわよ。ほら、大根も。煮物なんて普段食べないでしょ?」


「・・・・・・毎日肉と揚げ物ばっか食ってると思ってる?」


「え、男の子ってそういうもんじゃないの?」


きょとんとした表情で見つめ返されて、ちょっとの安堵と複雑な気持ちをいっぺんに味わう。


彼女の異性に対する認識は、朝陽が中学生の頃からちっとも変わっていない。


色々大丈夫だろうかと思いながら、けれどそれを口にしないのは、未だにまだ未練があるからだ。


あの時芽生えた初恋への。









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