第50話 半夏雨-1

「こっちは?」


「んー・・・痛くない」


「んじゃあこれは?」


「あ、それはちょっと痛いかも」


捕まえた足首を軽く動かしながら可動域を確かめた朝陽は、新しい湿布を貼り直しながら完治までの日数を計算する。


園田が西園寺メディカルセンターを尋ねるべくこの町にやって来た日から4日が過ぎていた。


「おまえ昔骨折したのってこっちの足だよな、ちょっとくせが残ってんのかもな・・・図書館の脚立踏み外して傷めたのもこっちだったろ」


「よく覚えてるねぇ」


「・・・そりゃあ覚えてるよ」


未弥が右足首を骨折したのは中学一年の夏休みのことだった。


朝から晩まで仕事場の老人ホームで過ごすことが多い未弥の母親は、ウエノマートで買い込んだお惣菜でお昼を食いつなぐように言いおいていて、松葉杖では一人で買い物に行く事も出来ない未弥を心配した祖母に言われて様子を見に行くたびに、駅前のコンビニまでお使いを頼まれて辟易していたことまで覚えている。


女性には珍しい機械工学系エンジニアの園田とは、以前の仕事場で知り合った。


航空エンジニアを父親に持つ彼女は高い理想と向上心を持っていて、知識も豊富で一緒に居るといくつもの刺激を受けた。


女性特有の粘着質な気風が苦手な朝陽にはちょうど良い距離感で、それが少しずつ近づいて交際が始まった時も違和感なんて感じなかった。


一緒に居ればお互いを成長させ合える自信もあったし、目標に向かって真っすぐな彼女が好ましくもあった。


恐らく自分と同じように、自立した生活に満足している彼女はこれ以上関係性を変えるつもりはないだろうと信じて疑わなかった朝陽の耳に、結婚は考えないのかという問いかけが聞こえて来たのは付き合って二年が過ぎた頃だった。


全く予想だにしていなかった質問。


結婚、家族という単語が思い浮かんだ時、真っ先に思い出したのは未弥のことだった。


言葉少なに結婚は考えていないとはっきり返した朝陽に、園田はショックを受けたように目を見張った後、期待した私が馬鹿だったと呟いて去っていった。


所属セクションが違っていたため、その後彼女と関わることは無く、朝陽が西園寺からのヘッドハンティングを受ける一年前に、医療機器メーカーに転職したと噂で聞いた。


別れてから一度も連絡を取っていなかった園田の名前を取引先企業のプレゼン資料で見つけた時は、今も切磋琢磨しているのかと嬉しく思ったものだが、その数日後スマホに電話が架かって来た時にはもっと驚いた。


同僚と二人でこちらに来てプレゼンを行う予定だと報告を受けた時も、そうなのかと懐かしく思っただけで、当日になって、同僚が後から合流するので西園寺メディカルセンターまでの道が分からないから迎えに来いと言われた時も、相変わらずだなと苦笑いしただけ。


それがまさか、自分よりも先に未弥と瑠璃と図書館前で遭遇していたなんて。


朝陽の知る園田は過去の恋愛をペラペラ語るような女性ではない。


けれど、未弥を見た朝陽の視線で、二人の関係に気づいた彼女のなかで何かがぷつんと切れてしまったようだった。


一気に挑発的になった園田は、頼んでもいないのに朝陽の過去を話し始めて、いい加減にしろと思った矢先に彼女が口にした一言は、朝陽と未弥を傷つけるというよりは、むしろ喜ばせるものだった。


そして、負けじと園田に言い返した未弥の一言は、録音して永久保存しておきたいくらいの、スペシャルな告白。


交際中の園田には、出身地の詳細を聞かせたことが無かったので、彼女はこの町が朝陽の地元であることを知らなかったのだ。


だからこそあの発言が飛び出したわけだが。


真っ赤になって後ずさった未弥が次の瞬間足を捻って転倒したことはアクシデントに違いないが、園田の来訪自体は、むしろ未弥と朝陽の夫婦にとってはちょっとしたスパイスになった。


あの後転んだ未弥を抱き上げて図書館に戻った朝陽は、到着が遅いと心配して追いかけて来た窪塚に園田を任せて、すぐに彼女を近くの整形に運んだ。


挫いた足が右足だったので万一の可能性を考えたのだ。


幸い軽い捻挫と言われて湿布を処方されて帰宅して以降、毎晩のように風呂上がりの未弥の足首の回復状況を確かめてはせっせと湿布を貼り替えている。


「人が怪我してるのになんでそんな機嫌いいかなぁ」


「もうほとんど良くなってるだろ」


「そうだけどさぁ」


不満げに零した未弥のつむじにキスを落として湿布の袋を畳の上に放り出す。


膝まで捲り上げていたパジャマの裾を下ろす彼女の手を捕まえて、そのまま敷布団の上に押し倒した。


最初の夜は目が点になって固まっていた未弥も、夫婦の時間に慣れて来たのか朝陽の指を握り返す余裕がある。


こうやって馴染むまで随分と時間を掛けた自覚があるだけに、この数日は物凄く苦しかった。


捻挫した当日の夜は鎮痛剤を飲ませて寝かし付けなくてはならなかったし、その翌日も腫れた足首は赤いままでとてもそんな雰囲気にはなれなかった。


さっき確かめた感じだと、足首を動かすことにはほとんど問題がないようだ。


長時間体重を掛けるのは難しそうだから、しばらくはまだ図書館での勤務はカウンター受付固定になるだろうけれど。


「ああいうことでもないと、おまえが俺のことどう思ってるのか聞かせてくれないだろ」


体重をかけないように屈みこんで腕を伸ばせば、未弥は素直に身体を預けて来る。


足首が痛まないやり方なんでいくらでもあるし、彼女の反応を見ながら加減するだけの余裕もあった。


耳たぶに唇を寄せて、髪の隙間に鼻先を擦りつければくすぐったそうに未弥が身体を捩る。


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