第30話 逢魔時-1
開館時間と閉館時間が決まっている未弥が大幅に残業になることはほとんどない。
日勤帯の退勤直前に、貸出カウンターが込み合ってきてヘルプに入ること張ってもせいぜい10分、15分程度である。
本格的な残業は、定期的な蔵書点検の時に発生するくらいだ。
だから、フレックス制で且つランダムで夜間作業の入る朝陽のスケジュールのすべては把握できていない。
週の初めに一週間の予定を大まかに教えられて、あとは変更が発生した都度報告を受けている。
リモートワークの経験がない未弥にしてみれば、家で仕事をするなんて落ち着かない気がしてしまうが、朝陽は慣れたもので、隙間時間に大抵の家事をこなしてしまう。
帰宅した未弥が洗濯物を取り込んで畳む以外は、一通り朝陽が片付けてくれていた。
勿論分かっていた事だけれど、朝陽のほうが家事能力は上である。
おかげで二人暮らしになってから、ウエノマートのお惣菜に頼る事がほとんどなくなった。
週末に大型スーパーで買い物して来た食材で一週間分の献立を作り切ってしまうからだ。
彼が未弥の家事能力を期待してプロポーズしたわけではないと分かっていたけれど、ここまで何もかも完璧にこなされてしまえば新妻としての立つ瀬が無くなってしまう。
朝陽の好意だけにしか寄る辺のない妻だなんて、なんとも情けない限りだ。
大上家で生活していた頃は、年中無休で勝手口の鍵は開けっ放しだったし、酷い時には窓だって開けっ放しだった。
防犯とは無縁でも安全で安心な生活が送れる平和な町に暮らしていたのだ。
が、根岸の一件以降さすがに用心を覚えた未弥は、きちんと戸締りをするようになった。
とはいっても、ベランダに続く窓の施錠を確認する程度だけれど。
急いでいると自宅の鍵を掛けたのかすらあやふやになってしまう未弥を見抜いていたのか、朝陽が選んだ新居がオートロックだったことは幸いだった。
うっかり施錠忘れが防止されるのはとにかく心強い。
そして、未弥が何よりこの新居で気に入っているのがバスルームだ。
浴室乾燥付きの広々としたバスルームは悠々と足を伸ばして入れるファミリータイプバスタブが設置されていて、ミスト機能もあって最高のバスタイムを演出してくれる。
ここで暮らすようになって毎日のバスタイムが楽しみになった。
タブレットを持ち込んで長風呂して、一度だけ朝陽が心配して様子を見に来て以来1時間程度で上がるようにしている。
夕飯の後仕事をするからと言っていた朝陽は、未弥が長風呂から上がった時にはすでに私室に戻っていた。
食洗機が稼働している音を聴きながら、水を飲んで和室に戻る。
現在の未弥の私室となっているそこは、この家で暮らし始めた日に朝陽が選ばせてくれた部屋だ。
結婚=夫婦生活=同衾、と色んな緊張と覚悟で新居にやって来た未弥は、てっきり朝陽の私室でこれから一緒に寝起きするものだと思っていたので、ほんのちょっと肩透かしを食らったような気がした。
が、同時にかなり安心もしたのだ。
朝陽は未弥との結婚こそ急いだけれど、幼馴染からいきなり夫婦になろうだなんて思ってはいない。
籍を入れてから少しずつ夫婦として距離を縮めていけばいい、そう思ってくれたのだ。
焦らなくていいよと言外に告げられて心底ほっとして、おかげで緊張することなく新生活をスタートさせることが出来た。
朝陽のために良い妻になろうと、勇んでアラームをセットすれば、すでに夜の間に朝食の下準備をしていた旦那様から美味しい朝食を供されるという羽目になって出鼻を挫かれて以降、良い妻らしい一面は少しも見せられていないけれど。
ドライヤーとスキンケアを終えて、布団に潜りこんで枕元に読みかけの文庫本を引っ張り寄せる。
引っ越しに伴って厳選に厳選を重ねて選んで来た20冊だった。
朝陽は未弥の部屋の蔵書量を知っているので、車で二往復は覚悟して荷物を引き取りに来てくれたけれど、最初から本を全て持って行くつもりは無かったのだ。
まだ、その覚悟が出来ていなかった。
勢いで始まった手探りの結婚生活だ。
どこかで途切れる可能性だって大いにある。
この関係は、朝陽が未弥を望んで始まったことなので、朝陽が未弥を必要とし無くなれば、簡単に終わらせてしまえるのだ。
未弥が付けた傷が癒えて、朝陽が他の誰かを望む日が来たが、当然未弥は見送らなくてはならない。
そんな日が、絶対来ないとは言い切れない。
だから、すべての荷物をここには持ってこられなかった。
シリーズが続いているものと何度も読み返したお気に入りの数冊、買ったきり手つかずのままの数冊を抱えて玄関先に降りて来た未弥に、朝陽は僅かに眉根を寄せたけれど、何も言わなかった。
どれだけ環境が変わっても、お気に入りの本の一文に引き寄せられてしまえばあっという間に本の世界に迷い込んでしまえる。
うつ伏せになって枕を肘置き代わりに頭の半分を布団に埋めたまま、どっぷりと読書に浸っていたら、いつの間にか日付が変わっていた。
いい加減目も疲れて来たし、読書は終わりにしなくてはいけない。
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