第29話 黄昏時

人生に転機が訪れるのはいつだって突然だ。


予告なしにやって来た嵐に抗えるのは経験豊富な航海士と頑丈な船のみ。


その昔何度も見た、小さなネズミたちが濁流に流されまいと必死に筏を進めるアニメは、子供心に勇気と希望を貰ったけれど、現実問題嵐が自分を飲み込むくらい大きければ、もうどうしようもないのだ。


恋愛は二次元のみで十分だと心に決めたのはいつだっただろうか。


自分の世界だけをしっかり守って生きて行ければそれで十分だと思っていた未弥は、自分が誰かの人生を預かるだなんて、ましてそれが一生続くだなんて夢にも思っていなかったのだ。


結婚とは、未弥の真逆にあるものだった。


だから、32年目の人生で初めて背負い込むことになった朝陽を、全力で幸せにする方法をあの日からずっと模索している。


それが、朝陽のプロポーズに頷いた自分が背負うべき責任だからだ。


「交際ゼロ日婚ってほんとに出来るんですね!」


ドラマみたい!とはしゃいだ声を上げたのは返却カウンターの椅子で足を組み替えた土山だ。


動きやすさよりも見た目の可愛さを重視したシフォンスカートから伸びる若々しくてすらりとした脹脛がただただ眩しい。


「お互い知らない仲じゃないってのが決定打よねぇ。だって朝陽くんずうっとそのつもりだったものねぇ」


とうとう未弥ちゃんも人妻かぁと感慨深げに溜息を吐いた磯上の座る返却カウンターの後ろに空のカートを置いて、未弥は何とも楽しそうな同僚二人を見返した。


「・・・・・・新しい家が、妻帯者用物件だったんです・・・それで話の流れでまあ・・・」


昔のあれこれを言える訳も無いので、どうにか言えそうな内容だけを端折って口にすれば。


「ほんとに用意周到だわぁ」


さすが理系は理詰めで来るわねぇと磯上が嬉しそうに口角を持ち上げる。


セキュリティカードの再申請が必要になるのでそのままにしている入館証の名前以外は、みごとに遠山未弥に塗り替わってしまった。


「で、新婚生活どうなんですか!?朝陽さんってあんまり愛情表現しなさそうですよね?」


「あら、土山ちゃん、それは傍から見たら、でしょう?二人きりになったらわかんないわよ?だって朝陽くんずっと未弥ちゃんのこと好きだったんだから。夫婦二人きりの生活が始まったらそりゃあ色々したいでしょうしねぇ」


「きゃーっ凄い気になります!理系男子との新婚生活っ」


大興奮で返却ボックスから取り出した蔵書を登録していく土山と、これ見よがしにニヤニヤ笑いを向けて来る磯上の視線から逃れるようにくるりと後ろを向いた。


”家族になってよ”とあの日朝陽は言った。


だから、未弥はおずおずとでも頷く事が出来たのだ。


15歳の朝陽を救い上げるような気持ちで、家族になって朝陽を沢山幸せにしてあげようと思った。


ずっと一緒に過ごして来たわけではないけれど、朝陽と未弥にはちゃんとした想い出がある。


あの日から、朝陽がずっとひとりぼっちの孤独を抱えていたことも分かっていた。


朝陽があの頃の郷愁からでも、誰にも見向きもされなかった自分に手を伸ばしてくれたんだから、それはもう全力で答えるべきだと思った。


だから、家族は夫婦、でもあることを、すっかり失念していたのだ。


本当に、18歳の自分は愚かな発言をしたものである。


結婚した二人は、家族ではなくて、まずは夫婦として認められるのだ。


そして、子供が産まれて家族になる。


紙の中のみ恋愛を味わって来た未弥にとっては、この”夫婦”という関係は、かなり、結構荷が重い。


「別に普通です、普通に仲良く暮らしてます」


それ以上に言えることなんて何もないのだ。


ちなみに、遠山夫妻の新生活が普通ではないことは、誰よりも未弥自身がよく分かっていた。


土山が返却処理を終えた蔵書の山をカートに乗せて、大忙ぎでカウンターから飛び出した。


こういう色恋事で話題の中心に立ったことの無い未弥なので、いつボロが出るか分からない。


あの西園寺からのお墨付きを得て夫婦になった二人が、未だにまともな夫婦生活を送っていないとバレたら、面白おかしく噂されるに違いないのだ。


一階の書架に本を戻し終えて、軽くなったカートを押して二階へ向かう。


18時を過ぎた図書室の一階は、仕事帰りの会社員やお迎え帰りの親子連れで賑わっているが、やっぱり二階は今日も静かだ。


淡々と書架に本を戻していく作業は、難しいことを考えずに済むからいい。


朝陽は、未弥がプロポーズに頷いてくれたことに満足したのか、新婚生活が始まっても一気に関係を進展させて来る事はなかった。


入籍日の翌日から始まった遠山家でも生活は、物凄く今まで通りだった。


それはもう拍子抜けするほどに。


『強引に結婚に合意させた自覚はあるから、この先の事は未弥のペースに合わせるよ。奥さん』


そう言って茶化すように笑った彼は物凄く幸せそうで。


実際に、戯れ程度のキスが贈られることはあっても、未弥が対応に困るようなキスは、あのプロポーズの日以来一度も交わしていない。


これが正しいのかどうなのか分からないが、夫婦という関係事態手探りの未弥は、旦那様との距離を測りあぐねている。


ひとまずの救いは、一緒に暮らし始めてから朝陽がいつも上機嫌で幸せそうだということ。


朝陽が嬉しそうなので、未弥は新米妻の自分にギリギリの及第点を出すことが出来ている。


「未弥」


哲学の書架に難しそうな心理学の本を戻していると名前を呼ばれた。


振り向かなくても分かる、朝陽だ。


「あ、おかえり」


結婚してからこちら、朝陽は研究所ラボに日勤帯で出勤する時はいつも仕事帰りに図書館に未弥を迎えにやって来る。


残業になるからと言っても、時間をつぶすと言って二階に上がってしまうのだ。


傾いた本を綺麗に並べ直して出来た隙間に本を収めてから声の方を振り向けば、眉根を下げて口を手で覆う朝陽とばっちり目が合った。


「・・・・・・え?」


彼の表情の意味が分からずに首を傾げた次の瞬間。


「・・・っん」


カートを押しのけて一歩で距離を詰めた彼に顎を引き寄せて唇を塞がされた。


突然の出来事にたたらを踏んだ未弥の逃げた腰を引き寄せて、がっちり腕に抱き込んだ彼が僅かに唇を離して、角度を変えてからまた唇を合わせて来る。


この二週間半で慣れた唇の表面を掠め取るキスでは無くて、かぷりと食んだ上下の唇を舌先で広げて、柔らかい粘膜も狭い口内も味わい尽くすようなキスだった。


忍び込んできた遠慮なしの舌先が奥に逃げた未弥の舌をぐるりと絡め取って柔らかい表面を優しく舐めた。


泣きたくなるような感覚が広がって慌てて目の前の腕を掴んだ。


ただでさえ人の少ない二階のスペースは静かで零した吐息が耳元で大きく響く。


膝から力が抜けて行く直前で唇を離した朝陽が、珍しくしょげた声を零した。


「ごめん・・・・・・嬉しくて」

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