第25話 夕暮れ-1

朝陽の祖母が老人ホームでずっと愛用していた湯呑は、朝陽が小さい頃敬老の日にプレゼントしてあげたものだ。


ケアマネジャーの未弥の母親に、何度も朝陽の祖母が嬉しそうに自慢していたことをよく覚えている。


その時の朝陽はというと、膨れっ面になって祖母の手を引いて早く家に帰ろうと耳まで真っ赤にしていた。


父の日も母の日もやって来ない彼にとって、敬老の日は恐らく一年で一番特別な日だったんだろう。


自分の誕生日以上に。


分かりやすいおばあちゃん子ではなかったけれど、彼がいつだってたった一人の肉親を大切に思っている事は伝わって来た。


どれだけ素っ気ない言葉を発しても、ぶっきらぼうな態度を取っても、根っこの部分で朝陽は素直だし、とても優しい。


そんな朝陽だから、どれだけ年を重ねても、距離が開いても、放っておけないと思ってしまうのだ。




クッション素材の厳重包装を解いて取り出した湯呑をずずいと朝陽に向かって差し出す。


「ありがとう。懐かしいな、これ」


「ずうっとうちの食器棚で眠ってたからね。小学生にしては素敵なセンスだよ」


梅と桜が散りばめられた女性らしいデザインの湯呑は、朝陽の祖母の小さな皺の酔った手のひらにぴったりのサイズだった。


大切そうに両手で湯呑を持って微笑むどこか面差しの似た朝陽の祖母を思い出す。


折角始まった新生活なのだから、しんみりするのは嫌だなと思って、ぐるりと広いリビングを見回した。


確かに荷物は引っ越し直後よりは綺麗に片付いている。


南向きで日当たり抜群の14帖のリビングは、壁掛けの大きなテレビとL字型のカウチソファがどんと鎮座している以外は壁側に設置された無機質なタワーキャビネットが置いてあるのみ。


荷物は減らして越して来るとは聞いていたけれど、一人暮らしで3LDKはさすがに大きすぎたのではないだろうか。


湯呑を持って立ち上がった朝陽が、タワーキャビネットの前まで歩いて行って、一枚だけ飾られた家族写真の前にそれをそっと置いた。


3歳くらいの朝陽と両親、そして祖父母が映っている写真だ。


立ち上がって彼の隣に並んで、目線のちょっと上にある懐かしい写真を覗き込む。


朝陽が本当に子供のままでいられた幸せな頃の一枚だ。


「ねえ、ちょっとこのリビング殺風景すぎない?せっかく広いんだから観葉植物置くとかさぁ、なんかもうちょっと華やかにしたら?こんな新しいマンションに住めるのに勿体ないわ」


生まれてこのかた実家から出たことの無い未弥にとっては、家具もカーテンも選び放題の新生活なんて羨ましいの一言に尽きるのに。


角部屋なので、リビング横の和室も、廊下沿いに二つ並んだ洋室も、すべての部屋がバルコニーに繋がっている住み心地の良さそうな朝陽の新居は、今の所和室は空っぽ、玄関横の洋室は荷物置きになっていた。


和室と玄関横の洋室に挟まれた真ん中の洋室が朝陽のプライベートスペースになっていて、ベッドと電動昇降機能が付いているL字型のデスクが搬入されたことしか未弥は知らない。


いくら幼馴染とはいえ、彼が仕事でも使用する部屋に入るわけにはいかなくて、結局片付けはキチンを中心に任されていたので、彼の新居=殺風景という印象がどうしても拭えていなかった。


「そのことなんだけどさ」


改まった様子で切り出した朝陽が、ちらりとこちらを一瞥して来た。


「うん?近くの家具屋さん見に行ってみる?」


「いや、そうじゃなくて。あのさ、未弥。おまえ昔、俺が寮に行く朝、新幹線のホームで言ったこと覚えてる?」


覚えてるもなにも、一生忘れられない台詞だ。


大好きだった祖母を失くしてこれから一人で全寮制の高校に入る朝陽に向かって、未弥が放った押しつけがましい偽善に満ちた一言は、恐らくこの先もずっと一番の汚点になるだろう。


「・・・・・・うん、覚えてるよ・・・っていうか、忘れる訳ないでしょ・・・・・あの日のこと、ちゃんと謝れなくて・・・ほんとにごめんね・・・考えなしだった」


次に戻って来た朝陽は未弥の発言については一切言及することなく、今まで通りの態度だったので、未弥としてもわざわざ苦い過去を引き摺り出したくなくて無かったことにしていたのだ。


10年以上経って遅すぎる謝罪を口にした未弥の申し訳なさそうな言葉を受け止めた彼が、どうしてか嬉しそうに笑った。


「じゃあさ・・・・・・・・・昔言ってくれたあの台詞ってまだ有効?だったら俺と結婚してよ」


彼の口から飛び出た不似合いな一言に、一瞬呼吸の仕方を忘れた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・っっっは!?」


限界ギリギリまで息を吸わずに吐き出せたのは短い一言のみ。


「・・・・・・未弥がそういう反応するのは分かる」


「朝陽、あんた何言ってんの?結婚だよ?馬鹿なの!?」


「馬鹿じゃねぇよ」


顔をしかめた朝陽がきっぱりと否定して来た。


彼のIQを考えれば馬鹿ではないことは確かだけれど、彼が口にした一言は馬鹿としか言いようがないものだ。


「分かった!ファミリータイプのマンションに引っ越したら寂しくなったんだ!?うっかり私にプロポーズしてないで、ちゃんといい人探しなさいよ。朝陽なら引く手あまたでしょ?メディカルセンターに可愛い子いないの?」


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