第70話 西河祐希の欲望
「……もういいんじゃないの?」
「もうちょっとだけ」
「いいけど……髪の毛ベタベタになってない?」
「大丈夫よ。後でちゃんと拭くから」
答えになってない……。
春休みの初日、毎度の事ながら芦塚さんが家にやって来た。
ここに座れと言われるがままに芦塚さんの足の間に座らされたと思ったら、何を思ったのか彼女は僕の髪の毛を食べ始めたのが10分程前の事である。
食べるといっても本当に口にくわえたり噛んだりしているだけで、本当に胃の中に入っていっている訳ではないけれど、それでも不思議な気分にはなってしまう。
……そんなに楽しいのかな?
春休み前にこの話題が出た時は僕もやり返すつもりでいたものの、いざとなったら言えるはずもなく、されるがままに髪を差し出すことしか出来なかった。
だってほら、髪は女の命って言うじゃん?
僕の髪の毛は一山いくらの価値もないけど、芦塚さんの髪の毛は金よりも価値があると言っても過言ではない。
それを僕の口で汚すだなんて……ダメだと思います!
「……もう満足よ。じゃあ拭くものを持ってくるから少し待っていて」
「ベタベタになってないならそのままでもいいよ? 別に家から出ないし」
「……いいから待っていなさい」
ベタベタにされたのか……。
芦塚さんが席を離れたので食べられていた自分の髪の毛に触れてみると、ベタベタとまではいかないものの、多少しっとりとはしていた。
これが芦塚さんの……何でもないです。
戻ってきた芦塚さんは濡れたタオルと乾いたタオルで僕の髪を丁寧に拭いてくれた。
「結構長いことやってたけどさ、髪の毛噛んでて楽しかったの?」
「そうね……自分のことなのに気持ちをちゃんと表現できないけれど、どちらかと言えば楽しかったわ」
「そうなんだ……なら良いんだけどさ……」
楽しんで貰えたのなら、初めて髪を伸ばしていて良かったと思えるかもしれない。
洗うのも乾かすのも面倒くさいから短くしたいと思うけど、短くしたら僕のアイデンティティーがクライシスなのだ。
僕から女っぽさを取ったら一体何が残るというのだろうか……。
「今更なのだけれど、あなたって本当にやられたい放題よね。嫌だったりしないの?」
「ん? これくらいなら全然嫌じゃないよ」
「そうなの……ねえ、逆にだけれど、あなたがしたいことって何かないの?」
芦塚さんに抱きかかえられたままでの会話は続く。
「と、言いますと?」
「ほら、私は普段からあなたにやりたい放題している自覚はあるのよ。でもあなたから私に何かを求めることって、これまで一度も無かったでしょう?」
「あー……確かにそうかもね」
僕が芦塚さんに何かする……?
恐れ多いを通り越して不敬罪で首と体がお別れしちゃいそう。
「これまでは難しかったと思うけれど、今なら何かないの? 私にしたい事とかして欲しい事とか」
「何かと言われても……僕は芦塚さんが一緒に居てくれるだけで十分幸せだから」
これ以上を望むというのは高望みだろう。
だってこんなにかわいい子が僕の事を好きだって言ってくれてるんだよ?
気の利いたことの一つも言えない男らしさゼロの僕に。
ちゃんと構ってくれてるだけで十分楽しいし、家に来てくれるだけで僕は有頂天なのだ。
芦塚さんの綺麗な顔をが見たくなったので振り返ってみると、何故だが彼女は悲しそうな目をしていた。
「私は恋人にそう言われて真に受ける程駄目な女じゃないわ。でもそうよね……あなたは誰かに甘えたことが無いからやり方が分からないのね。大丈夫よ西河君、私はちゃんと受け止めてあげるから……」
「や、やめてよ! 僕をそんな可哀想な人みたいにしないでよ! 元からこういう性格なの!」
確かに一般的でない家庭環境で育った自覚はあるけど、それとこれとは関係ないと思いたい。
「あなたはそう思っているかもしれないけれど、人の好意や優しさに触れてこなかったからこそ、どこまで甘えていいのか分からないんじゃないの?」
「そんなことないもん! 僕だって人に優しくされたことあるもん!」
「本当に? 私以外の人に?」
どうしてそこまで疑うの……?
「沢山あるよ! 例えばー、中学の時に毎日使ってたコンビニの店長さんに『お嬢ちゃん毎日来てるけど、もっとちゃんとした物食べないと駄目だよ?』って言ってもらったんだから。あれは嬉しかったなぁ……」
それを言われてからは他のコンビニにもちょこちょこ行って心配させないようにしたっけ。
あとはここに住めているのも、母親の優しさが爪の先くらいは入っているかもしれないし。
すごい顕微鏡を使えば多分確認できると思う。
「優しくされた話で真っ先に出てくるのがそれなのね……思ったよりも重症かもしれないわ」
「大丈夫だよー」
「大丈夫じゃない人程大丈夫だと言うのよ。本当に何かないの? あなたがどんな欲望を抱えていたとしても、出来る範囲で受け入れるつもりよ」
「んー芦塚さんにして欲しいことかぁ。無いとは言わないけど……でもなぁ……」
僕だって思春期ちゃんなのだ。
女の子にこんな事を言ってもいいのかが心配だし恥ずかしくもなる。
しかも相手が相手だから引かれるとそのまま命に関わりかねないし。
「いいから言ってみて? 流石に鎖で繋がれて監禁されたり、気を失うまで殴られるのは困るけれど……出来る範囲で意見を擦り合わせたいとは思っているから」
「そんな事言わないし、したくもないから安心して?」
この人は僕のことを何だと思っているの?
やる訳ないじゃんそんなこと……。
「あなたが何も言わないから余程特殊な性癖でも持っているのかと思ったのだけれど。そうでないなら早く言いなさいな。かわいい恋人があなたの言う事を聞いてあげたいと言っているのだから、それを叶えてあげると思えばいいのよ」
「なるほど……」
僕も普段、芦塚さんがやりたい事をやらせてあげているという自己満足を感じていないと言うと嘘になる。
相手から何かを求められるのは、相手からの信頼の証であったり気を許して貰えていることの証明でもあるから。
だからこそ芦塚さんが僕にやりたい放題なのは嬉しいし、過激な愛情表現もドンと来いだと思っている。
僕から芦塚さんに何も求めない事が彼女を不安にさせているのかもしれない。
それはマズイね……。
「よし……じゃあ前からお願いしたい事があったんだけど、いいかな?」
「ええ。何でも言ってちょうだい」
ドンと構える芦塚さんと向かい合う為に座る場所を変えて正座に直り、僕は意を決して口を開いた。
「……芦塚さんのコスプレが見たいです!」
「そんな事でいいの? いいわよ」
僕としては結構な覚悟を決めて話したつもりだっのに、芦塚さんからはあっさりな反応が返ってきた。
「えっ……いいの? もっとドン引きされると思ってたのに」
「別に引かないわよ。私もあなたが文化祭でコスプレをしているのを見て楽しかったし、気持ちは分からなくもないから」
「芦塚さん……!」
やだ男前……。
「じゃあ早速調べましょうか。私もどんな物があるのか見てみたいし」
「それには及ばないのです。実はこんなこともあろうかと、既に用意した物がございます」
「……準備がいいのね」
先程までの和やかな雰囲気は何処へやら、芦塚さんの目つきが厳しい物へと急変した。
引かないって言ったのに……。
「僕の部屋にあるから、少し準備してきますねー……」
彼女の目があまりにも恐ろしくて、僕は逃げるように寝室へ足を運んで隠しておいた三つの衣装を部屋に並べて戻ってきた。
「じゃあ部屋に用意してきたから、芦塚さんは着替えたらこっちに戻ってきてね。そして撮影会を行います」
「写真を撮るのは構わないけれど、人には見せないのだけは約束してもらうわよ」
「大丈夫。約束します」
「はぁ……じゃあ行ってくるわ」
芦塚さんは呆れながらも僕の部屋へと姿を消した。
あなたの写真を人に見せる訳ないじゃん!
コスプレしてる芦塚さんの写真なんて、地域によっては戦争の火種になるレベルだよ。
それに僕は大切な物程人には見せたくないのだ。
醜い独占欲に浸りながら待つこと数分、ドアがガチャりと音を立て、僕の心臓が飛び跳ねた。
「……どうしかしら? 変じゃないといいのだけれど」
「ふあああぁぁ……!」
リビングに戻ってきた芦塚さんはゴシック調のメイド服を本当に見に纏っている。
あまりの美しさに僕の口から妙な声が漏れてしまった。
ロングスカートは芦塚さんの長い髪によく似合っていて、肩のフリルやカチューシャは普段はクールな芦塚さんを可愛らしく飾っている。
「芦塚さんかわいい! えっ、本当にかわいい……こんなメイドさんが居たら家から出れないじゃん……」
「あなたが家から出ないのはいつも通りよ」
「将来メイドさんにだけはならないでね……ご主人様に一発で手を出されて奥様から目の敵にされちゃうよ……」
「ならないから安心しなさい」
「はぁ〜……好きぃ……」
それからもかわいいと好き以外の言葉を忘れた僕は、あらとあらゆる角度からメイド姿の芦塚さんを写真に収めた。
次があるとは思えないから、可能な限り撮っておかないと……!
「……もういいかしら? 流石に恥ずかしくなってきたのだけれど」
「名残惜しいけどこれくらいにしておこうかな」
「あなたの目が血走っていて少し怖いわよ。大丈夫?」
「大丈夫だよ! さあ次にいこう!」
「やっぱり大丈夫じゃなさそうね。私が言い出したのだから、今日は最後まで付き合うけれど」
「ありがとうございます!」
ホクホクな僕とは対照的に、芦塚さんは少し疲れた顔をしている。
それでもまだ続けてくれる芦塚さん好き……。
世界一かわいいメイドさんがお色直しの為にリビングから出ていき、興奮冷めやらぬ僕は一人取り残された。
それにしても芦塚さんのメイド服は凄かったなぁ……。
撮った写真を見ながら気味の悪い笑みを浮かべていると、再びリビングのドアが開いた。
「あなた、かわいい顔してこんな趣味があったのね。意外だわ」
「…………」
「な、何か言ってもらえるかしら……私だって恥ずかしいのよ?」
赤いチャイナドレスを着た芦塚さんは、恥ずかしそうに身をよじる。
けれど僕の心境はそれどころではなかった。
「やだ……芦塚さん似合いすぎ……中国人でもここまで似合う人いないでしょ……それにしても足長いねぇ……」
「相変わらず足が好きね。褒められて悪い気はしないけれど」
「ちょっ! そんな妄りに見せたらダメだよ! くっ、静まれ僕の心臓……!」
胸元を手で握りしめて膝をつく僕を、芦塚さんは楽しそうに見下ろしている。
しっかりしろ僕! 早く写真に収めるんだ!
息も絶え絶えなままスマホを持って立ち上がり、最後の気力を振り絞って写真を連写する。
僕が弱っているのが嬉しいのか、芦塚さんは先程よりも楽しそうだ。
彼女の楽しそうな姿を見ていると僕も自然にシャッターボタンを押す手に力が入る。
「芦塚さん綺麗だよ! スタイル抜群だしスリットから伸びる足は国宝級! これを見たらどんな綺麗な花も顔を背けちゃうね!」
「あなたは何を言っているの? ちゃんと日本語を話しなさい」
「凄いなぁ……かわいいなぁ……」
言語能力に著しいダメージを受けつつも、チャイナドレスの撮影会は無事に終わった。
この写真集を発売したら国家予算くらいは組めそう……。
「このニつはまだ理解できたのだけれど、本当に最後の一つも着ないと駄目かしら? そもそも、あれを着た私を見たいの?」
「超見たい」
「……分かったわ」
言いたい事を飲み込んでくれた芦塚さんは、重い足取りでリビングを出て行った。
あれってそんなに変なのかな。
何ならチャイナドレスが一番おかしいと思うんだけど。
しかし凄い枚数の写真になってきたな……パソコンとUSBメモリにも保存してクラウドにも保管しておこう。
ひとつなぎの大秘宝の中身はこれだったんだ……。
そりゃー海賊達も命を賭ける訳だよ。
暫く待っていると、遂に最後の衣装を身に纏った芦塚さんがリビングへと戻ってきた。
「これを着たあなたを、私が見たいと言う方が自然ではないかしら? どうして私が着ているのよ」
「おー! やっぱり似合うね!」
最後に着てもらったのは、僕の中学時代の制服だ。
もちろん女子用である。
僕にとっては見慣れた普通のセーラー服だけど、芦塚さんが着ているだけで特別な衣装に早変わりだ。
やっぱり服は何を着るかじゃなくて誰が着るかなんだよなぁ……。
男という生き物は制服が好きなのだと秋元先生が教えてくれたし、中学生の制服を着ている芦塚さんをかわいいと思うのは自然なことなのだ。
よし、早速スマホを構えてシャッターボタンを連打しよう。
「いつもの学校の制服姿もかわいいけど、こっちもかわいいね。こんなの違法中学生じゃん!」
「私は高校生だから違法なのは間違いないわね」
前の二つと違って見慣れた服だから、今回は僕のテンションぶち上げとはいかなかった。
感動はしたし、本当にかわいいと思うけど、前の二つが異次元のかわいさしてたからね。
……それにしてもこの人かわいいな。
「普段よりもスカート丈が長いと落ち着いて見えるね。芦塚さんはもっと足を隠した方がいいんじゃないの? 健全な高校生には刺激が強すぎると思う」
「あなただってスカートの丈は短いじゃない。あれも大概不健全よ」
「男の足なのに……」
「男のものに見えないから問題なのよ」
「それは認めましょう」
黒色の毛の一つも生えていない僕の足はどう見ても男のものには見えない。
何なら僕よりも足の太い女子は沢山居ると思う。
運動部であったり元々体格の良い女子も居るからね。
筋肉が全く付かない体質の僕は、枝の様な足を世間に見せびらかしている。
芦塚さんの足の方が綺麗だけどね!!
「じゃあこれでお終いね。あなたのテンションがおかしくなってしまうから、暫くはお預けよ」
「こんなの頻繁にやられたら心臓が保たないよ……」
「次はあなたに何か着てもらおうかしら。私も考えておくわね」
いやー今日は楽しかったなぁ。
全部かわいかったけど、やっぱりメイドさんが一番好きかも。
家ではずっとあの格好でいてくれないかなぁ……。
「それとは別に、今度はあなたが私のお願いを叶えてね?」
「別にいいけど、何か特殊なお願いでもあるの? まさか……本当は芦塚の方が僕をボッコボコに殴りたかったの……?」
「そんな趣味は無いから安心しなさい。その時になったら教えるわ」
「怖いなぁ……」
怯える僕を捕食者の目で見つめる芦塚さん。
その微笑みが怖いのよ……。
蛇に睨まれたカエルは、蛇の気が変わることを祈ることしかできないのだ。
げろげーろ。
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